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”Remains of the Day ”(Kazuo Ishiguro)を読んで

 書棚を漁っていたら、faber and faber社が刊行した1989年(五版)の"Remains of ty Day"が出てきた。買った記憶はあるが、読んだ記憶はない。価格を見ると11.99ポンドとある。買った当時はポンドが確か400円くらいしたので、換算すれば5000円もする本である。もったいない話だ。時間もあるし、読んでみようと思い立った。
 ただ・・・一般的にアメリカの小説に比べてイギリスの小説は読みにくい。書き手が選ぶ単語が難しいというのもあるが、文節が長く、途中で意味が不明確にあることが多いのである。(話し言葉よりはましだが。イギリス人の話は本当に途中からわからなくなることが多い)この本の前に読んだ、Greham Greenの小説もその意味では分かりやすいとは言えなかった(Human FactorとLoser Takes All:性格の異なる二つの小説である)。分かりやすくエンターテインメントの強い小説で言えばフレデリックフォーサイスに比べて、ジェフリーアーチャーは格段に読みやすい。そんなこともあって多少、覚悟して読み始めたがこれは実に印象深い小説であった。
 一方で、純粋に日本人の血を引く作家が現したこの小説がブッカー賞を取り、そしてノーベル賞まで授与されたにも関わらず、日本でさほど盛り上がらなかったわけが少し理解できた。この小説は日本人の作家の手になると思えないほど、とても“British”であり、最近とみに刺激を求める日本人にはともすると退屈な小説に思えるのであろう。その上、日本語に訳すにはニュアンスが難しい小説である。

 この小説は執事が、あるとき雇い主からたまには閉じこもってばかりいずに休暇を取り給え、車も貸してあげるよ、と言われる設定で始まる。最初のうちそのオファーとそんなオファーをする主人そのものに躊躇っていた彼はやがて書棚にある旅行ガイドを思い出し、それを引っ張り出して風景に思いを馳せる。そして思いがけず彼のもとを離れることになったかつての部下のMs.Kentonから受け取った手紙を紐解く。
 そこには彼女がかつて働いていた職場を懐かしむような文章がつづられている。そして彼女の今の生活がどうやら決して幸せなものでないことを察し、もし彼女が職場に戻ってくれば現在職場で起きている些細なミスに気をつかわなくても済むのではないかと考え始める。躊躇った末に主人が旅行に出るのを機に、主人の厚意に甘えることに決め、彼が車で走り出す道は典型的なイギリスの田舎の道である。それはおそらく、一車線の特徴のないひたすらに平らな道である。
 たまたま私は五年ほどロンドンに住み、車で同じような道を運転したことがある。だからこそ道に迷ったり、丘の上で景色を眺めたりする状況に私は共感できるのかもしれない。イギリスはご存じの通り岡はあるのだが高い山がなく、道を運転していればどこも景色は変わらず、山がないので余計に同じように思える。ときたま行くゴルフ場が見知らぬ場所にある時、私もあまりに平板で特徴がなく、日本ほど標識もない(あったとしてもごく小さい)道に散々悩まされたことがあるのだ。そして、この小説も注意して読まなければイギリスの道を運転しているような平板でこれと言って特徴のない感覚に襲われるだろう。

 その上、主人公はBatler(執事)である。日本に執事がいない、とは言えない。特に天皇家の周辺には(少なくとも戦前は)同じような人がいたと高松宮日記を読むとそう思える節があり、今なお存在するのかもしれない。そこらへんは庶民である私にはわからないが、戦勝国であるイギリスでさえ、稀な存在である以上、イギリス王室に比較しても数は多くはないだろう。そのイギリスにはいまだ王室以外にも過去から存在する地主階級というものがあり(日本と違ってGHQによる農地解放はなかったので)、彼らが住んでいるお屋敷(Manor House)を執り仕切る人たちがいまだわずかながら存在する。彼らは人目につかず、ひっそりと生活しており、よほどのことがないと前面にはでてこない準絶滅危惧種なのだ。さらに言えば、雇用主が目立つほど彼らは存在を隠す必要がある。イギリスは(この点は非常に日本に似ているのだが)特権階級には厳しい目が向けられ、庶民的にふるまうことが厳しく要求される国である。そうした階級からでてきたウィリアム皇太子夫人の涙ぐましいほどの努力をみればそれは理解できるだろうし、それを無視したヘンリー皇太子とその夫人に対するバッシングをみればその理由もわかる。
 執事に似た職業という意味では極めて格の高いホテルのプロフェッショナルなConciergeが考えられる。ある意味、彼らは共感できる部分があるかもしれない。ただコンシエルジュがホテルという経営主体をベースに客と接するのに対し、執事は雇い主という一個人をベースに客と接する。そしてその雇い主こそが、この主人公のように自分のdignityのアイデンティティの基盤である、という点で両者はやはり本質的に異なる。
 そしてまさにこの主人公が持つ、職業への厳然たるプライドとその問いが今の日本の人々の心に刺さらない理由であろう。主人公は愚直に「執事とはなんたるものであるか」を自らに問い続ける。そしてdignityこそがそれだ、と思いつつさらにdignityとは執事にとってどのようなものかを考えていく。昔の日本には官僚にし、一部の政治家・資本家にしろ、またその雇用者にしろそうした人間が存在していたことは確かだ。だが、今の日本のどこかにそうした人がいるかと考えれば、これはすでにニホンオオカミやニホンカワウソのように絶滅したか、その寸前だとしか思えない。
 一方で彼は老いを感じ、そのために自分の中にdignityを見失いつつある。自らの仕事の意味を若いころから求め続け、そして時を経てその感覚を自らの中にようやく見出した彼は、その「時」に今度は見出したものを失っていく喪失感を覚え始めるのだ。

 Remains of the Dayを「日の名残り」と訳した人は、そこに込めた思いがどれほど読み手に通じるのか、不安に思ったであろう。この小説ではそれに似た表現が最後の方に出現する。
 Weymouthのはしけの夕暮れで、体格の良い、60代の後半の老人から声を掛けられなんとなく話こんだ主人公が”I should adopt a more positive outlook and try to make the best of what remains of my day”(私はもうすこしポジティブに見えるようにしなければならないし、残りの人生を実りのあるものにするように努力しなければいけない)と考える。このremainは動詞であり、「自分に残された人生」のことであろうが、タイトルは「一日の残された時間、日暮れまでの時」を表す。だがそこには、大英帝国の中で零落した「本当の貴族(彼の前の主人)」やそれを支える執事という職業の凋落も重なっていく。(彼の現在の主人はアメリカ人、とても善良であるが元の主人のように「世界を回す枢軸にいる尊敬すべき存在であり、それに仕えることで誇りを持てる存在」ではない)その中でなお、職業の本質を求めていく主人公の姿が果たして日本の中に現実的に共感できる人がどれほどいるのか?

 「日の名残り」には様々な情景が重なっている。元執事である老人と話し合う夕景の中で、彼の人生と、社会や職業の全てが暮れなずんでいく。人生というものの意味とそれにまつわるどこか儚げで物悲しい情景をわれわれは正視することができるのだろうか?その意味ではこの小説は読み手にとって厳しい小説である。

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