城ヶ島の事を書いた際に僕は京浜急行の株主だと述べたが、実は東急電鉄の零細株主でもある。
幸いにして京浜急行のように含み損は抱えていないけれど東急の株価も特に元気があるというわけでない。コロナ禍のせいで鉄道株は下がったと言われるが、コロナが明けても株価が戻らないのは、恐らく鉄道株の価格形成に「保有不動産」の要素が色濃く反映されているからであろう。
ならば不動産価格が上昇中の現況に応じて株価も上がって良さそうなものだが、不動産価格の上昇は地価に由来するというよりも建設コストの上昇に起因する部分が大きいようだ。だからこそマンションの価格上昇が地価の上昇を遙かに上回っているのである。不動産価格の上昇は「土地を保有している」だけでは株価に反映されないどころか、そもそも不動産価格の上昇はいつまで続くのかという疑念に絶えず付き纏われているのが現状ではないか。
一見「バブル」に見える風景が需要ベースのものなのか、コストアップのものなのか、少なくとも「需要の存在」を僕は疑いを持って見ている。不動産の買い手のある程度は「国内に存在しないのではないか」という疑いを抱かせる光景を近くにできたばかりの高層マンションでしばしば見ているからである。自国内の不動産投資の崩壊により中国の投資マネーが過剰に日本国内に流れているという事態、即ち「不動産過剰投資」の輸出に回っているのではないのか?その状況は時間という要素を含めると全体的には好ましいものではない。虚構の需要は結果的に経済に傷しか残さないということを僕らの世代は身を以て知っている。
タイトルと全くかけ離れたところから話が始まってしまった。株や鉄道会社の話は別のところですることにしよう。
なぜ東急の話から始まったかと言えば、僕がこの映画を見たル・シネマというのは東急電鉄の関連事業で株主には招待券が配られるのである。つまり「城ヶ島と言い、映画館と言い」僕の娯楽はかなりの部分、株に依存しているのだ。
「せこい」
その通りです。しかし株保有の本来の趣旨と違うような持ち方をすると往々にして損をするという実証でもある。京浜急行さん、貴社の株は保有する株式の中で唯一損しております。なんとかしてください。
閑話休題。
実は映画は苦手だ。音楽はそれがどんなものであっても、解釈を強要しない。だからこそ二時間でも三時間でも聞いていられる。しかし映画はそうではない。必ずそこには「一義的な制作の意図」が存在する。それに適合できない時、観賞という楽しみは時に苦痛へと変化する。テレビで映画を見ているなら電源を切れば良いだけの話だが、映画館はそうはいかない。
席を立って出れば良いというが、映画館というのは座席にゆとりがないので上映中に立つのは憚れる。何度かそういう経験があって映画館というのが苦手になった。しかし、この映画は「ドライブ・マイ・カー」を撮った濱口竜介氏である。以前ここでも書いた通りこの映画は素直に最後まで見ることが出来た。ならばこの映画も同じかも知れないという期待を持って映画館にでかけたのである。宮益坂の麓にある映画館のことは以前から知っていたが入場するのは初めてである。多少ネタバレがあるので、この映画を見に行く予定の人は映画を見た後で読んでください。
冒頭、タイトルロールで頭上の樹木を延々と流し続ける景色に、僕はこの映画の視点に共有する感覚を持ち始める。
頭上の樹木という景色は僕に纏わり付いた記憶の一つなのだ。それは例えば下鴨神社であったり、明治神宮であったり奇妙なことに神社である事が多いのだけど。でもそういう共有感覚というのはとても快い。映画を見ながら共有感覚というものを持てることは滅多にない。
そしてスクリーンに映し出される風景。主人公の運転する車が向かう先は中央アルプス、車が戻る風景は南アルプスに見える。中央高速を通って飯田に何度も行ったからそんな風に見えたのかも知れない。原沢という街の名前に記憶はないが、原というパーキングエリアがあって、昔その近くの小さなホテルに泊ったことがある。
登場人物の相手の呼び方。「たくみ」「かずお」という呼び方にその関係性を規定させる。かずお、たくみ、はな・・・。
都会からやってきた「なんちゃってグランピング」の計画を説明するのは「まゆずみさん」と「たかはしさん」、人を呼ぶその呼び方の差。すごく簡単な話なのだけどそういう設定の拘りはなかなか良い。
筋書きは結構単純だ。
だから筋書きそのものより描き出されるディテールの方が観衆を惹き付ける。例えば薪割り・・・結構長い時間を使ってその情景を映しているのにはそれなりの理由があるのではないか、とか。女の子の「青いブルゾン」や死んでいる子鹿。その色合いや登場に少し気持ちが沈んでいくのを感じたり、とか。
グランピングの説明会。住民に反論されてあからさまに不愉快そうな「たかはしくん」と真面目に応対する「まゆずみさん」。でも、この二人の差は住民との会話という「前線に出ている」と言うことで解消していく。一方でその背後にいる組織や人間とは齟齬が拡張していき、あっち側とこっち側に裂けていく。
そんな二人は会社の命令でもう一度戻ってきてたくみの説得にかかる。脇割りで何かを悟ったような「たかはしさん」が「かずお」のうどん屋で
「体があたたまりました」
と失言し、かずおに
「それって味じゃないよね」
と返される、そんな遣り取りに観客から笑いがおきる。
だが笑いはあくまで局所的である。
「グランピングの土地は鹿の通り道」・・・「鹿は臆病で撃たれでもしない限り人を襲わない」、そうして言葉というさまざまな碁石が盤の上に置かれ、そして(案の定)「はな」が失踪する。
そしてそこからの不可解な展開。いったい何がおきたのか、鹿と対峙した女の子の姿は何を意味するのか?生?死?たくみはなぜ「たははしさん」を組み伏せたのか。撃たれた鹿は何かの暗喩(メタファー)なのか?
たくみの喘ぎと共にエンディングロールが流れていき、灯りがついた途端に観客は立ち上がる。全てが終わったかのように、何かに納得したように。いや、本当に僕らは分ったのだろうか?そのエンディングは解釈を解放する方向に向かい、結ばれていた数珠は解けて石はスクリーンの上にばらばらに散らばっている。つまりこの映画は「一義的な制作の意図を強制しない」のだった。いやむしろ、「一義的な解釈を強制しないという意図」に基づいているのかも知れない。少なくとも僕は暫く混乱していた。
一緒に見ていた観客たちの誰かを捕まえ、
「いったい結末はなんなのですか?」
「どうしてこの映画のタイトルは『悪は存在しない』なのですか?」
と聞いてみたい気もした。もちろん、そんなことをしたらつまみ出され、今後御出入り禁止になるかも知れない。というわけで僕も上映中に落とした百円玉を拾って外に出る。エレベーターホールには静かに観客たちがエレベーターを待っているが僕は階段を駆け下りた。
さて、「一義的な制作の意図」が不明確な「映画」ならば僕はcomfortableだったのだろうか?今のところ実はそれに対する答えもでていないのだ。ただ、映画のタイトルについては少し考えが纏まった。きっとタイトルはある部分を捨象したものなのだと。
Evil does not exist; however, sorrow does exist. (悪は存在しないが、悲しみは存在する)