夏頃に、少し読めば好みの書き手かどうかは分かるはずなのに、全ての作品に♡だけをつけて決してレビューはしない謎の人に悩んでいる方について、こちらでも話題にして、
たしかにそれは不思議だね~
と奇妙がっていたのですが、そういう方は少なからずいるみたいで、きくところによるとあの謎、こんなケースもあるそうです。
万歩計みたいに、虱潰しに♡をつけて回り、読書量メータを増やして記録するのが趣味の人。
……健康にいいのでしょうか(;'∀')
▶「あるいは幸運なミステイク」
同題異話の11月分のお題です。
同題なので、タイトルが指定です。
今月はとくに、自分では使わないタイプのタイトルだったので、挑戦してみようと取り組みました。
柴田恭太朗さんの三題噺とも抱き合わせです。いつもありがとうございます。
作中では、最近も報道されていたジェンダーの人が女湯に入りたいと主張する問題が雑談として出てきます。触れている漫画は、今月ようやく完結した『をのひなお』さんの、「明日、私は誰かのカノジョ」です。
きれい目の絵で見てもおっさんたちが気持ち悪いです。
せめてもの眼の保養として、資金に何の不安もないスーツの似合う高収入のイケオジが出てきます。このイケオジ、かっこいい車の助手席で映えるような女の子が好きなんですが、家に帰れば、美人の妻と可愛い娘が待っている。
カクヨム内では、千石杏香さんという方がジェンダーの当事者として行き過ぎたLGBT運動に警鐘を鳴らしておられます。
https://kakuyomu.jp/works/16816927860040342257生きやすくなる権利を認めろという運動の中に、何故か、女湯を使わせないのは差別だという言い分が入ってる。
身体が男でも「心は女」、だから、女湯に入れるようにしろ、と。
これは女性が何か云うよりは、男性が、問題視しないといけないのではないでしょうか。
男性がね、表に出るべき。
自分の大切な恋人や妻、姉妹、娘を、「心は女の子だから」と自称するおっさんがうろうろしている温泉の女風呂に送り込みたいのか? という話なんです。
「たまたま性別は男性だっただけです。心は女性です。なのに、勝手に性犯罪者のように見做して女湯から締め出すのは差別です」
そのように活動家の方々が頑張っているみたいなんですが、本当にそうである人って、千石さんのように社会の片隅で自分の問題と折り合いをつけて生きているものです。
差別だ差別だと云ったところで、「わがままを通せ。お前たちの気持ちや不都合など考える必要はない」と図々しいことを云っているだけです。
逆の人が、そんなにも男湯に入る権利獲得に頑張るのか? と云ったら、違うじゃない。
差別だと声を大きくして主張すれば自分に正義があり、相手が黙って、大声を出す側に味方がついて言い分が通るだろうという勘違いを、どこかでピシャッと線引きしないといけない。
女湯。
なんで入りたいんだろう。
都合よく若い女の子たちばかりがいる温泉だったらいいけど、そんなところに不用意に入っても、アラサー以上のおばちゃんやお婆ちゃんが、
じ~~~~~~~~~っ
と見るだけでは。
氷風呂に来たのかと想うほどの寒い視線で、おばちゃんたちが、
じ~~~~~~~~~~~~~~っと。
若い子だって、その視線はシビアですよ。
アイドルの○○君みたいに、かっこいい人だったらいいけどさぁ……って。
そうじゃないと。
やっぱり、若い女の子に、キャーッ! と云われたいんだと。
温泉でキャーッキャーッと幼い女の子たちに悲鳴を上げられることで、何らかの満足を得るのなら、それもう男じゃん。
それもやっぱり違うと。
「本当に本当に、中身は女の子なんです。女の子として、普通に女の子としての権利を得て、社会の中で生きたいだけなんです」
それで、若い女の子たちのいる風呂やプールの更衣室に、「身体は男でも中身は女です」と入って行ったとしますよね。
それ、女の子たちのご両親が、「よし」と云うと思います?
大切に育ててきた娘の前を、おっさんがうろつくことを認めると思います?
そんな想像もできないようなら、ジェンダー以前に何かが欠けてます。
欠けているのは社会性と、「他者への思いやり」です。
事故や病気で身体に損傷があった方も、好奇の目を跳ね返して堂々とさわやかに利用する人もいるけれど、「怖がらせたり、愕かせてしまうから」と、利用する時間帯を選んだり、貸切風呂を使う方だって大勢います。
そうやって配慮してくれるから、こちらも「お困りのことは出来るだけ助けましょう」という気持ちになるのであって、
「心は女の子です」
と主張するだけで女湯や化粧室に押し寄せようとしているおっさんを認めるなんてことは、『男性が』許してはいけないと想うのですよ。
女性よりも男性がそれを許してはならない。
お前だけずるいぞ!
でもいいですよこの際、動機は。
「サレ女サレ妻」に比べて、「サレ男」の報復がえげつない、殺人までひと跳びに行ってしまうというのは、それだけ自分の女が他の男に取られるというのは男性として本能的にアウトだからであって、たとえそうでなくとも、レストルームに行っただけの女の子が、男の人が沢山いることにびっくりして、わーんって泣きながら出てくるような社会を、大人の男が許容してはいけないでしょう。
十中八九、こんな主張をする人は男性社会の中ではしょぼく過ごしてきた人でしょうから、男性数名で囲んでオイコラってやったら、この手合いはそれだけで引っ込むはずなんです。
なのでこの、ジェンダーな方の女湯を自由に使わせろ問題は、女性よりも男性が頑張って、強固に反対していただきたいなと。
-----------------------
寒くなってきたので、映画「シャイニング」を観ました。
有名な映画なのにまだ観たことなくて、あのジャケだけが強烈な印象として残っていました。
今だと差別だ! と云われて創れない映画かもしれません。
アルパカみたいな顔をした奥さんが奮闘します。アルパカさん、パニくって悲鳴を上げている間も、知恵は回っている。
最後まで謎をたくさん残したまま終わりました。
【リアリティ】に固執する人だと、こういう映画もまったく楽しめないのでしょうね。
世の中のほとんどの創作物を楽しめない。
そして彼らなりに、この作品には【リアリティ】があるから凄いと激賞する作品があったりする。
それについて、「え、そうかな。ここも、ここも、リアリティなどありませんよね」なんて突っ込むと激怒するでしょうから、誰も何も云わない。
彼らは、全体の1%くらいの作品だけを偏愛して、残りはすべて【リアリティがない】で駄作扱い、ご都合主義展開、価値がないと吐き捨てる。
「自分にないものは書けないんだぞ!」とドヤる人と同じく、わたしにとっては理解不能です。
彼らの主張する、【小説はリアリティこそすべて】こそ、リアリティがないなって想うのです。
ご都合主義でない小説なんてあります??
99%の作品がリアリティがなくて詰まらないのだろうから、ノンフィクションだけ読んでたらいいのに。
そのノンフィクションだってちゃんと効果的な配置を考えて書いていますから、リアルかといったら厳密には違います。
云ってることは分かりますよ。
彼らは、ウルトラマンの背中のファスナーが見えるのは興ざめだと云ってるんですよね。
超能力であっても、それで出来ることと、出来ないことが、物語の中で矛盾しているのはおかしいと。
ウルトラマンが現実にいると想わせるように細部まで綿密に虚構としてのリアルを組み立ててこそ、あの無情なタイマー設定が生きるのだと。
わたしは、ファスナーごと読むのが小説だと想っているんです。
荒唐無稽なのが小説じゃん。
ウルトラマンの背中のファスナーはいいけど、中身のおっさんが見えたら流石にそれは駄目ですよね? と云われても、これだって、見えちゃってもそれが作品世界を壊しながらちゃんとエンタメになっていたら、そういう作品として成立しますよね。
世の大作・名作だって、突っ込みどころだらけです。
リアリティを追求する時も、それでリアリティのないものを書く、その方向性だと想っていたんです。
「リアリティがある」
これは褒め言葉です。
でも、「リアリティがない」については、ちょっと注意かも。
云っている人が「リアリティ・マニア」なら、ほぼ全ての作品が駄作対象になるからです。
ある方が、公募の講評で「リアリティがない」と云われたらしくて、云われたその方よりもわたしの方がそれに頭にきたんですよね。
何にも考えずに軽々しく、するんとその言葉を発しているようならば、「おはよう」とほぼ同じくらいの意味です。