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選挙にいこう

 選挙に行こう
と、今みんなが言っている。
 「選挙に行きますか」というアンケートにはかなりの人が「行く」と答える。
 それなのに現実の投票率がそれを上回ったことなど聞いたことがない。そもそも選挙に「行く」のが「目的」なのがおかしい。選挙とは「人」や「党」を通して理念と行動を選ぶものである。建前を言うな、と言われそうだが、今のこの世の中、建前を押し通さないといけないことがたくさんあるのだ。

 時代小説を書けば、それが古代のものであろうと近代のものであろうと、当時の政治的な背景をどうしても書き込まずにはいられない。個人的には大学時代は政治経済を専門とする学部にいたこともあり、政治に対する興味もある。
そんなわけで選挙については人並よりずいぶんと出席率は良いと自負している。海外に行っていた13年間(一度だけ参議院選挙があってその時は海外からも投票ができた)を除いて、選挙に行かなかったのは府中市議選の1回だけである。

 選挙というのはもちろん民主主義の基本であり、選挙は民主主義を貫くための制度である。しかし今の様子ではこの制度をそのままにして民主主義が保たれるのかさえ覚束ない感じがする。制度にも大きな欠陥があるのは事実だろう。だからといって選挙に行かない理由にはならない。選挙権を行使せず放置すればさらに悪化する可能性がある。政治家、とりわけ現代の政治家は「自分たちが当選するという目的」ならば、何でもやりかねない。斜めに見れば選挙最終日に連呼をする今の選挙はいい年をしたおっさん・おばさんの必死の就職活動にしかみえないのも事実で、白けた感じになるのもわからないではない。
 しかし・・・政治に対する無関心とか、政治家に対する不信というのが低投票率の一般的な解説で良く登場するが、所詮、すべての活動はaudienceのレベルに応じて活動のレベルが決まるもので、最近のクラッシック音楽のレベルが低下しているのも、政治が停滞しているのもaudienceのレベルが下がっているからに他ならない。
 audienceのレベルが下がればactorやplayerのレベルも下がり、audienceは益々興味を失うという悪循環が発生する。それが音楽ならば仕方ないと思うが、政治という世界だと悠長に構えているわけにはいかない。悪循環を断ち切るのは、この場合やはり選ぶ側なのだろう。(Actor側は下手をすれば悪循環そのものが好ましいと考えている節もある。むかし、投票日に雨が降った方がいいと唱えた国会議員もいるくらいだから。)

 一方でせめて候補者選び、という点でもう少し各政党はきちんとした人間を選んでほしい、としみじみ思う。選ばれたから選良というわけではない。選ばれてきちんと活動し、みんなの尊敬を得てこそ選良なのである。選挙の時に不正を働くなどと言うのは言語道断であり、選ばれた後でくだらないことで週刊誌にすっぱ抜かれるような人間はそもそも候補者のqualificationに問題がある、といって差し支えないだろう。何も生涯きれいな人間でいろと言うわけではないが、せめて政治家として活動する期間くらいはきちんとしていられないものか?
 選挙の一大問題は「選ばれた」から何をしてもいいと考えるとんでもない議員に、変な免罪符を与えてしまったのではないかという懸念である。「王」は家柄という一点でのみ正統性を持っている。その正統性は民衆の反逆で地に落ちた。だが、今の政治家は民衆に選ばれたという正統性を主張しうるのである。それは棄権や死票の累々たる屍の上に成立してもなお、「選ばれた」と主張する。そして犯罪を犯しても不逮捕特権が存在する。
 だが、そもそも議員の不逮捕特権などを始めとした特権は、時の権力が敵対議員を逮捕するなど政治活動の妨害をすることを禁止する趣旨で始められたものであり、犯罪者を野放しするためのものではないのである。こうした勘違い議員を「当選」したという事実で無差別に免責するような制度が現況下で正しいのか、少し考えねばならない時期が来ている。「政治の世界」という妖し気な言葉を持ち出してブラックボックス化を図る輩とそれを疑わない人間が世の中には多すぎるのだ。

 そうしたレベルの低い状況の中でも候補者の中からわれわれはベストを尽くして選ぶ必要がある。
 一番、「個人」の資質で選ぶべきなのは地方議会の議員選挙で、これは選挙公報で住んでいる地域の問題、すなわち経済や行政や教育、環境に関しどのような問題意識を持っておりどんな解決方法を考えているのか、吟味する必要がある。政党はほぼ無関係である(但しあまりにも変な政党はそもそも対象外である)選挙公報を読むだけでもどのような問題意識を持っているのかは分かる。それを読もう。まちをうろついて声を張り上げているのが選挙活動だと思われてはかなわない。

 しかし今回は総選挙であるから、むしろ個人というより政党の主張で選ぶのが普通であろう。政治の根幹は個人の努力では限界がある。政党で選ぶしかないのだ。
 とはいっても、選挙自体は今の比例並列という変な仕組みのおかげでなんだかわけが分からない。とりわけ比例復活で明らかに駄目な候補者をリストの上位に持ってくるという愚行はやめていただきたい。比例なら比例だけでやればよい(そうすれば少なくとも多少なりとも愚行は避けられるであろう)。そうでなければ中選挙区に戻すべきだと個人的には思っている。小選挙区比例並立は国民の声をもっとも掬おうとしない制度だろう。そもそも小選挙区を導入する際に主張された「二大政党による成熟した政治を確立する」という妖し気な制度改革の趣旨はどこに消えたのか?
 いずれにしろ、衆議院と参議院の国政選挙は基本的に「党」を選ぶ選挙であり、そこにまともな人間を候補者として出すのは「党」の責任である。残念ながら、そんなこともできない政党が多いのにはがっかりである。
 国政選挙においては地方選挙と違い、もっと根幹でロングスパンの問題が語られるべきである。今でいえば、コロナの給付金云々ではなく医療制度そのものの問題、カネを使って質を下げている教育の問題、外交安全保障(どの政党の主張も全く的外れで一番の懸念問題だが)、SDGSを始めとした人権問題、環境問題。深く掘り下げられておらずに表面的な議論に終始しているこれらの問題が真摯に語られるべきである。残念ながら議論は低調ではあるが少なくとも各政党のスタンスから我々が推し量るしかない。

 総選挙と共に行われる国民審査に至っては、そもそも今まで審査で落ちた人はいないのだから無駄ではないかというとんでもない議論もある。しかし国民審査というのはそもそも落とすのが目的ではない。
 素晴らしい裁判官が揃っていれば誰にも×をつける必要はないが、最高裁判所の判事だから全て素晴らしい判決をするというわけではなかろう。
 私は選挙公報の判例を見て評価する。早見表みたいなものもあるが、その早見表が中立なのか良くわからず、それを調べるより公報を見た方がいいのだ。とはいえ公報の判例は確かに分かりにくい。比較的わかりやすい判例もあるが、今回で言えば諫早湾干拓の判決や証拠の違法収集の案件などはそれを読んだだけでは分からないというのが実態である。ちょっと手間をかけて信頼できるソースにアクセスすればそれが一番である。それくらい手間を掛けなければ民主主義を語れない、それが現実だ。
 それらの判例や、新任の判事に関しては最高裁の判事としての心構えをベースに適任かそうでないかをチェックし、緊張感をもって判事の仕事をしてもらわねばならない。国民審査とは点数である。信認の点数が低い場合は何をもってその点数が低いのか、を考える機会になる。
 一方で、最高裁判決が気に入らないのでその判例に関わった裁判官(全員一致であるにも関わらず、というか全員一致なのでというべきか)全員にxをつけようというネットの意見もあったりする。まあ大勢に影響はないだろうが、「国民であることの審査」があっても良いのかなぁ、という気もしてくるのはどういうことだろう?audienceのレベルの低さはこんなところにも表れているのかもしれない。

 まあ、とにかく選挙にはいこう。それが目的でなくとも。それによって何かが変わるかもしれない。最初に言った事と違っているかもしれないけれど・・・。

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