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風土記について 4

さて、その中味をもう少し見てみると興味深いことがある。
この五つの国のいずれの地誌にもかなり頻繁に名前が出てくる人がいるのである。土地の言い伝え、土地の名前の由来を記すにあたっては神代の時代からその当時に至るまでの歴史に基づくものとなるので、神の系譜、天皇の系譜の名前が出て来ることは当然なのだが、その中でもっとも多く出てくるのは神武天皇でもなければ崇神、仁徳、応神などの名君の名が高い天皇でもなく、実は景行天皇の名前である。
常陸に関しては倭武の東征の地であるから、それに関連してその父親である景行天皇の名前が出てくるのは自然と思えるのだが、その常陸の国でさえ、景行天皇(常陸風土記では大足日子)自身が行幸していることになっている。(茨城浮島の項)
出雲の場合は、建部という地名が倭建(ヤマトタケル)の記憶を留めるために「纏向の檜代の宮に天の下知らししめし天皇」として登場し、播磨風土記では印南の別嬢をつまどいし時に大帯日子として「いでます」のである。豊後、肥前に至ってはもうやたらと登場しており完全に主役である。古事記ではヤマトタケルが熊襲を討ったことになるのだが、日本書紀では天皇自身が出陣したことになっており風土記もそれに準じた形である。(倭武も日本武として、肥前佐嘉の郡に登場はするのだが、ほとんどの事績は景行天皇自身の行幸と書かれている)
 出雲の地誌に出てくるメイン人物は大穴持(いわゆるオオクニヌシノミコト)須佐能乎(スサノオノミコト)を始めとした神代の人物、国曳きをした八束水臣津野などでありこれは出雲が最も古い歴史の地であることによるものと思える。
 播磨では応神、仁徳、神功皇后をはじめとして様々な天皇がバランスよく登場している。これを編纂した人は数字に弱いがバランス感覚に優れているようで偏りが少ない。播磨に縁をもつ袁祁命、意祁命(風土記では袁奚、於奚と記されている:顕宗天皇、仁賢天皇)も最後の方にちょっとしか登場しない(志深の里の項)のでせっかくの地元の縁がもったいないような気もする。
それにしても景行天皇がこれほど地誌に広く登場するのには何らかの意味があるのであろう。景行天皇の時代こそが政権が地方に手を伸ばして統一を図った時代だと指し示してるのやもしれない。それにしても淡海三船は巧みな名をつけたものである。景行天皇とはいかにも旅をしそうな名前ではないか。

もう少し風土記が残っていればそこにどのような話が残っているのかで、日本の発展の様相が読み取れるような気がするが、歴史書に比べ地理書は地勢や統治の変容もあり重んじられなかったのかもしれないし、あるいは地方に出向く国司などが参考にして返却しなかったのかもしれない。また、そもそも作られなかった国があるのかもしれない。だが、日本最初の地誌としてもう少し読者が広がって良いような気がする。

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