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風土記について 3

豊後と肥前のレポート形式は似通っていて、最初に郡、驛、烽、城、寺の数を挙げ、次いで郡ごとに故事を記載する方法になっている。従って詳細な情報という意味では出雲に及ばない。国の地理の詳細を記さないのには何か意図があったのか、それとも面倒くさかっただけなのか、とにかく出雲の、距離を“歩”まで記載する精密さとはかなり異なっている。この二国は距離的にも近く、それぞれ豊前、肥後という合わせて一国である国を分割した経緯を持っている(そのことはレポートにも記載されている)ことから、豊前、肥後も含めて同じ形式でレポートができていたのではないかと思わせる。役人同士が、「帝からこんな詔がでたけど、どうする?」と話し合って、「じゃあ、こんな風に書いたらいいんじゃね?」みたいな会話の上に成立したのではないか、と想像は膨らむ。いやもしかしたら同じ人の手になるのかもしれない。その場合、おそらく「字」を書けるその時代の文化人が豊前・豊後・肥前・肥後を旅して役人や古老から話を聞いてそれを書にして提出したのだろう。となると筆者の名が出てこないのもむべなるかなと思える。
一方、播磨のレポートには数字がほとんど出てこない。数字が苦手な役人が書いたのかもしれない。比較的近接している出雲とは全く趣が異なるのは、豊後・肥前のような役人間の交流がこの件に関してはなかったことを示している。もっとも播磨は出雲よりだいぶ都である奈良に近く、わざわざ出雲と話し合う必要を感じなかったのであろう。数字が出てこない代わりに昔話は充実しており、なかなか面白い話もある。はにおかの里の地名由来など、天皇に提出するにはかなり尾籠な話まで盛り込まれている。播磨風土記の筆者はとくに地名由来に重点をおいたレポートをしているので避けえなかったのであろうけど。古事記などにもかなり尾籠な話は出て来るので、この時代尾籠な話は禁句ではないのだろうが、地方の役人としては勇気が要ったかも。
もっとも文学的に思えるのは常陸のものである。数字は出て来るが出雲と違って羅列的に記されていないので、鳥瞰的に数字を見るには適していない。しかし、和歌を載せ詩的な文章に満ちているのは、倭武(ヤマトタケル)の事績を大いに使っていることに起因している。(ちなみに常陸風土記では倭武天皇と記されている)
このように同じ詔に対しての回答はわずか五か国しか残っていないのにさまざまな形式に亘っているため、そもそも詔の指示は続日本紀に記されている通りのかなり曖昧なものだったのかもしれない。

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