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演奏というもの

 年末恒例と言えば、アメ横の取材、大掃除、年賀状など様々なものがあるけれど、クラッシック音楽ではジルベスターコンサートとベートーベンの第九である。第九を年末に聴くというのは巷で言われているとおり日本特有のものである。昔住んでいたドイツでもイギリスでも年末に第九を演奏することはあったがそれが恒例行事というわけではない。たまたまそうなったというだけで、曲目がヴェルディのレクイエムに変更されても同じベートーベンによる「英雄」になってもどこからも文句は出てこない。日本で同じ事をしたら大層な文句が出るであろう。
 そういうと第九を年末に演じる事への批判と聞えそうであるが、全くそんなことはない。年末にだけでもクラッシック音楽を聴くという文化は大切にしたい物である。ベートーベンの第九というのは先にも触れたとおり、交響曲と同時に宗教音楽の性格を有しているが、その信仰の先は宗教ではなく「市民」「権利」「自由」といった、あのベートーベンが産まれた時代の新しい価値である。そうした意味のある曲を年末に聴く習慣というのは悪くはない。
 しかし昨年の年末から今年の年始に掛けて、僕は第九ではなくてベートーベンの第7番イ長調の交響曲を聴き続けた。「MY BESTS」という随筆の中でベートーベンの第7番の交響曲の項を書くためである。聴いたのは全部で15枚だから時間にすればだいたい8時間、何度か聴き直したものを含めればざっとその倍ほどは費やしたであろうか。それだけ聴いても全く飽きの来ないというのがクラッシック音楽の良いところである。同じ曲でも演奏家が違えば全く違う曲に聞えることさえあるし、同じ盤であっても、細部に拘れば今まで見えてこなかったこと、聞えてこなかった部分がどんどんと出てくる。
 随筆の中で僕はこの交響曲を内田有紀さんに例えた。であればそれを演奏したあまたの指揮者と交響楽団はではなんであろうか?変なたとえばっかりだと思われたら申し訳ないが、敢えて言えば指揮者というのは「曲」という人物をデッサンする画家のようなものだ。そして楽団は筆であり絵の具であり、絵を背負う紙である。
 そしてクライバーという優秀な画家がウィーンフィルという素晴らしい画材を使って内田有紀さんを一番素敵に描いてくれた。その絵姿は紫のドレスを着、美しいティアラを髪に飾ったまるで王女のようだ。
 一方でクレンペラーは彼女には演劇に賭ける、人に知られていない暗い情念があることを知らせてくれる。彼女の横顔は陰って何かを執念深げに見つめている。その姿はファナックだが魅力的だ。
 少し古風なフルトベングラーの描く白黒のデッサンを見れば彼女は偉大な舞台女優であり、そのデッサンに色鉛筆で色を加えればクリュイタンスの演奏となる。スィットナーが描く彼女は素直で明るい天使のような爛漫な女性だ。だが一方でその生真面目な部分をコリン デービスが描いてくれている。意外とせっかちでおっちょこちょいな部分はトスカニーニによって描かれる。その全てが素敵な女性で、全ての絵が素晴らしく思える。
 それが、クラッシック音楽が他の音楽のアプローチと根本的に違うところなのだ。演奏家が情念を込めて演奏する事によって僕らはその曲の新たな、別の姿を見ることが出来る。それはその曲の価値を高めると共に、その曲が演奏家の価値を高めることができる。だからこそクラッシック音楽は弾かれ続け、聴き続けられるのだとそう思っている。

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