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む、む、む。

 以前、「としよりの戯言」というエッセイの中で「自転車 その暴力的な存在」という一文を書いた。その中に自転車の無法運転を放置していると、それが更にバイクや車の無法運転に繋がると記した記憶がある。
 先日、そうした情景に出会った。山手通りでは歩道がそこそこ広いので時折、バイクがエンジンを掛けたまま歩道を運転するのである。自転車に乗っている感覚が拡張されたのか、広い歩道なので車道感覚が拡張されるのか、とにかく脳に締まりの無い人間は時折、そうして拡張感覚のままに行動する。
 深夜ではあったが、公園の前に止まったバイクに、
「エンジンを掛けて歩道を走っては駄目ですよ」
 と声を掛けた。すると、バイクにまたがった30歳くらいの男は
「何で、ですか?」
 と問い返した。原初的反応である。ミドリムシが光に反応するようなものである。問い掛けられる準備もせずに無自覚な人間は取りあえずこうした間抜けな反応をする。
「免許持っているんでしょ?習いませんでしたか?」
 そう言うと、今度は
「エンジン掛けていません」
 と反論してきた。それが反論というならば・・・、ね。だって今も掛かっているじゃないか?
「掛かっていますよね」
「掛かっていません」
 意固地に反論してくるのは、こちらが警官でもなければ、プロレスラーにもみえない、ただの年寄りだと思うからであろう。そんな視野の人間と議論をしても仕方ない。取りあえず、そんなことでも注意されるという事を知ってもらいたいだけで、下らない争いをするつもりはない。そのまま立ち去ると、なんとその男は、今度はエンジンを掛けて歩道を走って僕を追い抜いていったのだ。今時中学生でもそんな反応をするのはクラスで1番のお馬鹿さんである。
 見るとその先の信号らしきところにバイクを止めている。といってもその信号は高速の出口にある信号なので、歩道を走っていったバイクには何の関係もない。どうやら、こちらが近づくのを待っている様子で、脅しているつもりなのかも知れないが、止まるところと言い、やっていることと言い、どういう教育をすればこんな人間ができあがる物なのか?
 案の定、脇を通り抜けるときに
「ちょっと」
 と声を掛けられたが、僕は犬の糞を見るようにして通り過ぎた。脳に締まりの無い上に、猿でも出来る反省もしない人間などというのは犬の糞とたいして変わらない。不快だが、こちらで始末する義理もない。
 注意しても一生、同じような暮らしをしていくのだろう。出来れば犬の糞のような人生を歩んで貰わねば困る。だって、世の中犬の糞に支配されたら嫌でしょ?
 そういえば、つい最近、保険金詐欺を行っている中古車販売会社が頻りに世間の非難を浴びている。笑ったのはその会社が「仕事の能力」と「考え方」をマトリックスにして、「社長や会社の言うことに同調できるか」を「考え方」の基準にしている事である。それは「考え方」ではない。「考えることができる」か「考えがない」かの基準である。「考えがない」ことをこの会社は評価するらしい。どうやら「そういう人間」が作った会社のようである。車周りというのは、人間性が良く出る場所らしい。

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