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パンとサーカス

「かつて王権を、束桿を、軍団を、一切を賦与していた民衆はいまや、二つのことだけに執着している。即ちパンと戦車競走だ」(ユウェナリス 風刺詩集より抜粋)

 Panem et circenses、は「パンと(戦車競走などを行った)競技場」という意味である。キルケンセスがサーカスとなった経緯は知らないが(スペルが似ているので多分そのためであろうが)、サーカスでも十分意味は通じる。ローマの衰退期、市民権を持った人々は政治に関心を失い、食事と娯楽にうつつをぬかしたのを皮肉った風刺である。
 今、「パンとサーカス」を「給付金とオリンピック」と言い換えて見たら、同じような状況が日本に現出しているのかもしれない。ローマの為政者は民衆から政治への参加を代償として、食料を配給し娯楽施設を開放することで政治的無関心を作り上げた。その過程で市民の中には働くことを放棄したものが出始め、貧富の差は広がり、やがてローマは豊かさの中で滅亡への道を歩み始めた。
 今の政治家が何を考えてオリンピックに固執するのかは定かではないが、「どうせオリンピックに反対していても、日本がメダルを取れば、反対の声など掻き消される」という意見が散見されるのは事実だ。それは「パンとサーカス」がローマの愚民を嘲ったものであると同様、われわれが愚かである、という主張のように思えてならない。民主主義の根幹をなすはずの選挙は、その投票率を見る限り国民はとうに政治に関心を失っているように見える。わが国民はオリンピックと政府からの給付金に踊らされてしまうのだろうか?

 スポーツは癒しである、というのを今年は実感することができた。だが、それはオリンピックではなくMBLが舞台だった。大谷翔平がアメリカに渡り4年目、遂に真の意味で投手と打者の二刀流で活躍しているのを見るのは楽しみであった。ベーブルース以来、だれも成功したことのない二刀流を日本人のみならず、アメリカでも称賛するのは、「新たな挑戦をする若者」に対する賛辞であろう。
 一方で選手に責任はないものの、危うい環境で本来の実力も出せるのか疑問な状況で開催されるオリンピックで自国の選手がメダルを獲得したとしても、少なくともその一部は異常な環境に左右された結果かも知らない。選手はたゆまぬ努力をし、その結果を試合で出すだけであろうが、その結果に素直に反応できる器にオリンピックはなっているのであろうか?
 個人的には年々、オリンピックに対して懐疑的になりつつあったものの、これまでは日本選手の活躍をテレビで応援してきた。だが今回はそう言う気になれない。
 オリンピックに懐疑的になってきた理由は、果たしてオリンピックは本来の趣旨である、「世界の平和のための祭典」という旗印に貢献しているのだろうか?という疑問が発端である。ドーピング問題にみられる国威の発揚的な発想は依然と根強く、競技の多様化によって、指導者が「指導できる資質」に達していないために選手が犯罪行為に手を染めるケースも散見された。成熟した競技においてさえ指導者や関係者がパワハラ的な行動を行い、世間から指弾を受けつつも居直るという事態も頻出している。特に格闘技系の競技においては目に余る。
 オリンピックを免罪符にして「なんでもあり」のような人種がオリンピックには付き過ぎた、というのが正直な感想である。開催直後から競技場やロゴで躓き、ここにきての更なるドタバタも結局は、そうした「ついた垢」のなせる業であろう。

 政府も主催者である東京都も、あるいはマスコミも、これまで投じてきた金額を考えれば、なかなか簡単にやめますとは言えないのは理解できる。それを非難するつもりもない。
 畢竟「観客」次第なのだ。歩むべき道筋を考えることなく、「パンとサーカス」に熱狂した古代ローマ人と同じく、私たちは「なんでもあり」のオリンピックに熱狂し、この環境下での試合の結果に「国威」など感じることができるのだろうか?

 だから、私はオリンピックを見ることを潔く断念する。ただ見ないだけではなく、テレビやインターネットの情報を避け、この二週間、精神的な静養をしよう。バッハのマタイ受難曲を久しぶりに聞くのも良いかもしれないし、未読の「チボー家の人々」を読む時間に当てるのも良いかもしれない。
 だからといって、オリンピックを楽しみにしている人を非難する意図も、改心を勧めるわけでもない。現にその話をしても妻はオリンピックを見ると言っている。それを止めるつもりはない。ただ、オリンピックの中止を求めた人や、マスコミの二枚舌を非難した人々は、結局「オリンピックを観てしまう」ということになったら立ち止まって考えてほしい。もしかしたら、自分たちこそが「パンとサーカス」に誑かされているのではないか、と。そしてそれがもしかしたらすべて衰退への道に続いているのではないかと。

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