もう一度、漁港のある道へ戻り自転車を押しながら歩いていると、山の方角に小路がぽつんと開けている。こんな小路の先に家があるのかと疑いつつ昇っていくと、別れ道に仏像が日に晒されたまま祀られていた。この仏像のことは井上成美について書かれた書で知っていたので、どうやらこれらしいぞと右に逸れて曲がった先に井上成美の邸跡があった。ただ、手書きの看板があって、「すでに閉館しました」という内容の看板が掲げられていた。個人所有のようなので仕方ない。まあ、海軍大将とはいえ、国が管理するべきものでもないし、井上の性格であれば海自が申し出ても墓の中で固辞するに違いあるまい。なんとかするなら水交社か市しかないだろうが、戦後もう75年もたっていることを考えれば水交社にも人も資金もそうはないであろう。
だが、やや廃墟めいたその邸宅の近くから見る海は井上が生前眺めていた海と些かも変わらない。陽の光が白くきらきらと、まるで空母の船首から進んでいく先を見るような平らかな海の景色がある。この海を井上は毎日眺めていたのだろう。と暫く佇んだ。
とはいえのんびりとしているわけにもいかなかった。自転車は五時までに返してくれと(六時だったかしらん)言われていた。道に迷ったせいで時間が二十分くらいしか残っていない。慌てて自転車に乗り帰り道を走り始めた。行きの最中迷っていた時に「ソレイユの丘」という比較的新しい施設を見つけ、そこの近くを抜けて行けば三崎口への近道になるらしいと分かっていたので、その道を通り、ほぼ時間通りに三崎口へ戻ることができた。
駅のレンタサイクルコーナーに着くとさっき「偉い大将」と口走ったおじさんが、
「ああ、よかった。電話したけど出ないんで心配しましたよ」
と言った。スマホを見ると確かに電話があった形跡がある。どうやら気付かなかったらしい。
「で、みつかりましたか、その大将のお宅」
「ええ、なんとか」
僕は答えた。
「いい場所でしたよ」
「そりゃよかったです」
にこにこと笑っておじさんは自転車を片付け始めた。「偉い大将」のおじさんはどこまでもいい人であった。