宮崎駿「君たちはどう生きるか」ではなく、もっと身近な作品を例に。
巨匠スピルバーグ監督作の映画「プライベート・ライアン」
最終の、少し手前のシーンについて、
「なんで彼はあんなことしたの?」
と言った子がいるんです。
あれは、こうでああで、だからああしたんだということを説明したのですが、「観ただけではそんなこと分からなかった」と。
その問題の場面、どこか分かるでしょうか。
以下ネタバレ込みのあらすじです。
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(あらすじ)
時は1944年、連合国軍はノルマンディー上陸作戦を敢行。
多大な犠牲者を出しながら何とか上陸を果たしたアメリカ軍ミラー大尉(中隊長)のもとに、奇妙な命令が下る。
「四人兄弟を戦場に送り出して三人戦死しちゃったお母さんがいる。
可哀そうだから残った一人を生きてマミーのもとに返してあげて」
は?
なんで?
俺たちの戦友はそこの浜辺で大量に死んだ。子どもを全員戦死させた親もいる。なのに、なんでそいつだけ助けないといけないの?
そんなものは私的感情であり、軍事的行動にまったく関係なくない?
しかし命令は出されている。
納得しない隊員を率いて、ミラー中隊長はその坊や、『ライアン』を探しに行く。
ライアンはパラシュートで降下したらしいが、戦場は大混乱になっていて、誰が何処にいるのかさっぱり分からない。
隊の新入りはドイツ語とフランス語を話せる通訳兵。
運動神経ゼロで、銃も撃てないヘタレ。夢は作家。
軍隊の友情を書きたいんだ、などとほざくヘタレ。
文系の青白いインテリもやしのヘタレ。ところが、そのヘタレと話が通じる隊員が一人いる。
他でもないミラー中隊長。
強いリーダーシップを発揮しているレンジャー隊員のくせに、ちまちまと、ヘタレに劣らぬ学のあるところを覗かせるミラー大尉。
隊長の前職はなに?
謎の男ミラー。
隊員の衛生兵がドイツ野郎に撃たれて死んでしまう。
よくも殺したな。
捕虜にしたドイツ兵をタコ殴りにする隊員。
ドイツ兵を射殺しようとするところに割って入る作家志望のヘタレ。
ミラーは捕虜を解放する。
なんで仲間を殺したドイツ野郎を逃がしたんですか。
大喧嘩になっているところへ、ミラー中隊長の口から明かされる、彼の意外な前職。
やがてライアンを発見。
「帰国しろ」と言われても首を縦にしないライアン。
戦っている仲間を捨てて自分だけ帰るなんて出来ないと言うライアン。
橋をめぐる最後の戦い。
戦車で砲撃してくるドイツ軍。ゲリラ戦法で対抗するアメリカ兵。
うろうろするヘタレ。
民家の二階ではドイツ兵と仲間が殺し合っている。
あのドイツ兵、あいつじゃん、この前、仲間の衛生兵を殺したやつじゃん。
ドイツ兵が二階から階段を降りてくる。
ヘタレをちらっと見るが、見逃されるヘタレ。あん時庇ってくれたしな。
これぞ「戦場の友情」
多大な犠牲者を出しながらも駈けつけた航空隊のお陰で勝利するアメリカ軍。
ミラー戦死。ライアン生還。
衛生兵と仲間を殺したあのドイツ兵が、ヘタレの名を呼ぶ。
ヘタレはそいつを銃で撃つ。
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ここです。
この場面。
「なんで撃ったの?」っていうわけです。
でね。
「? なんで撃ったの?」そんな人がもし編集者だったらです。
この場面、
「あ、ヘタレ。見逃してくれよ俺たち友だちじゃないか、ヘタレお願い!」
「るせえドイツ野郎。俺たちの仲間を殺しやがってお前はやっぱ敵だ死ねぇ!」
こうやってちゃんと書け。
そうでないと撃った理由が分からないでしょ、と。
説明が足りないと読者は置いてきぼりにされますよ?
そう言われて修正を求められるでしょう。
でもそれを書いたら、「ヘタレ」と呼ばれて、今までヘタレだったヘタレが「敵」を撃ち殺すところに篭められたものが吹き飛びますよね。
ヘタレが撃った(クララが立った風に)
それは軍隊生活では感覚が磨かれる~の蘊蓄や、「戦場での友情」を夢見ていたヘタレが、リアルな戦争を知り、過去の間抜けな自分に決別した一発だった。
それまで人の後ろに隠れてべそべそと泣きながら身を縮めていたヘタレが、急に兵士の顔つきになる場面でもある。
それがあの無言の一発に篭められている。
ここは「説明なし」なのがいいんです。
でも世の中にはそれがまったく分からないという人がいて、「説明がない」と言う。
「? なんで撃ったの?」とポカンとしたまま映画を観終わるんです。
こういう人が原稿に修正や変更を求めてきた時に、どうするかなんです。
言われたとおりに書くのか。そのままがいいんだと判断するのか。
「プライベート・ライアン」のあの最終場面をどう創りたいかが、その人にしっかりとあるなら、後者でしょう。
でも、「読者の方を向く」ことを一番上に置いている人ならば前者でしょう。
読者の方を向くことを一番上に置いている人は、何か言われたらすぐに、他者の意見に沿ってホイホイ何の抵抗もなく変えちゃう。
悪い意味ではなく、生まれつきその人にとっての創作とは、「読者を満足させるもの」であるからです。
凡例2)
芥川龍之介「蜘蛛の糸」←じゃなかった「羅生門」です!
これの感想文を書いて賞をもらったことがあるんですけど、作家倉橋由美子がその創作論において、最後の一行が無駄だと言いました。
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(本文)
『 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。
老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。
そうして、そこから、短い白髪しらがを倒さかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
下人の行方ゆくえは、誰も知らない。』
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要らない……かな?
「下人のゆくえは、誰も知らない」
どうかな。
そんなことを云うのは倉橋由美子くらいじゃない? さすがに。
このままでもいいですよね。
「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。」
下人のゆくえが闇に紛れて消えたことはここで分かるし、最後の一行がないほうが余韻がより強いってことなんだろうけど。
こんなのは、誰かが云い出すことで初めてそうかな~くらいのことですよ。
倉橋氏の好みとしては、不要だったというだけのことです。
倉橋氏が「蜘蛛の糸」じゃない、「羅生門」を書くなら最終の一行は書かないのです。
ただそれだけのことで、別にこの一行が致命的に不要ということは絶対にない。
ここも、編集者によっては、
「最後の〆がない。下人はどうなったのか分からないから書いたほうがいい」と言うかもしれない。
ついでに芥川さんは「、」も多めですよね。
もし「、」が多いのは悪だギャー! って大声で言う人がいたら、「それは駄目なことなのか?」と想いがちなところですが芥川やってますから。
批評やアドバイスって、何か間違えた人ほど大声で上から否定してくるものだから、「大声で否定してくる人の言葉だけが正しい」と思いがちです。
でも、受け入れるところ・そうでないところは自分で判断しないと、「最後の一行は要る」「要らない」一つとっても、まったく正反対のことを言うアドバイザーが左右に二人いた時に、どうするんでしょう。
※通訳兵の名はヘタレではありません、公式には「アパム」です。
▶「君と息をしたくなる」
同題異話10月のお題です。
誰も読んでないというレアな作品。
こんなこともあるんだ~珍しいな~と思って、代表作においてます。
こういう作品が、まさに「?」になる人多数の物件なのかもしれない。
※そんなことないです。