終了まであと少しありますが、二ヶ月の長丁場、執筆者の皆さまお疲れさまでした……!
ぶわあっと一斉投稿するスタートから始まって、疲れちゃいましたよね。
雲の上の方々と、カクヨムコンの勢いを借りてお話しができたことは大変に嬉しかったです。
エントリとしては「届かなかった背中」で終わるつもりでしたが、クロノヒョウさんのカクヨムコン用のお題企画が最終なのと、柴田恭太朗さんの三題噺企画が五十回記念だったので、お祝いをかねて急遽駈けつけております。
「紅い花、白い花」
https://kakuyomu.jp/works/16818023212435735081締め切りまで残り僅かですが、よろしくお願いします。
もともとカクヨムコンは、大手さんが戦国大名のように枠を埋めていくコンテスト。
そんな大大名の皆さまに混じって、我が家は手弁当で頑張った雑兵でした。
もう普段から、
「持参の持ち物はテンプレの槍って云っただろうがー!」と怒声を浴びながら、打製石器なんかを持参してくるような、
「それでおどれはどうやって戦うつもりじゃ」
軍配で脳天しばかれそうなことやってますからね。
わたしの体感的には、今回、エッセイ部門が穴場だったかもしれません。
一番ウケがいいのはさくさくスナックみたいな作品で、それがエッセイの妙ですが、そのさくさく加減の中に技量が如実に表れる、怖い部門。
エッセイって面白いなと想います。書き手の気質がわりとストレートに表れてくるジャンルなんじゃないでしょうか。
真面目な人は真面目に。
カッコつけたい人は、カッコつけて。
自分のことを下げることが出来る人は(芸人のようなスキル)、滑稽なエッセイを。
皮肉な奴は皮肉を利かせるし、性格が悪い奴は根性曲がりなことを書き、その性格の悪い中にも弱さ脆さを窺わせ、その人がどんな人なのかが見えやすいかもしれません。
軽くて面白いのがエッセイとして良い、というわけではもちろんありません。
文章自体に巧さの味があったり、凛とした精神性が見えるものあり、軽い・重いを問わず、如何なく文才を発揮するところです。
エッセイをまるで書けない人もいて、作家先生でも、中学生の作文かな~新聞記事かな~みたいな。箸にも棒にも掛からぬ、ど下手な人がいます。する~っと眼が滑るような文章で、頭からもすぐ抜ける。
その逆で、エッセイは書けても、小説はいまいちな人もいます。
する~っと眼が滑るで想い出しましたが、カクヨムに来てはじめて「フックをかける」という文言を知りました。
批評企画でよく見るやつね。
この言葉を連発している側もとくに他意なく、まさに「フックなく」、具体性ゼロで云ってることがあるので、もはや挨拶くらいになっていますが、するんとした作品を見た時には、なるほどこういう時に「フックがない」と云いたくなるのかと想ってしまいました。
あの、悪名高き謎の言葉、
「読者の方を向いていない」
これだって、云う人が云えば、重みをもって響くこともあるでしょう。相変わらず謎の言葉ですが。
読者の方を向くとは?
『幅広く万人受けする人気作』を指しているのか?
このセリフを云う人はファンサービスの有無を重視するのか。ヒット作しか認められない人で、全員が同じスタンスで一律同じスタイルの同じものを創るべきだという思考なのか。
それで批評をしているのか。
素朴な疑問は尽きませんけれども。
困るのは、
「読者の要望に従って書くのが、読者の方を向いた作家のファンサービスでしょ!」
本気でそう考えている読者がいることで、どんな投稿サイトでもこの手の輩に絡まれるとしつこい。
「影響を与えてやった」
「育ててやった」
「あたしのおかげ」
そんな既成事実を作りたくてしきりに口出しをしてきますが、恩着せがましいことからも、自分のことしか考えていない偽物だとすぐに分かります。
「セクシー田中さん」原作者の芦原妃名子さんが自殺してしまいました。
詳細はご存じでしょうが、ドラマ化したこの作品、ドラマの脚本家(女性)がもともと原作を無意味に改悪(改変ではない)して原作者を激怒させることで有名だったようです。
その脚本家(女性)が、
「原作者」
と芦原さんのことを呼び捨てにしています。
たとえ表記はそれでよくとも、そこは大切な作品をお借りしてドラマにしている立場なのだから、心情的に「原作者の方」「原作者の芦原さん」と書くべきところです。
それを、「原作者が」と呼び捨てだった。
こういう些細な箇所からも、何かが見えます。
芦原妃名子さんが市井の無名の人たちの抱えている悩みや繊細な心理を描く人で、脚本家の女性が芦原さんを「原作者」と呼びつけ、自己顕示欲の強い、他人のふんどしで相撲を取る人間だった、といえば両者の人となりが分かりますよね。
「セクシー田中さん」の原作者芦原さんは大切な自作を守るためにかなり頑張った人で、「原作どおりであること」を何度も申し入れたのですが、脚本家は「あたしのほうが凄いものが創れるのよ!」とばかりに、めちゃくちゃにした。
数々の約束不履行を受けた挙句に、最終二話だけは自分で書かせて欲しいとその権利だけは原作者の方が保守したんですが、これに対して脚本家は不満を隠さなかった。
ドラマの出来映え的にも、最後の2話だけは別人(原作者)が書いているので、ちぐはぐなことになってしまった。
脚本家からすれば、原作者がわがままを云ってきて台無しにされた。
こんな感じなのでしょう。
脚本家とて、役者をあててイメージを落とし込んで脚本を書いていたのだろうから(これ自体はこれでいいと想うのですが)、ラストになって原作者が横槍を入れてきて、せっかくの自分の作品が潰されたという感覚なのでしょう。
でも、
作品を勝手に変更されてしまう不快感や、邪魔をされたその厭な気持ち、『原作者さんこそ、最初からずっと悩まされていた』ことですよね。
おかしな改悪をしなければ良かっただけの話ですよね。
芦原さんは、原作どおりに作って下さい、自作の個性を潰さないで下さいと最初から頼んでいるのだから。
芦原妃名子さんに対してリスペクトがなく、脚本家のほうが我が強い。
その我が、原作者さんを踏みつぶしてしまった。
原作をズタズタにした挙句、原作者さんまでズタズタにしてしまった。
なのに原作者の方が我が強い、気が強い、ドラマを台無しにしたように云われ、「最後まで脚本家のシナリオで観たかった」「脚本家を傷つけた」と云われ、芦原さんは自殺に追い込まれてしまったのです。
漫画家によってはこんな女性脚本家であっても、意気投合し、「ビッグチャンス到来ですね! チャンスは逃しません。お互い有名人になって金を稼ぎまくり他の真面目な創作者をコケにして嘲笑う強者の立場になりましょう!」そんな人もいるのでしょう。
でも芦原さんは命を絶ってしまった。
心血をそそいで一作一作、大切に作品を創ってきた人だった。
作品が映像化する際には、「イメージぴったり」と狂喜することも、「原作とはかなり違うけどドラマはドラマで面白い」ということもあって、このことはずっと付きまとっていた問題なのですが、どんなケースであっても、完全に原作者が不利なんですよね。原作者なのに。
今までは原作者が血涙を流して黙ることで、見過ごされてきた。
「あれとこれは別物だから」と割り切れる人ばかりではなく、原作の人が「もう描かない」と連載途中で筆を断ってしまった作品もあって、その時もやはり、「原作どおりに作って下さい」という作者の切なる要望がドラマ制作側にあっさり無視された結果でした。
自分の大切な作品を守ろうと、芦原さんのように繊細な心をもった人が孤軍奮闘して最初の約束とは違うことを指摘していたのですが、「原作者が出しゃばってきた」「脚本家は原作者に巻き込まれた」としか受け取らないような人たち。
この脚本家は、「セクシー田中さん」をまるで自作のようにして、浮かれ調子で宣伝していました。
欠点を「改良」してやるのだから、欠点のあるような作品しか書けない愚かな無才は、はるか上の才能の持ち主である完全無欠なアドバイザーに対して感謝しろ?
相手が誰であれ、こんな干渉を、創作者側は次から次へと呑まないといけないのでしょうか。
自分の作品が「こっちのほうがいいでしょ!」と「改悪」された挙句、「それの何が不満なの? せっかくドラマにしてこのあたしが良くしてやろうとしているのに感謝もされずにムカつく」という態度だったら。
芦原さんのファンの方々は、芦原さんの漫画が好きだからファンなのです。
「芦原さんの感性が、芦原さんの描く漫画の世界が好きだ」
その気持ちでファンと芦原さんは長年繋がっていたのです。
それを、土足で乗り込んで、「改悪」を上乗せをして、まるで一から創ったような顔をして、被害者面だけはする。
そんな人間の、創作精神って何なのでしょう。
芦原さんがなぜ自殺しなければならなかったのか、それが分からない人には、この世でもあの世でも二度と創作に関わって欲しくない。