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消費財でポン2

荻野真「孔雀王」
 黄泉御前(よみごぜん)
 クレオールな関係は要検討。排除はしない。フェティシズムをデフォにして、神道はほったらかして、聖霊をソレと解釈して、ぢゃあブラフマンをナニして、とか。クリスチーナ火場さんは、頭蓋骨でなんぞをやってゐるのであった。頭蓋骨信仰はけっこうあるので参照。

 スサノヲ。といふ独立した神様がどうたらといふのは著作権の関係で排除。ススム、スサム スサといふ語で表される、マナのポテンシャルと解釈する。折口信夫説がさういふ奴の筈。なので英雄のみがもつ霊のステージであり、ヤマトタケルが兄をやっつけるシーンなどで出てくるとか解説。

 藝能人はかつてワザヲキであったといふ。白川静説で、俳優の俳の字は「太夫と才蔵のような」漫才と言ふから人偏に声符だけど「にんべんにハリセン」でも当たらずとも遠からずらしい。優は、死者の前で憂ひの意思を示す様を表し、憂ふ劇、ざっくり「バナナの皮に滑って転ぶ」からマクベスまでを表すらしい。みなもと太郎説で、「悲劇と喜劇はキャラクターと客との距離の遠近に過ぎない」と言ふのが、小谷野敦説で「マクベスは悪者がやられるので喜劇」といふのがある。天うづめは、マナ・アーティファクトとしての槽(特殊なので「ウケ」といふ)へ太陽神のマナを召喚はする。太陽を喚起しない。ワザは超自然のなんぞで、それを招く(をく)のがワザヲキである。サモナーに持ってきたい。あとワザヲキの神たぬきをなんとか。

 かの作品なら別にいいが、湯桶読みはなんとかする。トコヨミサキかクワウセンゴゼンかなんか。出雲の歩き巫女を使ってどうのかうのは、PCに照らして却下するか、「外回り系のかんなぎ」といふ必殺技を何とかするか。

 七福神 毘沙門天弁天大黒天(東寺の夜叉神はこの三神合体)は北、夷は西も可能だけど(の場合は戎)東、福禄寿寿老人(福禄寿は三つの星の合体したもので、寿老人はその星の一つ)が一応南、布袋和尚は弥勒菩薩の化身で、「しろくてでかくてじじむさい」ため西。の筈。ネタ元の『帝都物語』で、ニンギョウトビケラの幼虫による巣の、七福神ぽい者を集める信仰が、加藤保憲にとって一応脅威なのでそれを、加藤さんがなんとかってそれを拾ふ幼女へ甘言弄して近づいてあの。 

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