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一人でピアノを弾く男

10/1


男はとくにピアノが上手いわけではなかった。
昔からある曲が好きだった。
どこかで見たピアノマンのマネをしてペダルや鍵盤を弾いたり蹴ったりしているうちに、これなら自分でも曲を弾けるんじゃないかと思った。
男は、曲を弾いてみることにした。そのうち必要になったから、お手製の楽譜を作って用意して、目の前に掲げた。
男は何度も同じ譜面を弾いた。
自分で作った楽譜を何度も何度も弾いた。
弾く量は他の人よりも少ないかもしれない。とうぜんレパートリーも少ない。男は、自分で作ったたった一個の楽譜しか弾けなかった。

男は楽譜で風を表現したかった。月や空を飛ぶ雲や、風に揺れる葦の葉や虫の鳴き声を表現したかった。
男は次第に、自分の指の先で鍵盤に触れるときの力の加減に気がついた。
その差は些細なもので、聞いているものにはきっと伝わらないほどの機微だっただろう。だが男にはそれが重大な何かに思えてしまって、その加減の差異を耳で感じて聞き取るために、目を閉じてしまった。

全神経を指先に集中して、今ある鍵盤にすべてを注いだ。
男は何度も同じ譜面を弾いた。
何度も同じ箇所を弾き続けた。
バカみたいに、曲にすらなっていないのに何度も一節だけを繰り返した。


ピアノはすでに弦が伸びきって、正しい音が出なくなっていた。
弾いても満足な音が出なくなっているのに、男はピアノの調律をしなかった。

長い時を経て、楽譜の文字が掠れて読めなくなった。
男はもう楽譜を必要としなくなっていた。
自分が作った曲を、自分が満足するように、自分流にアレンジして自分の耳で聞いて自分が納得できる形で、自分だけが、自分の曲を理解できる形で、自分で弾いて自分で聴いて自分で満足して。

ただそれだけを、何年も繰り返した。
気づけば自分も周りの世界もずっと変わってしまったし、この狭い世界は永遠に続くと思っていたのが、世界も時間も有限で、もうすぐ自分もこの世界も消えてしまうと悟った時には、男は目を開くことも満足な演奏もできなくなっていた。



残ったのは年を取り音も狂った古ぼけたピアノと、同じ音だけしか鳴らせない哀れな男一人だけ。

元々この楽譜の元になった曲は、二人で弾くものだった。
男はそれを、最後まで理解できなかった。

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