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バックログ「最大の敵対者、週末について」


 思うに、人類にとって最大の敵は「退屈」なのではないか、と。
 それが終末をもたらす存在。ちなみにタイトルは誤字ではない。

 最近……というか、ここ近年、異世界もの……ファンタジー的なものを書く際、「ラスボス」的な存在について考えると、どれもこれもなんとなく、いわゆる「黙示録の四騎士」に行き着く。つまりは世界の終末、それをもたらす存在。まあ最終的なラスボスは「神」的なものになるのだが。

 四騎士とは何か? 黙示録の内容を解釈したり付け加えたりするとなんか呪われるらしいのであまり深くは考えないのだけど、モチーフとしてはたいへん魅力的で。
 まあなんにしろ、それは「災害」的なものなのだと思う。それを「倒すべき敵」として考えるのは自然な流れ。でもなんというか、敵を「外」に置くというのは、ご都合主義というか、そいつを倒せばハッピーエンドという安易な回答というかで。

 そこで最近考えるのは、「真に打倒すべきは人類の中にあるもの」というもの。分かりやすくいえば「七つの大罪」とか、そういうモチーフ。
 しかし、こちらも割とポピュラー。だからこそ、というのもあるけど。

 もう一歩進めて、人間の持つ三大欲求というものにフォーカスしてみる。まあそれも「大罪」に含まれる訳ですが。
 いわく、暴食、怠惰、色欲。貪食とか淫蕩でもいい。つまり食欲、睡眠欲、性欲。生きるため、人類が存続するために必要な欲求、本能。
 しかしこれらが行き過ぎると、罪になる。身を滅ぼす。

 食べ過ぎれば太るし病気になるし、食糧資源を食い尽くす。必要以上に食べるということは、必要としてる人に食糧がいきわたらなくなるということも意味する。食べるために動物を殺すというのは仕方なくても、「必要上」に殺しまくるというのはやっぱりアウトだろう。
 
 怠惰、働かないこと。イコール睡眠というのはあれだけど、寝てばかりで何もしない、そういう輩がいると社会が回らない。何もしてないのに利益だけを享受するとか、そういう人がいるぶん、休みなく働かなくてはならない人が出てくる。休日こそサービス業が必要とされる理屈、というのはちょっと違うか。

 性欲が強いっていうのは特に言わずもがな犯罪に繋がる。あとやりすぎも体に悪いはず。性欲、生殖っていうのは子孫を残す、種を後世につなげるためのもので、それを趣向品のように消耗するために用いるのは、食欲の「食べるために殺す」に近いものがあるように思う。満足のために生命力を浪費する。他人に危害を加えて、望まない命を生み出すことにも繋がるだろう。

 そうした三大欲求で、これは「限りがないもの」みたいに言われがちだけど、実際のところそうではない。食べまくれば満腹になるし、いつまでもは寝ていられないし、性欲もやっぱり満足がある。休みを挟めばまた欲求が復活するにしても、「満足する瞬間」というのは必ずある。飽くなき欲求ではあるが、限りないものではない。
 だからまあ、こうした欲求っていうのは供給さえ出来れば満たせるもの。しかし「求める内容」がどんどん過激になっていく、という意味で「限りない」というのはあるのだろうと思う。味に飽きるというのはあるし、より強い刺激を求めることもある。寝ることに関してはそういうのはなさそうだけど、「楽して稼ぐ」という方向で考えれば、まあ過剰になりえそう。そういう際限なき欲求が身を滅ぼし、やがて世界を滅ぼす、と。

 上述の「四騎士」は思うに外的要因というか、社会を滅ぼす、社会に影響するもの、だと思う。戦争とか疫病とか、個人単位では小規模だけど、集団になると大きな影響力のあるもの。
 一方でこの三大欲求は個人単位から生まれて、個人を滅ぼし、それが結果的に社会を滅ぼすもの。
 ワールド規模の話でなければ、三大欲求を相手に据える方がラスボスとしてちょうど良いのかもしれないなぁ、と。個人の物語であれば。


 で。
 先述したように、とはいえこの三大欲求はある程度「妥協」できるものなのだ。いずれも肉体に依存した「本能」的なものである以上、食べるにしても寝るにしてもやるにしても、疲れが出る。限界がある。
 もしもその「限界」を突破することが出来たら、それこそ際限がなくなって、人類は滅亡するのだろう。たとえば、機械の身体を手に入れる、とか。肉体に囚われず、データ的な存在になったら、とか。でもまあ、そういう技術レベルに達していれば、それに応じた「供給」も出来るだろうし、世界の資源を食い尽くすことにはならないのではないか。むしろ、食い尽くした結果としてそういう技術革新が得られるのかな。ともあれ、データになれば、物質的な資源を食うことはないだろう。

 さて、三大欲求はそうやって克服ないし妥協ができるとして。
 そこで生じるのが、「退屈」なのではないか、と思うのだ。

 食べる。美味い。でも前にも食べた。新しいのが食べたい。そういう風に欲求が増えていく。次第に食べられるものもなくなって、新しいものが得られなくなって、あるいは手に入らない状況に陥ったとして。
 その心の空虚、満たされない欲求。やることがない。虚無感。それが退屈。
 ユートピア(あるいはディストピア)のイメージとしても、最終的に「退屈」が人類の前に立ち塞がってる印象がある。

 永遠の命、不老不死を獲得したとして、そういう話でも「退屈」が天敵になってる印象。

 自由にできる時間が無限にあれば、やりたいことがなんでも出来る。そういう風に思えるのも序盤だけで、行き着くところにいけば時代の変化もそうそう起こらないだろうし、観光するにしても時間が無限にあればいずれ全ての地域の全ての景観を見終えることだろう。メディア、コンテンツも、網羅すれば「パターン」が見えてきて、やるまでもなく結果が見える、という退屈が待ってるかもしれない。

 この退屈と、どう向き合うべきか、どう付き合うべきか。
 別に永遠の命がなくても、割と付きまとう現実でもある。やるべきことはいっぱいある、でも気分は乗らない、楽しいことがしたい、でもそういうものがない……退屈だ、と。
 世のなかにはいろんなコンテンツがあるけど、それらを楽しむにしたってお金や時間をとられるから、十全にそれを享受すること、楽しむことは出来ないし。だから人は時間やお金を求めるのだ……。
 そうしたコンテンツが楽しめても、「気分が乗らない」、別のことがしたい、でも何もない……ということもある。気分が乗らないってことは、そこに「楽しめるほどの魅力」を感じない瞬間があるということ。つまり退屈を感じているということ……。

 退屈という名の、虚無感。これは心の問題で、肉体のあれこれを克服しても付きまとうものだと思う。
 どうすればいいのだろうね。

 その退屈を紛らわせようとして、たとえば特にお腹も空いてないけど何かを食べる、とか。眠くはないけどベッドでだらだらしてみる、とか。体を動かすっていうのも、極論すれば時間潰し。疲れて、休める状態をつくりだして、そうして退屈から逃れようとする心の動きなのでは。
 これが場合によっては新しい刺激を求めて、スリルを得ようとする。犯罪に走ったり。学生の万引きってそういうイメージある。犯罪といえば、暴力、戦争、そういうものも極論すれば「欲求不満」からくるものだと思う。何かが欲しいから奪う、というだけでなく、単純に誰かを踏みにじることに快楽を覚えるから。そういう残虐性は「七つの大罪」に含まれてない感あるけど、罪という以前の問題なのかも。あるいは「強欲」とか「傲慢」にそれが含まれるのか。尊厳を、命を奪う、という意味では強欲なのかも。
 健全な方で、何かを学ぶ、何かをつくる、そういう趣味を求める。そういう意味では趣味っていうのは大事なものっぽい。趣味が欲しい。そういう欲求。
 でもこの趣味も、たとえば何かしらを製作したら、それを世に出したい、人に見てもらいたい……からの、評価されたい。という欲求に繋がりうるもので。しかしそれが評価されないとなると、また心に虚無感が蘇る。

 人が救われるには、何か心を満足させるものが必要……。
 だから人は「繋がり」などを求めて、時にそれがカルト宗教へと繋がったりするのかも。炎上してみたりとかもそういうたぐい。承認欲求。
 逆に、満足ではなく「執着」を絶つ、そうすることで「成仏する」というのが仏教の思想っぽい。なんにも執着しなければ、そもそも何を求めることもない、という感じ。
 そういう風に考えると、「ディストピアの救済」に対する回答は「仏の教え」になるのかなぁ。最近『宝石の国』読んだのもある。

 でもそれはディストピア、行き着くところまでいったもので、個人単位の人生の物語、というか一般人の人生に対してはあまりにも、こう、難しいというか、やるせない話に感じる。

 一般人には妥当で無難なところで、「週末を過ごせる趣味を見つける」という感じなんだろうか。
 理想論だと「愛を見つける」。その人、あるいはものと一緒にいられれば、それを見ていれば幸せで満足できる、というような。推しとかですかね。
 総じていえば「好きになれるものを見つける」になる。

 なんにせよ、何か熱中できるもの、到達したい目標、目的。そういう目指すべきものが人には必要で、あらゆる命題が解決した結果訪れたのであろうディストピアには仏の教えが必要、と。


 今の自分にはそういう結論しか見いだせないのだけども、
 最近教育番組を見ていて、「ある状況」に対して自分は「こうすればいいのでは? いや分からんけど……」っていう結果になったが、出演者からは思いもよらない回答が出てきて。なるほどそういう発想が、とすごく感心したのであった。謎解きとしてはこれが正解じゃん、と思えるような回答だった。
 ちなみに『ニュー試』という番組。これまでも「なんとなく」面白そうだなと思って観てたのだけど、この一件で観る姿勢が変わった。

 だから、まあ、何か新しい発想が得られれば、新しい視点を見つけられれば、もしかしたら、もっといい感じの答えが見いだせるのかもしれない。

 ちなみにこれはなんの話なのかといえば、まあ「退屈・虚無感」というものをテーマとして扱った際にどういう結論を出すべきか、という最近の悩みについて、と。
 シンプルに退屈を持て余している自分がいるので、その暇つぶしの一環、気分転換としてこういうノートを書いた次第。
 やることはいっぱいある。やりたいこともいろいろある。だけどうまく気分が乗らないというか、やりたくてもいろんな都合から出来ないというか。そういう心の空白期間。
 やりたいことをやれるようになるために、今やるべきことを頑張るべきなのだけれども。アイディアというのは考えてもうまく出てこない時がしばしばあって、それで悶々として、鬱々として、それが結果として「退屈」になっているのであった。

 とりあえず現状、対・退屈として、いろんなことを試している。おもにブレスト。いろんな性格、ビジュアルとかを出してみて、一通り出たらそれらをランダムに組み合わせて、ヘキに刺さりそうなものを模索し、そこからそのキャラを主人公オアヒロインに据えた話を考えてみようかなー、と。
 あとは既存の概念の深掘りからの再解釈、独自解釈の試行。上述の三大欲求とかがそう。どういうところが活きるかといえば、現在葛藤中の各種ファンタジーに。たとえば「×剣伝説」の敵はもろに七つの大罪モチーフだし、四騎士についても序盤で言及している。そこから始まって、最近なんだか世界観問わず作品をまたがる「最大の敵」のイメージとしてずっとそれがある。そしてそれらを超えた先に「退屈・虚無感」の存在を垣間見たのであった。世界が平和になって、長続きして、でも「その先は?」という感じで。世界平和が目的的ではなく通過点になっている。

 難しく考えすぎて風呂敷ばかり大きく広くなって、終わりが見えない。最近ずっとそんな感じ。考えだすとキリがないというか、「そこ」までたどり着けないというか、まだ足りない、これでいいのか、という感が付きまとう。なにせ発想力がない。そのくせなんかずっとテーマの規模感狂ってる。
 そういう意味では「アルテ」は特別なのだけど、しかし、というのも終末要素を「トレーン」の方に押し付けているからであった。アルテの方は歴史の1イベント、つまり「通過点」を「終わり」に位置付けてるのもあるからか、そもそものテーマの問題か……。そういう風に「通過点をゴールに」出来れば話は早いのだけど。

 直近だと「ビーズログ企画A」という未だタイトルも決まってないやつとかが。前にも書いたけど、四天王的存在の前半だけを片付けて、それで終わり、とするのがいちばん理想なのかもしれない。その先は……。

 終わりがあるからこそ、全ては良い感じになるのだろうか?
 終わりよければすべてよし、というか。
 とりあえず「ここで終わり!」と切れば、それらしくまとまるのだろうか?


 ……ちなみに、ここまでで察せられるかもしれませんが、上述の「四天王的存在」というのはまさにそのあれで、つまりは終末の外的要因そのもので、その前半だけでも下すっていうのは終末を乗り越えるということで、それは外的要因を取り払うというよりむしろ内側にあるものを克服するイメージで、それは個人単位ではなく社会単位に、でも個々人で出来る問題ではないから、それらを導くないし代わりを務める主人公が、つまり救世主的な存在が必要で、そんで仮に四つ解決するとなると……。
 だから前半だけでいいのかなって。その前半にしたって、正直……。なんというか、触れるべきではないモチーフなのかもしれない。そういう意味で、「解釈するな」という話なのかも。などと思ったり。

 なんか、最後にこうして問題をまとめてみて、「世紀末救世主伝説」でも書こうとしてるのか?と思った。そうかもしれない。


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