トランプ前大統領が狙撃された。狙われた彼の命は助かり、狙撃手は射殺された。死人に口なし、犯人がどういう意図と目的で行動したのかはもはや絶対に分らない。犯人がライフルを持っていたため仕方がないことであるが、犯人が殺されることで真相が分らなくなる、という事がアメリカでは繰り返し起きている。
標的であった次期大統領候補者は負傷したが、拳を振り上げその姿が拡散されることによって、選挙戦を有利に戦うことになった。
共和党の大統領として暗殺されたのはリンカーンが有名であり、民主党ではJ.F.ケネディ、大統領ではないが候補としては弟のR.ケネディが有名である。(他にもカーフィールドやマッキンレーがいるが)彼らは党派を問わず、理想主義者であった。死んでしまったから選挙戦を有利に戦うことなどはできなかったけれど。
・・・よその国のことである。
その動向は「よその国」の民意によるものであると知りつつ、つい口を出したくなるのはアメリカという国家が「民主主義」の旗印を掲げる責任国家だと民主主義の国家群が考えているからで、トランプ大統領の過去の行動を鑑みるに、その旗印が果たして正しい物であり続けるか、懸念を持つからである。
彼の掲げるアメリカ・ファーストという発想は一見、民主主義と必ずしも齟齬しないようであるが、簡便に言えば中華思想とさして変わらない発想であり、中華思想が民主主義と相容れないように、民主主義とはほど遠い発想である。だから彼は民衆をけしかけて議会に乱入させるような行為を平然と行って恥じることはない。そんな人物でも大統領にしてしまうのが今の民主主義と言えば、まあ、そうとも言えるのだけど。
そのニュースを伝えるにあたって膳場貴子というアナウンサーが「プラスのアピールになりかねない」と言ったら随分と批判を浴びることになった。
確かにこれはトランプ前大統領に批判的なスタンスから出る言葉であり、懸念を持つ立場からつい出た「本音」であろう。確かに「中立的な報道の観点」から言えばそうなのだけど、僕の観点は
「もし狙われたのが民主党の候補だったらトランプやその支持者は何といったであろうか」
という事である。
おそらくはもっと醜い陰謀説、個人攻撃、フェイクなどという言葉が飛び交ったに違いない。僕が問いたいのは「なぜそれは許されるのか」なのだ。自分を攻撃する物は決して許さないが攻撃するのは構わない。そうしたチルディシュな主張が政治を覆っている。狙撃そのものを正当化することは出来ないが、「狙撃はいかなる状況でも許されない」という普遍化で物事を覆うという考えだけで全てを纏めようとする態度にも違和感がある。
「トランプ的なもの」に対峙する存在は「なるべく中立的に、なるべく正しく」あろうとする。まるでそうでないと「批判すること」が許されていないかのように。そしてもう一方はどんな手でも使う。「何かがあれば」フェイクであり、陰謀であり・・・。
この戦いは「正しい土俵」なのだろうか?
これは「正しくあろうとするものが圧倒的に不利」な戦いではないのか?と思わざるを得ないのである。僕はトランプそのものより、そうした人間を取り巻く存在の方に懸念を抱くのだ。またそうした人間たちが「民主主義を盾」にして「民主主義そのものを破壊する」方向に動いているという事実に。そうしたグループが日本にもたくさんいる、という事はうだれもが薄々知っている事であり、だいたいの薄っぺらい批判「パターン」の特色も明らかである。
それでもなお、「正しさ」に固執することは必要なことであろう。しかし僕らはそうしたインチキ・プロレスの「観客」についても「じっくり観察するべき」時期に来ているのだ。
民主主義の敵は「民主主義の悪用」である。プーチンでさえ、「民主主義」を唱えている始末のこの世界、「民主主義」という「言葉」が「非民主主義」の盾になるのは許されないことだ。
現職大統領は今回、選挙戦からステップダウンする事に決めた。ベトナム戦争を泥沼化させたリンドン ジョンソン以来の事態である。しかし彼は残念ながらトランプ的なものと対峙するには弱すぎたし、撤退も遅すぎた。後継者を育てる作業も全くしていなかったのに副大統領を後継指名したのも今後、どうなっていくのか分らない要素である。本来民主党は「トランプ的な物からアメリカを遁れさせる」ことを主題にするべきであったのに、それをできなかった。
そしてトランプは早速、個人攻撃を開始している。今や個人攻撃は両陣営の共通した愚行だが、それを公然と始めたのは明らかにトランプである。みっともない選挙は彼がいる限り続くのだろう。
様々な意味であと100日がどうなっていくのか興味深い。オリンピックなどよりも遙かに。アメリカ人が尊敬される国民にとどまれるのか、そうでないか。