紫文要領は本居宣長が源氏物語について記した書物であり、源氏物語に興味のある方の中にはご存じの方もあるだろう。本居宣長はご存じの通り江戸時代の国学者で源氏物語と古事記をこよなく愛した人である。しかし源氏物語や紫式部に対する愛着は人並外れているというのがこの書を読むとよくわかる。
基本的な趣旨は「源氏物語」を読む際に、仏教・儒教のような価値観を以って判断してはならない、の一言に尽きる。
という事はその時代において、源氏物語を説話として扱う流れがあったのだろう。往々にして一定の価値観を広めるために説話を使うのは良くある話で、今昔物語などは仏教説話の塊のようなものだから、源氏物語をそれに類したものとして解釈しようという流れがあっても不思議ではないかもしれない。しかし本居宣長はそうした解釈を徹底的に批判している。
彼は「あわれ」という理非と別のベクトルがあって、源氏物語は理非ではなく、「あわれ」によって善し悪しが存在すると主張している。(現代に即して俗にいえば同じ不倫をしても叩かれる役者も居れば、そうでもない役者もいる、ということかもしれない。斉藤由貴さんに「あわれ」を感じるかと言われると、そうかも・・・と思ってしまったりしました)
本論に戻れば、宣長にとってそうした「あわれ」を体現するのは光源氏や柏木、紫の上、薄雲女院(藤壺)であり、葵上は中、下は弘徽殿女御や博士の娘ということになる。性格の悪い人や理屈めいた人は駄目みたいである。
ただ、この説に欠陥があるとしたらその基準は何か、という時に宣長は「紫式部基準」をひたすら主張するのである。紫式部が「あわれ」とすれば、それが「あわれ」という事で、これはなかなか汎用性がない。とにかく宣長は紫式部大好きなのである。
さて本居宣長が以って、「あわれ」を日本の特質としているか、というと宣長はそこまで偏狭ではなく、「あわれ」のもとは漢詩にあるとも言っているし、いわゆる「もろこしの書」とか「儒仏の教」は日本にもある、と言っているわけで、複眼的な思考を失っているわけではない。本居宣長が江戸時代という閉鎖的な時代に生まれず、明治維新以降に生まれていれば存外ハイカラな人間になったかもしれない。
最後に「僕が書いたからってこの意見を見捨てないでね」と「こんな意見を書いたからって僕を見捨てないでね」とおちゃめなコメントを付け加えている宣長はなかなか愛おしい。
興味のある方は是非読んでほしい。ちなみに私が源氏物語で一番好きなのは紅葉賀です。