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高松宮日記 2

むしろ、戦後の記載に日本が敗れたという事実に基づく悲哀を感じる文章がある。例えば1947年7月4日の記載に、自分の要望に関する記述があるがそこに「私の顔がこの支那人的描写にあてはまる存在であることを発見して悲哀と自嘲と(を)禁じ得ないのであった」(原文のまま)という記載があるが、こうした記載は中国で戦争をしていた頃には決して見られない文章であり、その当時の失意や自信の喪失が露わ である。
この書は例えば天皇制の在り方や皇位継承などの議論にも、参考として読まれるべきもので絶版になって文庫本としても刊行されていないのは残念であるが、結局は読む側にその需要がないのが大きな理由であろう。神田界隈の古本屋でもなかなかセットで見つけることができなかったが、思いついていった早稲田近辺の古本屋で漸く見つけることができた。(目黒にもあったが高くて手が出なかった)重い思いをして運んだが、価値のある書物だと思う。とはいってもセット買いをしたことで、以前古本屋でみつけて買ったバラの本を処分で売ろうとしたが値段がつけられないと拒否された。しょうもない本が売れるのにこうした書物が例えばらだとしても受け付けてもらえないのは文化的な貧困だと慨嘆したが、まあ、これが実情であろう。
色々な意味でよくまあ、日記をそのまま刊行された(これは高松宮妃の御決断とのことだが)と思う箇所も若い日々、戦中戦後の記載の中で存在するが、貴重な資料として読み継がれるべきものだと思う。

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