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はるか昔に、テトリスというゲームが作られた。
画面の上の段から一定の形をしたいくつものブロックが一つずつ降りてきて、それを横一列に揃えるとブロックの列が消える、一つでもブロックが埋まっていないと烈は消えずに次のブロックが降ってくる。これを繰り返して、ブロックが落ちてきて天井に触れてしまうかうまくブロックを揃えて列を消していくかが、このゲームの楽しいところだ。
ブロックは天井から姿を表すたびに形を変えて、列一段一段をゆっくりと落ちてくる。
落ちてくる時間は、最初はゆっくりだがそのうちレバーの操作も間に合わないくらい早くなってくる。
その速さに打ち勝ってでもブロックを揃えて列を消すか、うまく揃えられずにブロックを余計に積み上げてしまうかはプレイヤーの腕と采配だ。
それは日々の過ごし方にも似ている。
上から順に落ちてくる日々の出来事、タスクややりたいこと、やらなきゃいけないことが永遠に降ってくるわけだが、自分たちはそれを自分でうまく消化できるように自分の私生活上に積み上げていく。
テトリスと違ってブロックの積み方は自由だし天井の高さも見た感じでは無限のように見える。
けど、無限に見えて無限ではないというのは生きていれば大体の人はそれを感じるものだと思う。
ブロックに押しつぶされた人の話を知っているだろうか。
その世界では、全てがブロックで梱包され、やることやりたいこと、やらされること、やらなくてもいいこと、それから変わったものだと『やれないこと』もすべてブロックで梱包されていた。
近未来SF世界でよくある、飛行ドローンでそれらは利用者のいる場所の真上に配送される。
イメージ的には、アマゾンの倉庫を考えてもらってもいい。その世界はとても狭苦しく生きにくい世界だったと思うが、感情さえ無くしてしまえばそれ以外はとても合理的な世界観だったゆえ、意外と生きやすいところでもあった。
その世界では、悩みと感情を持つことはある種の病気とされていた。
すべての概念が可視化された世界だと、人々は例えば人間の生き死に、倫理に接触するギリギリの選択さえもを短時間にかつ正確に処理するようになっていた。
ブロックが絶え間なく降ってくる世界では、合理性と時間のロスを減らすことが自らの生活に直結していたからだ。
余計なブロックがあって、それを未解決のまま家の中に置いておいたら、困るのはその家の持ち主だからだ。トイレの前に大きなブロックが積まれていたら気絶するしかない。
そういうわけで、その世界では合理性と最適解がなによりも尊重され、優先される世界になっていた。
その世界にも病人がいたわけだが、彼らはこの空から降ってくるブロックをうまく対処できず私生活に支障をきたすタイプの人々だった。
そのまま彼らを放置して見殺しにするのも手ではあったが、ブロック世界の住民達は彼らを福祉で手厚く保護することにした。
言い分によると、感情を排しきれない非合理的な人間に不満と自由を与えると、放置して得られる利益を上回る損失を被るとされる、からだった。
それからブロック世界での非合理病の市民達は隔離施設に収容され、空から絶え間なく降ってくるブロックの数を数えるだけで何もせず過ごすようになった。
ブロックに押しつぶされて死んだのは、この非合理病患者を献身的にケアする職員だった。
なんでも非合理病の市民が、職員の上に落ちてきたブロックを阻もうとして自分のブロックをかすらせてしまったらしい。
ぶつけてしまえばまだよかったものを、その非合理病の患者は、あえてブロックを全力でぶつけないで掠らせたそうだ。
理由を聞いたら、ぶつけることに迷いがあったからだと答えた。
だがその患者の答えも、どうも明確な様子ではない。
ブロック世界の住民達は、病人を屠殺するべきだという意見と残すべきだという意見に分かれた。
合理的に考えれば、まず病人達に健常者を無為の罪で殺したことへの連帯責任を問い、それを周知させ罪の意識を抱かせてから一気に処刑するのがもっとも合理的なはずだ。
私はブロック世界の住民に、罪と自由と混沌こそが人の本質なのではないかと聞いてみた。
彼らにいわせれば、最初に処刑されるのは私ということになったらしい。