• 歴史・時代・伝奇
  • エッセイ・ノンフィクション

小野照崎神社を尋ねて

 以前、「竹の下の皇」という小説で小野篁という人物の生涯を描いた。その際に一度小野照崎神社を訪れたことがあるのだが、先日朝の番組で紹介されていて懐かしい思いがしたので再訪してみた。
 小野篁自身がここらあたりに来た事があるのかどうかは寡聞にして知らないが、父親の小野岑守が陸奥守に任じられ、篁も同行したことからその東下の際あるいは入京の際に東の国を経由したとしても不思議ではない。縁起には「852年に篁公、御東下の際に住まわれた」と書かれているが同年は篁の死の前年(暦によっては同年)で、足の病を得て参朝も叶わず引きこもって療養していた時期である。従って東の国に足を運ぶのはおおかた難しいと思うが、なにせ地獄とこの世を往還した人物であるからして、足が悪くとも必要とあらばこのあたりに出没したとしても不思議でないのかも知れない。
 前回は地下鉄で入谷の駅から訪れたのだが、今回は鶯谷の駅から歩いてみた。
 鶯谷というのは山手線の中で最も美しい名前の駅である。そのわりには地味な扱いを受けているが、かつては上野の後背地として寺社などで栄えた地であり、今もその名残かやたら寺社が多い。自分の住む目黒・五反田付近も寺社が多いが風景はだいぶに違う。目黒のあたりは高輪の大木戸の先で、昔は江戸の扱いではなく寺社も江戸の人からするとちょっとした「旅先」の扱いであり、目黒不動尊などは観光の地であったという。寺も神社も山や丘の上に建てられているものが多い。それに比べると鶯谷周辺、入谷のあたりの寺社はずっと地元の生活に馴染んでおり、寺社のたたずまいもごく自然に町の中に溶け込んでいる。「おそれ入谷の鬼子母神」も近くにあり、寺社・神社の密度は大変に濃い。
 小野照崎神社は金杉通りから少し入った場所にある。松の内は過ぎたとは言えまだ正月の名残なのか参拝客は多く、社殿の脇には絵馬や破魔矢、お守りを売っている授与所が開いており、巫女さん姿の女性が参拝客の相手をしている。最近は御朱印というのも流行らしいが、この神社の絵馬には文鳥が書かれていることで有名であり心惹かれるものがある。前回来たときは願いを書いて納めたのだけど、今回は遠慮してお賽銭だけを納め、境内をぶらぶらしてみた。さほど広くはないがそのわりに猫がたくさんいるのに気づく。見ると年取った女性が餌を与えている。我が家の近所にも神社があり数匹の猫が住み着いているが、基本「猫には餌をやらないでください」というのが最近の社会の標準で、それに沿った扱いを受けている。それに比べるとおおらかなものだと思いながら境内の端にある織姫神社にお賽銭を供えようとしたら黒猫が先にお参りをしておりなかなか動かない。よく見ると耳が三角に切られているので地域の保護猫になっているのであろう。頭をなでても振り向きもせずに何やら一心に頼み事をしている。頭をなでられて振り向かない猫などいないと思っていたがよほど安心しているのかよほど大切な願い事をしているのかどちらかなのであろう。仕方なしに猫越しにお賽銭を供えさせていただいた。    
 ちなみにここの富士塚は有名である。縁起を見ると重要文化財に指定されていた。残念ながら年に一度きりしか開かないので門扉越しに拝むしかないのであるが、その門扉のすぐそこに「二合目」と書いてある。門が開けば一歩で二合目にたどり着くことが出来るのに、残念なことだ。
 再び境内の中をぶらりとしていると先ほど見た授与所の屋根に何か動くものがある。よく見ればそれも雉虎の猫で、ゆうゆうと股を開いて毛繕いをしておる。神様に失礼な、と思ったがもちろん猫にそんな気遣いはない。よく考えてみれば主祭神である小野篁もたぶんそんなことは気にすまい。彼はそうした人物であった。屋根は日に照らされて程よく暖かいのであろう。ほのぼのとして良い景色なのでスマホで写真を撮ろうとしたが、巫女さんが写真に写り込んでしまう。巫女さんの写真を盗撮しているみたいで具合が悪い。申し訳ないと思いつつもそれでも猫と巫女さんの写真を撮らせていただいた。新年の参賀に大きな神社に行くと大量の即席巫女さんがおみくじなど販売しているのは巫女さんの大安売りみたいで余り良い景色ではないが、この小野社みたいな規模の神社に一人いる巫女さんというのは、もしかしたら本当の巫女さんじゃないか(そんなわけはないが)と思わせる風情がある。白と朱の装いも凜々しい。いや・・・あくまで猫を撮ったのです。それが証拠に巫女さんの顔は見えないように配慮した。
 ちなみに此処に祀られているのは小野篁だけではなく、菅原道真も共に祀られている。二人の共通点といえば、どちらも遣唐使を忌避した(遣隋使や初期の遣唐使と違い、晩唐の中国には余り行く意味はなくなっていた)ことと藤原氏と対峙する存在であったことだ。そんなこともあって時代は異なるが二人とも仲良く西国に流された存在であり、篁はなんとか帰ることは出来たが道真は遠く太宰府から藤原氏を呪った。反骨の政治家が二人、どちらもNOといえた珍しい日本人でかつ尊崇すべき存在がここ入谷の地で拝むことが出来るのは良いではないか。
 帰りは上野から、国道4号線を上野駅の方に向かって歩き始める。国道4号というのは末を辿れば奥羽街道や日光街道であるが、このあたりでは昭和通りと呼ばれている。
 途中に鬼子母神の祀られた真源寺に寄った。取り分けてなんと言うこともない寺である。しかし「おそれ入谷の鬼子母神」という時代を超越したキャッチフレーズのおかげで雑司ヶ谷の鬼子母神と並んで有名になった。「なんだ神田の大明神」と並んで江戸時代の秀逸な親爺ギャグだが、親爺ギャグの元祖は掛詞であろうから、由緒正しいものと言える。上野に向かう道にはやたらとホテルが多い。ビジネスホテルが殆どであるが中にはラブホテルらしいものも混じっている。
b祈りと生活と由緒とビジネスと恋愛と、そしてたくさんの猫。ときおり、見知らぬ東京の町を訪ねるのは面白いものだ。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する