僕は株式投資をそんなにやっているわけではないが、所有している僅かな株式の中に京浜急行のものがある。電鉄会社はたいてい株主優待というのをやっていて、年に初夏・初秋の二回無料の切符を送ってくれる。それを使えば、沿線にある駅やバス停留所なら無料で訪れることが出来るのだ。
京浜急行は住んでいる場所の沿線ではないが、品川まで出ればそこから無料で逗子や三崎口や浦賀など「小旅行」と呼ぶほどには遠くまで行くことが出来る。東京に在住して海が好きならば結構使える優待券なのであるが、初秋に送ってくれる分は大抵、その年の内では使い切れない仕儀になる。海というのは、やはり秋・冬は寒々しいもので、女の子に振られた時の「バカヤロー」の吐き出し先になる位しか使い道がないのである。その初秋に貰える優待券の期限は翌年の5月末というのが一般的で、京浜急行も同様である。5月にもなるとさすがに「バカヤロー」の季節はもう終わっているので気力さえあれば初夏の海を楽しむことが出来るのだ。
手元に4枚の切符が残っていた。4枚あると、例えば三崎口まで行って、そこからバスを使って城ヶ崎や油壺まで往復することが出来る。片道1200円くらいなので2400円儲かったという話になるのか、というとそれは違うような気がするが、もともと行くつもりがあるならばそう考えてもおかしくはない。
そういえば歴史的建造物の本の中に三浦半島方面にある建物が入っていたと思ってページをめくると油壺にも城ヶ崎にもあるらしい。とりわけて油壺の方には「東京大学大学院理学系研究科附属三崎臨海研究所」とあるではないか。なんと言っても大学の施設である。それも国立、その冠たる東大の大学院の研究所であり、かつ白金とか上大崎のような地価のむちゃくちゃ高い場所ではない。そんな建物を解体する金があるなら別のところに使うであろうし、ちょうど天気も良さそうだ、というので重い腰を上げることとした。「もともといくつもり」を装うためである。荷物を型にぶら下げて外に出る。
快晴である。無駄なほどに快晴である。憂鬱な雨の日に海へと出掛けることを考えるなら百万円くらい払って良さそうな快晴である。
徒歩で五反田まで行き、そこから山手線に乗り品川で京浜急行に乗り換えるとちょうど久里浜行の電車がやってきたのでそれに乗り込む。久里浜から三崎口まではそれほど遠くはない。向こうについたら乗り換えれば良い。暢気に空いた座席に座って辺りを見回す。僕とさして年の変わらない三人連れの女性はたぶん中学とか高校の同級生なのだろう。最初の内は二人だったのだが、途中の金沢八景駅でもう一人加わった。どうやら本来なら品川で一緒に乗るはずだったのに一人だけ逸れたらしい。援軍が加わった集団は三人集まれば姦しい、という字の起源が分からせるためのようにお喋りが尽きない。一時間ほど掛けて電車は三人連れを伴って久里浜へと到着する。そこで騒々しい三人組から少し離れるためにプラットフォームを歩いて先頭車両の方へ向かった。乗り換えの電車はなくて、品川から遅れて出た「特急」がやってくるのを待たざるを得ないみたいだ。女子高校生が二人、電車を待っているけれど、こんな時間に登校なのか知らん?
ホームで10分ほど待っていると、品川からやってきた特急電車が到着して暇なおじさんや仲良し三人組のおばさんやちゃんと学校に通っているのか少し怪しい女子高生をプラットフォームから一挙に浚って行った。
三崎口についたのは11時少し過ぎであった。行き先は油壺と決めていたのだが、バス停の時間をチェックするとバスは出たばかりである。特急が到着してから出発すれば良いのに、同じ京急の電車とバスなのだからそんな意地悪はしなくても良かろうに・・・。城ヶ崎の方はすぐにバスがやってきた。激しく心は揺れたが城ヶ崎の灯台は去年見に行ったばかりである。で、城ヶ崎に行くのはやめることとして仕方なくコンビニで飲み物を買って時間を潰す。まさか、京急バスは親会社ではなくコンビニと結託したわけではあるまいな?と、小人は暇になると余計な思いを抱くのだから、京浜急行さん、考え直してくださいな。
小一時間待たされた挙げ句、漸くやってきたバスに乗り込んだ。乗り込んできた乗客の中に二人連れの女の子がいて、片方は制服をもう片方は私服を着ていたのだけど、私服の方の女の子が惚れ惚れするほど手足が長く姿が良い。もう片方の女の子も十分容姿は綺麗なのだけど霞んでしまうほどで、眼福である。しかしあんまり眼福を主張すると変態に見える可能性があるので我慢する。ああ、「夏服を着た女たち」っていう小説があったけど、そんな季節になったのだなぁ。あちらはニューヨークの五番街で、こちらは「油壺入口」のバス停だけど・・・。
バスは乗客を少しずつ降ろしていき、最後まで乗っていたのは僕ともう一人だけであった。終点から少し歩いた先に観潮荘というホテルがあって以前そこの日帰り温泉を訪ねた事があるのだが、そこから道路を挟んで東京大学大学院理学系研究科附属三崎臨海研究所がある。その説明の看板があったので眺めていたら、どうしたことであろう、その本館も水族館も既に解体をされていると書いてあるではないか・・・?
「おお、東大よ、お前もか」と死にかけたカエサルのような言葉を思わず僕は呟いた。このまま引き返すべきなのか?だが、その以前建物があった方向へと続く道は僕を誘うように続いている。新しい寄宿舎の方には立ち入り禁止と書いてあるが、その道には禁止の立て札はない。その上、道の奥からはホーホケキョとしっかりとしたウグイスの鳴き声が誘うように聞えてくるではないか。
建物のかわりに鳥の鳴き声と景観を楽しもうと海へと続く小径を歩き始めた。相も変わらず天気は素晴らしい。少し行くと、左手に海が見える。湾の中に小島が幾つか佇んでいて、素晴らしい景色である。後で調べると油壺湾と諸磯湾に囲まれた地形だそうだが、東京から一時間ほどでこんな景色を見られるというのはバスの女の子に劣らず眼福であるし、こちらがいくら見惚れても構わないわけでよほど具合が良い。
臨海実験所の脇から油壺湾に降りたところにある砂浜と、そこから眺めることのできる断崖の褶曲は海食崖なのであろうか、とても見事である。季節がまだ早いせいか、人影が少ないのもとても良い。バス道に戻り観潮荘で海鮮丼を食す。これもまた具合の良いもので、歴史的な建造物のかわりにそれを上回る美しい景色と食事を堪能することが出来た。
それから数日して、実家の片付けをしに行った。病気をしてからというもの、それまでは毎週一・二度していた片付けの回数は月に二回に減ったが、放置すれば庭にある植木がどんどん伸びる。それと少しずつでもごみの片付けもせねばならない。
その日は生け垣の枝を切って燃えるごみを出した。税金の関係もあって今年中に解体をして引き渡しをする方向で不動産屋と話を進めているが、まだ話はない。一応、片付けをしてごみを出し、収集車がそれを持ち去ったのを確認してからその日は吉祥寺にある百貨店を訪れてみようと思い立った。夏に向けてポロシャツを一枚買い足したい。普段着はファストファッションで済ませているが、少しは外出用の衣装も手に入れないと・・・。そうした買い物も東急の本店が閉まったので、実際不便で仕方ない。実家の近くから吉祥寺行きのバスが出ている。そのバスに揺られて数十分、というか一時間近くかけて吉祥寺に到着した。そこで百貨店を訪れてはみたが、もはや百貨店というより独立店舗への不動産賃貸業のような仕儀になっているので、せっかくの株主優待券も殆ど使えない。(京浜急行以外にも株式は持っているのである)まあ、仕方有るまい。ブランド物と呼ぶには少し安めのポロシャツを買った。まあ襟の仕立てさえしっかりしていれば良い。
それから懲りもせずに近くにある歴史的建造物を訪ねることにした。徒歩で十分ほどしたところにそれはある。建物には門があるが、どうやら関係者でもない人々も入っていくので自由に開放されている施設らしい。念のため門の前にいる警備員に尋ねてみた。背が低いのだが、小太りと言うにはあまりにもウェストが太い。こんなに太っていて不審者を追いかけられるのかと心配になるほどであるし、背後にある門扉に乗っけでもすればハンプティダンプティにしか見えない。
「すいませんが、ここは入っていいのですか?」
「はぁ、どのようなご用ですか?」
なぜか太った人間というのはこちらが思うより常に声が高い。
「建物の写真を撮りたいんですが?」
「写真?写真は駄目です」
写真は駄目?そもそも建物の写真を撮ることになんの害があるのか?それに、
「いやちょっと道を抜けたいんで」
と言って入って途中で写真を撮ることも可能ではないか?正直に写真を撮ると宣告して何の問題があるのであろうか?
とはいえ、最近は写真でいろいろな問題も起こっているし、敷地内で様々な犯罪が起こるケースもあるのかもしれない、と思いつつ、念のため
「なんで駄目なんですか?」
と聞いた。
「いや、受付で許可を貰わないと駄目です」
ハンプティダンプティは短い首を振って答える。さすがハンプティダンプティである。即刻、門から落ちて壊れてしまった方が良いと思わせる典型的な駄目回答である。
1) つまり駄目ではなく、許可を貰っているなら良い。ないし、許可を取ってくださいが正しい回答
2) 理由を聞いているのに理由を答えない回答
世の中にはこうした愚かな受け答えというのは氾濫している。テレビで政治家にインタビューをすると大抵、なぜ?に理由を回答しない。理由を聞かれても答えられないから状況を繰り返して答えらしき物を呟く。卑怯極まりない。
しかしインタビューワーも心得ているのかそこを突っ込まない。出来レースで禅問答である。しかし、ハンプティダンプティ相手に禅問答をする理由などこちらにはない。そもそもその施設を運営する主体にも個人的には疑念があったので、要はそういう施設であり、そういう施設にはそういう警備員がいるものなのだと変な言い方だけど納得せざるを得なかった。
馬鹿は集まる、以て烏合の衆である。近寄らない方が良い。ならば、そんな歴史的建造物にも近寄るのを諦めよう、と心を決めた。
で、翌日図書館に本を返却した。まあ、本に頼らなくても世の中には面白い建物というのは幾つか見つかる。先般、上野から合羽橋に向かう最中に見つけた建物の写真を添付してみよう。現役の歯医者さんらしい。建物というのは公共の場に立っているものであるからして肖像権という物はない筈だ。そう信じよう。ところで一体いつ建った建物で、どうやって関東大震災と東京大空襲を凌いだのであろうな?