北野武監督の『首』を、映画館で観てきました。暗い映画館で、エンドロール見ながら「久しぶりに気分がスカッとした……!』と、72歳の老婆は呟いてしまいました。自分は本当に北野武の感覚が好きみたいです。
自分の好きな北野武の感覚って、言葉で表せば、いったいどんなものかとずっと考えてきました。以前に読んだある評論家の<乾いた生死観>という言葉がふさわしいと、今まで思っていたのですが…。
今回、『アウトレイジ』以来久しぶりに彼の新作映画を観て、そしてまたその間に自分もカクヨムで小説を書くようになって、自分が北野武に惹かれるのは、<乾いた生死観>ではなく<乾いた善悪観>ではないかと考えています。
人は生まれた限り、死を迎えるまで生きていかなけばならないとは、70歳も過ぎてつくづく思うことです。生と死は表裏一体であるとは、厭世観の強い私としては常に考えてきたことです。しかしもうこの歳になると、自分から死を望まなくても、死はすぐそこにあると思うと、若いときのように死について考えることはなくなりました。いまは、人は生まれた限り、死を迎えるまで生きていかなけばならないという不思議について考えています。
この歳になっても煩悩は消えず、若い人には信じられないことでしょうが、棺桶に片足を突っ込んだ状態の老人であっても、人間関係にお金に健康にと面倒なことだらけです。それでも足搔いて生きている自分やまわりの人々を見るにつれ、生死観どころか善悪観さえも人の生の根底にはないとつくづく思うようになりました。
カクヨムで小説を書くにも、極力、善悪は持ち込まないようにしています。登場人物たちの行動は、善だから悪だからというのではなく、「その時に、そうしなければならないと、彼らは思ったからそうする」という流れになるように心がけています。
まあ、世界の北野武監督と、あの世からのお迎えが来るまでの時間つぶしにカクヨムで小説もどきを書いている自分とを比較するなんて、お臍がお茶を沸かすくらいに可笑しいことであるのですけれど。