カクヨムコンを傍観していて、ちょっと想っていたことを先週、柴田恭太朗さんの三題噺にひっかけて、書かせてもらったんですけれど。
どんな方法であれ星が集まると、付加価値がつき、そして人間の心理として、「この作品は素晴らしいからこんなに読者が大勢いて、☆が沢山あるのだろう」と見做されてさらに星が集中していくのは、いいも悪いもない、「そういうもの」です。
交流先の数が星の数。
そういわれるカクヨムにおいて、この方々と、7割にも達する星の数0~9層の方って、最初からカクヨムコン、勝負にならない。
新作を投稿直後にすごい数の☆が即日で集まる人と、0から始まって、一週間経っても二週間経ってもべつに大きな動きもなく、埋もれたままコンテスト最終日になってしまう人と、スタートラインから大差がついていて、読者選考の意味がほぼない。
交流先をたくさん持っている人たちだけが開始早々、数十キロ先にワープするマラソンのようなものですから、ほんとうに勝負にならない。
年間のランキングから選べばいいのに。
だからといって、交流先から大量の☆を獲得する方々の、そのうちの誰一人として、
【どうせ中間突破できるだけの星は集まるのだから、いい加減な作品でいいや】なんて考えている人はいない。
これは絶対にない。
ここは疑わない。
カクヨムとは、SNS型の投稿サイトだとはっきり書いている人もいるように、一部の上位層と読専が集中しているジャンルをのぞき、書き手同士で交流をしないと、埋没して星の数ゼロのままです。
評価と交流数に応じて、何割かの星が戻って来るという循環システムなので、よく人の作品を読んで、顔が広い人にはたくさん☆が集まるし、ただ作品を投稿しましたというだけの人は、ずーっと0~9かその真上の層です。
推薦枠にでも入らない限り、まず、大方はカクヨムコンを通過しない。
毎年この繰り返しでは顔ぶれが固定されていくだけではないかと想うのですが、カクヨムコンのために書き下ろした力作が集まるのは、メリットがあるから、この形式で続いているのでしょう。
もらえる☆はありがたくもらっておいて、一方で、☆の少ない人から良作を発掘するのがカクヨムコン中、参加者の中でブームにでもなればいいのにな~と個人的には。
0~9地帯の人たちって、☆を送ってもシーンとしている人が多いので(笑)、読者に戻って純粋に投げ銭が出来るのでお勧めです。
そんな感じで七割の人は交流していないがゆえに、完全に不利なんですけど、「物書きなんてそんなもんじゃない?」と想っています。
交流する・しないの是非ではなく、「物書きのほとんどは、根本的にはそういうことが苦手な人でしょう。だから小説を書いているんでしょう」って。
読んでもらう努力をするのは大切なことですが、わたしの中では、「けっこうこれって、物書きの特性や得意分野とは逆行してるよな」という気持ちがずっとあったんでしょうね。
物書きのメンタリティでは、はっきりと、厭う行為だよなぁって。
これはもうどうしようもなくそういうもので、だからこそ小説を書いているし、書くことが出来る。
なぜかというと。
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こんな方法で自分の作品の評価を水増しようとしている。
その評価の高さにそぐわない作品のくせにね。
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ということを、侮蔑的、軽蔑的、自嘲的に、ゾッとするほどの冷たい眼で自分を突き放して一瞬だけでも見つめるのが、物書きの心だからなんです。もちろん自分のことだけね。
別に自分のことが嫌いとかではなくて。
だから、
「知り合いに頼んで☆を集めて、読者選考を抜けました」
「X(Twitter)で呼び掛けて☆を100集めました、ちょろいですね」
というようなことを、わざわざ告白している人がいる。
あれは自分のことを一旦、ぐいっと突き放しているから自虐的に告白できるんです。
たまに「俺は天才だ!」と想い込んだまま凄い作品を創る人もいますが、文章を書くことに向いている人ならば大体の人は、この視線を持っている。
そこから、へらへら、へらへらと、物書きの多くはいい加減ないつもの状態に戻ってくるんですけど。
べつにいいじゃん、どれだけ☆をもらっても。今の力で精一杯、「もらえるだけのものは書いた」と自分が想えるだけのものを書いていたら。
それでようやく、前回の批評ばなしの続きになります。今でこそ有名ですが、ひと昔前は忘却されていた、詩人「金子みすゞ」(1903~1930)さん。
金子みすゞは西條八十という大詩人に見出されて、作品が雑誌に載り始めます。
ところがです。
その生涯は皆さんご存じでしょうけれど、私生活でのみすゞさん、カスみたいな男の嫁でして。
この夫が、詩作の一切を妻に禁じてしまう。
投稿も、詩人仲間との文通も、夫が禁止してしまうんです。
禁止されて、詩も書けない、文通も出来ない。
そんな暮らしの中でも彼女はおそらくは頭の中でたくさんの詩を作っていたのでしょうが、大切な愛娘まで、夫に取り上げられてしまう。
それについて夫に抗議する手紙の中で、金子みすゞさん、娘のことを、「ふうちゃん」って綽名で書いている。
怒りと悲しみによって書かれた手紙の中でも、自分の大切な娘ふさえのことは、「ふうちゃん」と愛称で書く。
そのくらい可愛がっていて、大切な娘だった。
そんな女性から、愛する子どもまでクズ男は取り上げてしまった。
最後のとどめのように、女遊びが絶えなかった夫から性病をうつされて、そこでもう、金子みすゞは絶望のあまり26歳の若さで命を絶ってしまったんですが。
その悲劇的な生涯はともかくも、死後半世紀経った1980年代になって突然ブームになった「金子みすゞ」と同じような感性をもつ方は、今の世にも生きていて、カクヨムにもおそらくいて、私生活の片隅でひっそりと何かを書いていて、それで、誰かに読んで欲しいなって思って、批評企画に出したとします。
すると、あの宝石のごとき感受性の強い、ささやかな祈りと、この世を石蹴り遊びの石のようにポンと蹴っている詩心を、
なんスかこれ?
人によってはこれで終わるのがカクヨム内の批評だったりするので、そこだけは注意してあげて欲しいなって切に想うわけですよ。
なんだか書いてて笑えてきちゃいましたが。
金子みすゞと、類似のもどきとの区別がつかない人や、☆の数の多い・少ないで判断する人ならやりかねないと想って。
「こういう作品は分かりません、すみません」だったら、【批評家としては大恥】でも、誠意がまだありますけれど、全然分からんわ~知らんわ~という人が批評していると大事故を起こします。
そこは、批評する側とされる側、心しておいて欲しいなと。
まったく浮上してこない星の数0~9の層が七割もいて、底辺にいて、だけどその中には素晴らしい作品を創っている人がいる。
そのことは、書籍化を夢みてカクヨムコンへ向かうひたむきな熱意や期間中のお祭り騒ぎとはべつに、言葉を紡ぐユーザーならば知っておいて欲しいなぁと想ったのでした。
※人の知らない草の名を (金子みすゞの詩「草の名」より)