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主よ人の望みの喜びよ

宗教歌はとても心が安らぐ。
それだけ気持ちが緊張した1日だった。
今までずっとそうだったし、これからもきっとそう。

自分は良いことをできていない。
人に見つかれば責められどやされる、そう思うと身がすくむし、安らぐ場所は布団の中で寝た後か、朝起きて、まどろみの中ですべてをわすれてぼんやり物思いにふけっているときか。

宗教はいい。
神に身を捧げた者は、神に我が身をお使いくださいと祈り善業をなす。
それ善業か? と思うこともあるけれど、そうなんだと信じている者にはたしかに救いがもたらされる。

いちいち誰かの目を気にして身をすくめる必要がないというのは、とても健康にいい。
粗食とか暴食とかオーガニックだとか自然食品だとか言う前に、もっとも健康的なことは、他人に後ろ指を刺されているんじゃないかなと、そういう妄想なのかそれとも事実なのか、そういう悪い思いに身を縛られないことだと思う。
スパイスは体にいいとか、お香は気分をリフレッシュするとか。
違うそうじゃない。
余計なことを、しない、言わない、気にしない。

人生をもっとシンプルに、楽しく過ごせればいいなと思う。

何も気にしない。開き直りのもっと先。
そのずっと先にある、気にするものが何もない、そういうシンプルな人生に憧れる。


抑圧されたもの特有の、陰気でプライドが高く捻くれていて、人を疑い、騙し、攻撃的で、与えられたものを独り占めにしてそのものを活かさず、そういう損ばかりする人生に嫌気がさした。

会社と会社を行ったり来たり、不安ばかりが雪だるま式に増えていき、アルコール摂取量は増え、世の中嫌なことばかり見えていた気がする人生が、ぼやけ、見通すこともできず、もっと下方向しか見なくなった気がする。
それでも生きたいという欲求はあの頃と変わらず。
あるいは、前より強くなっているかもしれない。


作家志望とは名ばかりの、小説を書く量は劇的に減り、企画書を書く量もままならず。


そう。
ボタンのかけ違いという概念をつい最近見つけた。
自分の書きたいものを自分が描きたいように書くボタンと、自分が読みたいものを探し出しそれを期待しながら読むボタンの穴。
その双方がうまく収まって、初めて「良い読みもの」は存在できるのかなと。
片方だけあってもダメ。
読者の読みたいものを想像するのは難しい。
ではあの頃の。読み専の、あの自分自身ならどうだろう。
読みたいものがあると思う。
では自分が書きたいものは?

こういうところを見てほしいと、あの頃の自分に、書きながらもそう願えるものは?

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