お気付きになった方もいるかもしれませんが、「エロス」と題した小説を先日非公開にしました。事務局から公開抵触基準となるR15相当を超えているとの指摘があったので自主的に非公開にしたもので、それに伴い先日予告した続編も公開しないことにします。理由は「R15とかR18というような言う基準は映倫がその作品を見て評価して決めるものであり、映画の配給元が自主的に決めるものではない」、すなわち小説においても基準を作家が自主的に判断することはできないためです。となると公開して、指摘を受けてから非公開にする、ということしかできないわけで、さすがにそれはめんどうですから、申し訳ないが予告はなかったものにさせていただきたい。
こういうのは日本でも「チャタレイ夫人の恋人」以来何度も議論されているわけで(もちろん自分の小説がDHローレンスの傑作に比肩すると主張するつもりは毛頭ないけど)セックスとかヴァイオレンスというのは個人・個人でどうしても基準がバラバラなわけでそれを云々しても仕方ないのです。
私見としては、「セックスに関しては『同意のないもの』『暴力を伴わないもの』に関して以外は個人の嗜好の範囲内」だと捉えておりそれを描く限りにおいては基本的に表現の自由の範囲内であると思っている、そしてそれは基本的にモダンロゥに照らして違法ではないからという一つの確固たる基準だと考えています。
それを超える規制は基本的に道徳的・宗教的規制になるので、これはもう境界が判然としないエリアになりますが、道徳的・宗教的規制を僕個人としては一律に否定するつもりもない、そこはある意味白とも黒とも言えない境界でもしかしたら明日には、強まる方にも弱まる方にも動くかも知れないゾーンであるし、その論理・倫理が包摂する「コミュニティの問題」でもあるからです。
ヴァイオレンスに関しては更に難しく、暴力シーンを「法的適合性」で自主規制した途端に作品が描けなくなるわけで、これは「作品全体の方向性で結局暴力は否定されるところである程度事後的に社会との整合性を持たせる」という方式が主にとられているのだと思量します。だからこそ、刑事ドラマは最後に捕らえられた犯人が反省するのであって、これ、反省しないと困るのだろうなぁ(現実には反省していない奴がたくさんいるのだろうけど)。ですが小説ではもうそうした事後的整合性もとれなくなっている作品も散見されていて、それは社会にも微妙に影響を及ぼしている感じがする。中には小説ではなくて現実に犯罪者が書いたノンフィクションさえ出版されている始末ですから。
話を戻します。そういえば昔、ヘアヌード問題というのがあって、「毛が一本でも」見えたら許されない、という警察の方針をおちょくっていた評論家や雑誌もあったけれど、あの「毛が一本」というのは、「明確な基準」として、取り締まる方としてはどうしても必要で譲れない基準であったのだろうな、と思います。それを許したらただでさえ、がたがたになっていた基準が一挙に崩壊することが見えていたからこそ、拘っていたのだろうなぁ、と今思えば懐かしい。結局崩壊しちゃったけど。
「規制がなくなることで良い社会になる」というわけでも必ずしもないし(それはちょっと実証されてしまっている)、かといって「じゃあその規制は正しいのかよ」という事に対する明確な答えも、またない。いや、視点を変えてむしろ「規制の範囲」が問題ではないと捉えるべきなのでしょう。社会というのは構成する要素によって、許容される範囲が決まる部分も大きい、というのが現実です。
そう言う意味では今の日本を見ていると「規制の範囲」を甘くすることで「構成する要素」のレベルが低下してしまった結果、「許容される範囲」を広くしすぎてしまったという後悔を招く深刻な理由になっているかも知れない。人によってはそれを反動的と呼ぶかも知れないけど、そんな気もしないではない、と最近のニュースを見ながらそう思っている次第です。線引きが世間の情勢によって変わるのは「仕方ない」のでしょう。
よっていつかは僕の「セックスに関しては『同意のないもの』『暴力を伴わないもの』に関して以外は個人の嗜好の範囲内」という基準で良くなる日が来ると良いなぁとは思うものの、残念ながら続編の公開はその日までお預けということになりましたし、たぶん僕が生きている間にはそういう日は来そうにもない、と思う次第です。残念ながら・・・逆の方向にはなるかも知れない。