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石神井公園の雉の話

 書き始めたばかりの小説のロケを兼ねて、先日石神井公園に行った。石神井公園を訪れるのは恐らく大学時代以来である。西武鉄道に乗ったのも数十年ぶりと言いたいところだが、あの小竹向原から西武池袋線に接続するのも西武鉄道の一部なので、納得感はないものの、鉄道の方は最近落とし物を捜しに乗ったばかりである。その時は眼鏡をなくしたのだが思い起こせば西武鉄道の落とし物係は随分と不親切であった。結果として営団地下鉄の方で見つかったのだが、落とし物係に限って言えば営団地下鉄の方が数等、上等である。飯田橋のLost Foundの職員の皆さん、お疲れ様でございます。
 さて、肝心の小説では石神井公園のボート乗り場で主人公がヒロインの女の子と出会う設定であるので、そこら辺の景色の確認をするのが目的である。
 電車に揺られながらそういえば以前訪れたときもボートに乗ったのだったと、ふと思い出した。その時は一体誰と乗ったのであろうか、少なくとも同世代の女性と一緒ではなかったのは確かで誠に残念なことである。その時、女性とボートに乗っていたならだいぶ文章のリアリティが増すであろうに・・・。
 駅について公園までの通りにある、昔から有りそうな商店を幾つか探しながら行くと、ものの数分のうちに公園の入り口に到着してしまった。そこがもうボート乗り場である。およよ(古)・・・。なんとなく記憶にあるような、ちょっと違うような情景であったが、近くの湖面に葦の草むらがあったのは朧気に記憶にある。朧気・・・つまりは自信がない、ということだ。
 公園の池とか沼というと、昔通っていた浦和の中学校の近くに別所沼公園という池のある公園があって、毎日その近くを通っていた物だからそちらの記憶の方がどうしても鮮明であるのは仕方ない。滅多に訪れなかった石神井公園の方は井の頭公園とか、洗足池とかとごっちゃになっているかもしれない。
 防寒対策をしていったのだが、その日は天気が良くて風も吹いていなかったこともありボート乗り場のある石神井池から三宝寺池に行く途中のベンチでダウンを脱ぎ、リュックにしまい込んだ。こう言うときユニクロのダウンは小さく纏まって便利である。

 石神井公園というのは随分と広い公園である。歩いてもなかなか向こう側に辿り着かない。家の近くにある林試の森公園より広いのか、あとで調べたら倍ほどの大きさがあったが、この石神井公園よりも広い公園が都区内には15個もあるらしい。ロンドンも随分公園が多かったし、広かったけれど東京も捨てたものではない。公園は民度の尺度である。ただ、日本と西洋を比べると日本の公園というのはやはり子供重視のところがある。石神井公園や林試の森公園ではそれほど目立たないが、遊具が多いのは日本の公園の特徴であろう。西洋の公園は特にゲルマン系の国に於いては「大人の施設」なのだ。ふふん。
 水抜きをしているのか石神井池と三宝寺池の間には水がない。それを過ぎ、右手から巡って池のぐるりを散歩していたら、老夫婦が何かに向かって声を掛けて燥いでいる。亀でも居るのだろうか、と視線を向けたらずいぶんと大きな鳥が地面を突いている。おや、雉かしら、こんなところで野生の雉がいるのだろうか、と立ち止まって見ていたら、草色のその雉が頭を上げて
「何か、用か?」
 とでも言うように睨んできた。
 特に用はないので、恐れ入って後にしたのだが、はて雉ってあんな色合いだったかしらん?雄ならばもう少し胸の緑も鮮やかで色彩豊かな鳥であったし、雌は逆に抱卵するためか雲雀と同じような地味な茶色の色合いであった筈だが・・・と釈然としない思いがした。それに随分と人慣れして生意気な奴である。雉も鳴かずば撃たれまい、と言われるほどだから昔は随分と撃たれた筈でそんなに図々しい態度で大丈夫なのか、と今度は心配にもなる。
 というわけで、ロケもそこそこに帰って調べたらどうやら白鷴という中国やベトナムに住む鳥らしい。居たのは雌で雄は「白鷴」という字にあるとおり白と黒のツートンカラーの鳥である。但し閑(しずか)ではなく、発情期には雉と同じく煩く鳴くようだ。
 日本には江戸時代に入ってきたらしいが、まさかこんなところに一人子孫が残っているはずもなく、多分誰かが飼っていた物が逃げ出したか捨てられたのかしたのであろう。ハッカンを変換しても何故かSweatは出てくる(発汗のことらしい)のに白鷴などと言う漢字は出てこないのだからそんじょそこらに居る鳥ではないらしい。
 そうか、君は残留孤児ないしは捨て子であったのか。あの反抗的な眼はそういう経緯があったからなのね、と納得した。
 この鳥は繁殖をしていないようなので問題ないが外来種を捨てる無責任な人間が多いのは困りものである。外来種は少なくともしばらくの間天敵が居ないので、爆発的に増え餌や繁殖地域の重なる在来の近縁種や、場合によっては無関係の種を駆逐する。本来は捨てられた動物より捨てた人間を駆除すべきであるが、現実は動物の方が駆除される。捨てられた動物はそれだけでも不幸であるのに、けなげに生きていく努力をした挙げ句こんどは駆除までされる、だいぶな被害者である。
 しかし東京工業大学あたりに生息しているワカケホンセイインコやら千葉県のキョンやら鎌倉やら三浦やらの台湾リスなどを見ていると放置しておけばどんどん生息域を増やしそうである。放置するわけにもいかないのだろうこれも何もかも飼っていた人間の責である。全く以て人間とは困った無責任な動物である。そのうち纏めて駆除されるよ、そんなことばっかりしていると、そんなことを許していると。

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