「ピアニストに恋をして」という随筆でつい最近バックハウスについて書いたのだが、公開した後に棚に彼がモーツアルトを演奏したCDがあるのに気がついた。なんとも迂闊である。バックハウスと言えばベートーベンとブラームスと勝手に決めつけていた。見つけたのはK595(27番)のコンチェルトとK331(11番)のピアノソナタ(トルコ行進曲付き)が入ったCDであり、それを聴いた感想をここに付け加えようと思う。この演奏、一言で言うと、「襟を正した演奏スタイルだからこそ、そこからにじみ出る抒情性の美しい」、そういう演奏である。
ベーム/ウィーンフィルとバックハウスという組み合わせは演奏家として重量級で、実際ブラームスなどでは予想に違わぬ重量級の演奏なのだが、モーツアルトとなると全くそんなことはない。彼のピアノ協奏曲はある意味口当たりの良い曲が多いし、ベートーベン以降のピアノ協奏曲ほど難曲ではない。だが・・・だからこそ難しいという側面もあるような気がする。ベートーベン以降の協奏曲が概して聴きながらその演奏を評価するのに対して、モーツアルトの協奏曲は聞き終えた後味の方が重要だ、とそんな風に僕は思っている。なんというかモーツアルトについてはそれぞれの協奏曲を聴いているうちに浮き上がって眼前に結ばれてくる像というものが存在する。その像が、聞き終えたときにきちんと結ばれている演奏こそが素晴らしい演奏なのだ。
何もモーツアルトだから軽いと言うことではない。オペラセリアやレクイエムを初めとした宗教曲・一部の交響曲にはベートーベンと遜色ない複雑で重厚な曲が存在する。ただ、それらに比べれば、協奏曲やソナタ、四重奏曲などは比較的気軽に作曲されたものが多い。それは作曲の成り立ち(貴族などの依頼によるものが多い)によるのかも知れないし、別の要因なのかも知れない。あるいは僕の感想自体が勘違いなのかもしれない。
勘違いだとしたら容赦していただくことにせざるをえないけど・・・。
オペラや宗教曲をメインディッシュに例えるなら、ピアノ協奏曲は食後の紅茶によく似合う上質のデザートのようなものである、と思う。ハイドシェック・ポリーニ・ルプー・カサドゥシュ様々なピアニスト達が弾く素晴らしい演奏その後味は様々ながら凝集されたものでみな素晴らしい。ハイドシェックは上品なクロッティドクリームをのせたスコーンの味(あるがままのモーツアルトが素直に出たチャーミングな演奏。とりわけニ短調は美しい)、ポリーニは複雑なリキュールを使ったティラミス(正統派でありつつ、素晴らしい技術に裏打ちされた複雑な味わいのある演奏。やはりベームがウィーンフィルを振った19番や23番が素晴らしい)、ルプーは爽やかなジュレ(いつまでもモーツアルトらしい若さを失わない演奏)、カサドゥシュはチーズケーキ(加えられたレモンが上品さに深みを増している、そんな味わいのある演奏)・・・。そういう比喩をすればバックハウスのものはオーストリアのアプフェルシュトルーデルであろうか?シナモンのすっきりとした味わいがリンゴの甘さと酸味を引き立ててくれる、そんな演奏であった。
だがそうした確固とした後味を形成するのは意外と難しい。僕の棚にもいくつかそうした演奏がある。本職のクラッシックのピアニストではないので申し訳ないが敢えて例に挙げさせてもらうと、例えばキース ジャレットが指揮者のラッセル デービスとシュツットガルト室内管弦楽団と演奏した3つのモーツアルトのピアノ協奏曲があり、その一つがK595である。この演奏、ジャズピアニストが思いつきで演奏したようなものではない。断片を耳にして、これがジャズピアニストの演奏だと当てることが出来る人は稀であろう。それほど本格的な演奏である。確かに良く聴けば時折左手が怪しいとか、三連符の弾き方が独特だとか気づくが、基本的にオーケストラを含めてかなり丁寧に演奏されている。
その意味では感心させられる演奏なのだが、聴き終えて感想を再構築してもどうも明確な姿が立ち上がってこない。全体を聞き終えたときに全てが雲散霧消してしまう、そんな曖昧な像を結ばない景色。だがバックハウスを初めとした演奏家達はそれぞれの協奏曲でくっきりとした像が浮かばせる。
モーツアルトの協奏曲はピアノに限らずかなりの曲がそんな印象を抱かせる。「クラリネット協奏曲」にしても、アマチュアのために書かれたにしては余りに美しい「フルートとハープのための協奏曲」にしても、ヴァイオリン協奏曲やホルン協奏曲も、である。不思議なのはしかし一定レベルの奏者が弾きさえすればどんな演奏でも聴いている最中は「そこそこ聴ける」のだが聞き終えたときにバックハウスのような演奏のレベルを超える名演に至るのはとても難しいように思える。
ソナタも同様でバックハウスが弾かなくても「トルコ行進曲付き」はある程度ピアノを演奏した人ならば弾ききることの出来る曲なのであろうけれど、彼の手にかかると「きちんとした一品」になり高級なレストランで供される一皿になり得ることがはっきりと分る。
モーツアルトにはモーツアルト弾きと呼ばれるピアニストが多く存在し、その多くは女性で例えばクララ ハスキル、リリー クラウス、イングリッド へブラーなどであった。今ならばピリスとか内田光子などの名があげられるだろう。確かに彼女たちのアプローチはチャーミングであるけれど、その結ぶ像は僕が思っている像なのかといえば、残念ながら違っている事も多い。その演奏のいくつかは素晴らしいもので僕も愛聴しているけれど、全てではない。そんなわけで僕は未だに定番のモーツアルトのピアニストを見つけられないまま、僕はいろいろな奏者の協奏曲やソナタを聴き続けている。たくさんの協奏曲とたくさんのソナタ、それらの素材を生かしてくれるパティシエを探しながら。
WOLFGANG AMADEUS MOZART
Klavierkonzert Nr.27 in B-dur, KV 595
Klaviersonate Nr.11 in A-dur, KV331
Wilhelm Backhaus, Klavier
Wiener Philharmoniker
Karl Bohm
DECCA 2894-30869-2 MG