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老人の戯言:番外編 二つの選挙

 最近、注目すべき二つの選挙があった。
 一つはアメリカ大統領選挙、もう一つは兵庫県知事選挙である。兵庫県知事選挙の方は同時に行われた栃木県知事選挙(と宇都宮市長選挙)と対比して考察すると面白い。
 結論から述べると二つの選挙、或いは栃木県の二つの選挙も合せて四つの選挙は、いずれも僕個人としては評価できない選挙であった。
評価できないのは、結果はともかく、選挙のありかたと過程であり、その内容は各々少しずつ異なっている。

 まず、日本の二つの選挙から見ていこう。
 栃木県の県知事選の立候補者は二人、現職は当選すれば六回目、即ち24年にわたって県政を担うことになる。日本の知事選は多選に対する規制はないが、「遠く異朝をとぶらへば」ロシアの独裁者ウラディミル・プーチンなみの長期政権である。
それに対する候補を立てたのは共産党と社民党の県連のみ。他の野党は勝ち目がないと考えたのか何なのか、県知事自身が勇退を考えていた(?)にも関わらず、不戦敗で結局現職の圧勝に終わった。
 同じく宇都宮市長選挙も現職が六選を制した。こちらは候補が他に三人たち、それなりに若い対立候補も出たが、野党が積極的に応援したような記事はなかった。栃木の野党はいったい何をしているのだろう?兵庫県知事選挙に比べ注目をされなかったが、この栃木の選挙は、強い既視感のあるここ数十年来の「日本の選挙風景」の臭いがする。古くさい廃れた民主主義の臭い。Smell of stale democracy
 多選は容認、勝ち目がなければ候補も立てない不戦敗を厭わない野党、投票率は 32.05%(栃木)38.31%(宇都宮)。これが「民主主義国家?:日本」のなれの果ての選挙の姿である。
 ?を付したのは投票率30パーセントの国家を果たして民主主義国家と呼んで良いのか、と思うからだ。たしかに選挙に行きたいと思わせる風景はないが、その風景を作っているのは、結局は選挙民であり、その風景を打破できるのは唯一選挙民である、と僕は考えている、あるいは、・・・考えていた。
 その考えはしかし誤りだったのかも知れない。その思いを強めたのが兵庫県知事選挙である。投票率は前回に比べ14.55ポイント高い55.65%。二人に一人しか投票に行っていないが、栃木に比べたら格段に投票率は高い。それだけ関心を集めた選挙なのだ。
 ご存じの通り、兵庫県知事選挙は現職知事のパワハラ行為によって、議会が不信任決議を採択、知事が辞職し選挙となり、再度立候補、計7人が立候補し、結果的には辞職した知事が当選した。その結果に文句を付けるわけではない。それはあくまで兵庫県民の問題であり、今後兵庫県がどうなろうと当方の関知するところではない。
 ただ、一体あの騒ぎは何だったのだ?
 まず、問題点を整理したい。問題が大きくなったのは県知事のパワハラによって少なくとも一人の人間、或いは複数の人間がそのプロセスの中で自死しているということである。少なくとも職員は知事の指示により側近の副知事を初めとした非公開の場でハラスメントを受けたのは明白な事実である。
 それにも関わらず、彼は再選された。パワハラ問題は兵庫県民にとってはそれほど軽い問題であったのか?選挙期間のどこかでずれた議論に流され始めたのに気づいていないのではないか?結局、県民は「結果的に自死をさせてしまった知事を再度信任して、知事職に留まることを認めたわけだから、今後そうした人間が出てもそれは信任した県民たちの責」という事だ。
 僕なら逃げ出すね。そんな所は。もしあなたの職場、あるいはあなたの配偶者の職場で同じ事が起きても、構わない、ということになるのだ。その上司、いや社長がいかに有能であってもそんな職場で働くのはごめんだ。そんなことを許す同僚と一緒にいるのも勘弁して欲しい。そういうことだ。
 ただ、この件がどこか歪んで行ったのは選挙の決まる前からだった。いわゆるおねだり疑惑のはなしがそこら中で出てきたときに少し危惧を感じた。そもそも、自死するほどのパワハラの話に「おねだり疑惑」を付け加えることに何の意味があるのか?話がぼけるだけの愚行をリードしたのは一体誰だったのか?
 自治体の長であれば、品性の問題はあるかもしれないが「おねだり」に見えないこともない行動は殆どの人がやっているわけで、全く本質的でないその話を持ち出したことで、論点がぼやけたことは間違えない。
 問題は、知事が死んだ職員の主張を「嘘八百」と公然と断罪したことが「嘘でなかった」事なのであって、おねだりの話ではないのだ。パワハラに結びつく内容の一つにおねだりがあったから、おねだりが問題などという惚けた話ではない。あの発言一つで知事は追われるべき人間だと僕は考えたし、その考えは今なお一ミリも動かない。兵庫県民を含むたいていの人も、その時点ではそう考えたはずだ。「多少の反省」などは反省でもなく、単なる居直りでしかない。僕はそう考えている。
 だが、時間と共に「そう考えた筈の人たち」は「全く違う考えに行き着いた」ようだ。僕には迂闊としか思えないが、そうさせた何かがあるはずなのだ。そしていみじくも当選した本人が述べたとおり、それはSNSである。
 正直言ってオールドメディアとSNSを含む新「バイタイ」(申し訳ないが僕はメディアとは呼びたくない:なぜならメディアというのは、どんなにポンコツであろうと少なくとも明確な責任体制をもったものにしか使いたくないからだ)のせめぎ合いに興味などない。僕自身はそうした情報にたくさん触れてはいるが、一切無視している。いや、無視していると言うと語弊はある。世の中でどんな考えがあるのかは知っておく必要がある。
 だが殆どの場合取り合わないのだ。そもそも取り合うに値するものなどない。だがこの何の正統性もないものが、確かに無視できない影響力をもっている。それは望ましい状況ではない。制御できない感情、無知・誤謬、整理されていない「呟き」はそんなものに満ちている。
 一方で、オールドメディアは彼らを攻撃してくる新「バイタイ」を気にしている。中途半端な民放の報道番組にはネットの情報をベースに番組を構成しているケースもあるくらいだ。誠にイカンである。こうしたものに対処するのは「全員が取り合わない」以外の解決策はないのが事実である。

「今、世界中に幽霊がでる。SNSという幽霊である」
 敢て言えば、共産主義もSNSも実態のあいまいな亡霊に過ぎないのだが、人を動かす力はある。なぜなら人は往々にして騙される動物だからだ。共産という共同体幻想、SNSという「中立的な情報、マスコミに汚染されていない生の情報」そんなのは嘘っぱちに過ぎない。
 しかし、というか「しかも」SNSというのはツールでしかない。
 ならば、問題の本質はそこではない。なぜ、こんな事が起こったのか?そしてそれは兵庫県という一地域の異常な問題ではなく、もしかしたらもう少し普遍的な問題なのではないか?どうも僕は県知事そのものよりも、その構造と、それを引き起こした周囲の方によほど関心があるのだ。
 県知事自身はある程度有能な官僚出身なのかも知れないが、発言を聞く限り反省のできないパワハラ体質の人間のように思える。そうした人間の性向というのはあの年齢になれば変わるものではない。その上、選挙で「信任」までされたわけだから、よほどのことがない限り同じような事になるであろう。普通の人間が権力を持った途端に暴君になるのは、弱さだが、周りにもそうさせる要素がある。暴君に暴君となる栄養たっぷりの環境にしてしまったのは選挙民である。そのつけを払うのは県民になるかも知れないがそれは選んだ側の問題である。まあ、本人が強い意志を持てば変われることもあるかも知れない。別に県民に恨みもないので、可能性は薄いかもしれないがそう期待したいものだ。
 県知事そのものにはその程度の興味しかない。
 ただ、その県知事を取り巻く環境には非常に「嫌な臭い」がする。恐らく、選挙結果を批判する人々は「どこか怪しく作られた(少なくても、そのように見える)」オピニオン作成プロセスと、それに「乗っかる」民意に嫌な臭いを感じているに違いない。そして、それを作ったものたちは「民意」を楯にそうした批判者を吊し上げる、そのプロセスにも嫌な感じを持つし、そのプロセスに乗っかろうとしているコメンテーターやマスコミにも嫌な感じしか持たない。
 つまりその臭いが日本中に蔓延するのではないかと僕は恐れているのだ。そしてこれと同じ匂いがアメリカ大統領選挙にもしたのである。SNSというものが単なる亡霊だとしても、その亡霊の裏にある何か、それが嫌な臭いを発していてSNSがそれを拡散するツールとなっている、その状況が悍ましいのである。

 アメリカは残念ながら兵庫県よりも、遙かに直接的な影響がありそうだ。そもそも次期大統領には政治的なセンスも論理もない(もちろん、あると考えている人もたくさんいるのだが、それは「政治的」ではない)ので、先行きはどうなるかは分からない。政治というのは、先行き不透明というのがもっとも危険な状況である。アメリカ第一主義というのは主義でも何でもない、単なる主張であり、アメリカ第一主義といえば聞こえは良いが、要は「アメリカ以外はどうなってもいいという主張」であり、アメリカさえ良ければ(少なくとも他国に措いては)民主主義とか自由主義といった根本的価値も放棄して良い、それが彼を選んだ国民の本音なのである。
 だが・・・そんなアメリカは歴史的な国際政治の文脈の中ではアメリカですらないのである。アメリカはアメリカである事を放棄しようとしている。そのつけはやがてアメリカ自身がリスペクトと信頼の崩壊という形で払うことになるだろう。だが、国際政治という文脈に措いてはアメリカの同盟国は全てそのつけを払わされる。
 別に防衛費とかの負担が問題なのではない。アメリカが信頼にたる国家でなくなることによって迫られる対応の変化こそが大問題なのだ。
 本来、トランプは「大統領にしてはいけない人物」である。他の数重なる愚行はともかく「議会襲撃」という民主主義に対する挑戦を犯した人物だからだ。
 本人が先導したかどうかに関わらず(少なくとも僕は、半分は確信犯だと思っているが)そうした事態を止めなかった時点で、彼は既に大統領失格の烙印を押されるべき人物である。それにも関わらず、アメリカ国民は彼を選んだ。それが正しい民主主義のプロセスであろうと、正しい民主主義の結果と僕は思っていない。トランプの場合は彼自身が自覚して行動しているから、周りのせいにできないが、取り巻くものたちには同じ「嫌な臭い」しかしない。
 「嫌な臭い」は実は民主主義国家であろうとそうでなかろうと時代・場所を問わずにつねにある。だが嫌な臭いを放つ人間とそれに巻き込まれる人が多い時代は、必ず悪い結果が起こる。
 民主主義という考え方は常に「天日干し」をしないと嫌な臭いを放ち始める。そして世界の各地において従来の民主主義は既に意志決定プロセスとしては臭いを放ちつつある。それは先ほど述べたような、日本の地方選挙に見られる単なる古くさい臭いではなく、腐臭に近いものである。そのことを最初に感じたのはフィリピンでドゥテルテ大統領が誕生した時で、以来、アメリカの大統領選挙、欧州議会選挙などで懸念はずっと増していった。そして腐臭はどんどん強まって日本でもその臭いを都知事選で強く感じた。
 テレビに映し出されるアメリカ大統領選のトランプ支持者や兵庫県の界隈にどこかあの「ミュンヘンで発生した悪夢」を感じた人が居ても不思議ではない。それはそこにヒトラーという人間を観るからではない。民主主義国家でありながらヒトラーを生んでしまった社会、リヴァイサンに大切な何かを渡してしまった人々の風景を見るからである。
 それでもワイマールの下のドイツ人には第一次世界大戦で払わせられた賠償金に伴う貧困というある意味、切実な言い訳があった。しかし、今のアメリカにはそれほどの社会的問題はない。そこにあるのは「新参者」に対する妬みであり、昔のWASPsたちがそれに執着している姿を見ればあの国家は確かにもうあの「偉大なアメリカ」ではないのかもしらない。恐れられもするが尊敬されるアメリカには二度とであうことができないかもしれない。
 少なくともYou will never make great America again.それが僕の残念な思いである。

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