「ピアニストに恋をして」というエッセイを連載し続けている。好きなピアニストについて演奏と共に紹介しており、いずれはグレン・グールドについても書く予定なのだけど、以前、このピアニストについて書こうと思った途端に筆が止まったとこの「近況報告」で嘆いたことがある。
調べてみると3年半程前の出来事で、その時どういう心境からか、ベートーベンの全ソナタの楽譜を買ったことを思い出した。おそらくは楽譜を見ながらグールドの演奏をチェックしようとでも思ったのであろう。
そう、確かあれは銀座の山野楽器で買ったのだ。
その山野楽器は先日「遂に」CDの販売を中止したとニュースになっているが、あの頃、既にその兆候はあった。コロナの影響でフロアを他の会社に貸した影響で売り場面積が極端に少なくなったこともあり、クラッシック音楽のCDはそれまでの半分以下に減った。
それまではよそでお目に掛ることのない外盤がたくさん置いてあり、それを目的に買いに銀座まで足を伸したことも何度もあった。ウィリアム カペルのブラームスに出会ったのもこの店だったし、ラサールSQのラベル・ドビュッシーの弦楽四重奏曲のCDを見つけたのも(販売元はタワーレコードだったけど)山野楽器であった。そういう楽しい発見をすると次は必ずその売り場に行くことになるのだけど、売り場面積が減った途端に全く行かなくなった。最後に買ったCDは楽譜と共に買ったグールドとバースタインの共演で、ブラームスの協奏曲だったことまで思い出した。グールド・・・。この店でのCDの購入もカペルで始まりグールドで終わったのだ。
世の中には縮小均衡などない、という事実はJR北海道と山野楽器のCD売り場で学ぶことが出来る。いや、今となっては日本の至る所で・・・。
ちなみに僕はどうでも良い曲は配信でもちっとも構わないがクラッシック音楽やシャンソン・ファド・ジャズは配信では聴かない。音楽を配信する側にはフォーマットを使い分けて欲しい。それは電子書籍と書物の関係にも言える。所有したいものと聞き流したいもの、読み捨てたいものの区別は必ずあり、それはアナログとかデジタルの問題ではないと僕は思っている。
その時の近況報告には記さなかったが、「グールドについて書く前にもう一度ピアノのレッスンを受けてみようか」と思っていた。もう一度、とはいうが以前受けたのは小学校の4年までで自宅にはピアノもなく(かわりにオルガンで練習をしていた)、その上小学校を転校することになった時に「お金がないから強制終了」となったのである。その頃の想い出の一部を「追憶」という短い小説に書いた。その頃の僕はピアノが家にある女の子に嫉妬していたのだ。ふふふ・・・。
しかし、なぜグールドを書く前にピアノをもう一度習おうかと思ったのか、今となると余り明確な因果が記憶にない。その間に1度、死ぬような目にあったのでどうやら忘れてしまったようである。
もしかしたらピアノも弾けずにグールドの事を書くのはまずいとでもおもったのだろうか?だとしたら、なんとも迂遠な話であるが、「ピアノを習おう」と思った決心だけは生きていて、ついに最近、習い始めた。初心者の扱いなので、もう「鍵盤の上にどう手を置くか」、からの出発である。残念ながら未だにピアノは所有できていないが家にはずいぶん昔に買ったローランドの電子ピアノがあって、なんとか動いてくれる。最高音のE-flatだけ変な音がでるのだけど、滅多に使わないキーなので我慢できる。
久しぶりにこの歳での習い事ではあるが、楽器の演奏は「苦手」であることが自明なので素直に先生の言う事を聞くことが出来る。これが文学とか政治・経済学だとそういうわけにもいかないのだが・・・。
レッスンとは別に「楽典」というほどではないが音楽記号などに関する書物を購入して一通りの勉強もした。中学の授業では全然楽しくなかったが、学んでみるとそこそこ論理的で面白い部分もある。例えば長調の基音の遷移はシャープ系でもフラット系でも同方向だが、短調は逆行するとか・・・。
と言うことで(?)、いつかはグールドについて書くことが出来るだろう。ちょっと時間がかかるかもしれないけれど。