• 歴史・時代・伝奇
  • エッセイ・ノンフィクション

古本屋

 今は希少な存在になりつつあるが、ちょっと昔は街に一軒くらい古本屋が当たり前に存在していた。僕なんかは絶版本をよく探しに行ったものである。
 古本屋というのは今やそこら中にあるセコハン書店とは違って、「古」本を探す場所であり、「古」本を引き取ってくれる場所であった。セコハン書店は「古」本ではなく、新刊のセコハンを扱いのメインとするが古本屋は結構読み込んだ本でも何らかの値段がついて、次の読み手へと引き継がれていくそんな場所であった。
 もちろん神保町や早稲田界隈に行けば今でも軒を並べた古本屋があるし、古本市みたいなものも未だに開かれてはいる。僕も「竹の下の皇」を書くときは神保町の古文専門店のところに行っていろいろ本を漁った。「入唐求法巡礼行記」の入った東洋文庫などは今や古本屋にしかない。
 「秋茜集う丘 勇魚哭く海」の執筆にあたっては「高木海軍少将覚え書き」「修羅の翼」などを戦争資料・文学の専門店で買い求めた。三木忠直氏の「神雷特別攻撃隊」を見つけたときは驚いた。攻撃機を設計したその人による記録であるなんて思いもしなかったのである。井上成美伝記刊行会による「井上成美」も貴重な資料であったし、池袋の西口でやっていた古本市では「帝國議会衆議院秘密会議議事録」と予想外の嬉しい邂逅をすることになった。「高松宮日記」は神保町では売っていなかったが、早稲田界隈では複数の書店で売っており、その中で一番安く売ってくれるところで、トータル5千円ほどで買った。
 しかし・・・古本の背表紙のように渋い古本屋の親爺の表情は年を経るごとにますます渋くなっている。高齢化は本屋と客の双方を襲っている。いまだに古本屋を訪れる世代が鬼籍に入れば顧客を失った「古本屋業そのもの」が鬼籍に入ってしまうかも知れない。

 残念ながらセコハン書店には僕の求めている本は殆ど存在しない。例えばプルーストの「失われたときを求めて」を見ても、そこにはたいてい第1巻しか置いていない。つまり1巻目で挫折した人間が売った本しか置いていないのだ。古本屋ではプルーストを大切に読み終えた全巻が置いてある。つまりはそういうことだ。
 セコハン書店でも時折、文庫などを買うこともあるが、どうも新刊をまだ売っている書物を安い値段で手に入れるという行為が正しいのか確信を持てないでいる。本屋は万引きに未だに苦しんでいる。万引きされた本は新しいので容易に高値で売れる。その流れる先は・・・と考える。つまり本屋は万引きされた上にその万引きされた本がどこかの書棚に並ぶことで、二重のダメージを受ける。その一連の流れに加担してしまっているのではないか、そう自分の行動を疑ってしまうのだ。世間ではやたらと出版がされるが、中身が乏しいゆるゆるの本が増え、その中でなぜか「売れる本」(ベストセラー?)ができ、そして大量にセコハン書店に並ぶ。そんな書物の連鎖にあまり文化の香りはしないものである。
 新刊の発行を含めて書籍文化は退廃しつつあるし、クラッシック音楽文化などはもっと激しく退潮しつつある。まあ、それでも仕方ない。世の中というのは文化が退潮する時期もあれば復活する時期もある。国民のレベルが下がれば文化も下がることはしかたのない話なのであって、次の世代かそのさらに先の世代で復活することを願うしか無い。正直言って日本の文化のレベルは常に高い位置にあるわけではない。黄表紙の時代に戻ったのだと思えばいいのだ。というか、そう思うしかない。

 そんな風に考えていた僕であるが実家の片付けをしている最中に出た大量の本をどうするかの問題が発生した。
 最初はそれこそ古本屋さんに引き取ってもらうことを考えた。大量の洋書は大分前に亡くなった弟が買っていたものをそのままにしてあったもので、殆どがフランス語(バルサックやらエミールゾラ、ランボーなど)あるいは英語、それが百冊以上あったので洋書専門のところなら引き取ってくれるかも知れない、と考えたのだが本を検めてみると殆どの書物に書き込みがあった。残念ながら書き込みがある本は古書店でも引き取ってくれない。本なんて言うものは買った人が好きに扱えば良いので、書き込みをしようがどうしようが勝手であるから惜しいとも思わないが、売るわけにはいかないので仕方なしに古紙として行政に引き取ってもらった。
 残ったもののうち私自身の持ち物が置いてあったのは母が暇なときに読むというので実家に持っていった推理小説やらの類いで、書き込みなどはないから、売れそうなものだけ選んでスーツケースに詰めてセコハン書店に持ち込んだ。
 セコハン書店の値付けは単純である。基本的に一冊5円とか10円で売れそうな本だけは多少高くなる。値段がつかない本もある。ついでに家に余っていたCDとかゲームも加えてスーツケースいっぱい持ち込んだ。値のつかなかった本は引き取って古紙扱いで処分する。サービスで置いていって良いとセコハン書店は言うが、値段のつかないものの最期を看取るのは買ったものの責任だし、置いていって売られたりしたら目も当てられない(それはルール違反だから)ので引き取るのが僕の仕様である。
 結局千円ほどにしかならなかった。その千円を持ってさっさと引き取れば良かったのだが、ふと棚においてあった青い背表紙の本と目が合ってしまった。Mas alla del invierno(「冬のあちら側」とでも訳すのだろうか)という書物の著者、Isabel Allendeはチリ人でペルー出身の女性作家である。彼女の小説を最初に読んだのはペンギン社の英文/西文対訳の本でWalimaiという短編であった。インディアンが妻を探しに出かけ、白人に囚われ、その居留地にすんでいて白人に殺された少女の魂を持って居留地を脱走し、自然に返しに行くという不思議な話だった。その話が好きで、いくつか本を買った。
 一つはEl amante japones(日本人<男>の愛人)という日本人が出てくる小説で、愛人となった日本人の親が大本教の信者という設定である。それにしても、なぜチリの小説家が日本人でもあまり知らない大本教など知っていたのか・・・?不思議である。この書物は日本語訳も出ていたのだが、あまり評判にならなかったのだろうか?残念ながら Mas alla del inviernoの翻訳はまだ存在しないようだ。
 その青い背表紙を見たとき、なぜかこの本が自分に見いだされるのを待っていたのだと直感した。値札を見ると700円、正規の値札は€22.90となっているから日本円に直すと4000円くらいであろう。5分の1の値段である。思わず手に取ってしまったこの本は一体どういう経路でこんなところにやってきたのだろう?ヨーロッパで誰かが買ってきたものだろうか。スペイン語の書物は市ヶ谷にあるセルバンテス書店に置いてあるくらいで、渋谷のジュンク堂でさえ売っていない。最初に彼女の短編が入った英語/西語対訳のペンギンブックスが唯一あったスペイン語の書物であった。そういえば話がちょっと飛ぶが先日、ジュンク堂は渋谷店を閉店すると公表した。東急本店の閉店はだいぶ前から決まっていたが、ジュンク堂をどうするかは公表正式にされていなかった。だが、この間行ったときに英書の取り寄せができないか聞いたときの店員の態度でたぶん店仕舞の方向で話が進んでいることが分かった。要はアマゾンで買った方が良いですよ、みたいな話・・・。まともな書店が閉店することは残念だし、閉店する書店の店員が客に分かるほどモチベーションが低くなっているのも残念なことだ)
 話を元に戻そう。セコハン書店でも出会いはあるものなのだろう。なんだかガールズバーで永遠の恋人に出会ったような気分である。本当はちゃんとした本屋で出会うべきだったろうし、そのときはちゃんと定価を払っただろうに、ね。一見、得したようだけど、そんなのはワンタイムの話で、僕としてはジュンク堂が継続してスペイン語の本も扱うようになってくれた方がよほど嬉しいのだが。ともかくも、本は1000円ちょっとで売れ、別の本を700円で買い、おつりの300円でチェーンの喫茶店に入りコーヒーを頼んで、買ってきたばかりの本を読み始める。なんだか文化的なのかそうでないのかよく分からない。本の愛好家にとっては複雑な時代である。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する