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小野篁について 1

「竹の下の皇」という小説で小野篁の事を書いたのですが、彼の事を知ったのは百人一首で参議篁の名で有名な「わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣り舟」という歌で、です。この歌が遣唐使として難波津から出る時ではなく、罪人として千酌から隠岐へ流される時に歌われたものだというのは小説にも書いた通りですが、その頃からなんとなく気になる人だなぁ、と思っていました。それから半世紀近くして、ふと手に取った江談抄で幾つかの彼に関する挿話を読み、そもそも篁という漢字の構成、源家以外に滅多に使われない一字諱であること、から、ふとインスピレーションを得て実は彼は嵯峨天皇の血を引いているのではないか、というアイディアが生まれたもので、もちろん歴史書のどこをみても小野篁が天皇家の血を引いているなどという記載はありません。
しかし、そうやって一つの視点から見てみるとこの人物は大変興味深い人でした。彼の事績は様々な書物にあるのですがやはり文徳天皇実録の卒伝から繙くのが良いでしょう。六国史の薨伝・卒伝というのはかなり面白いものでその人物が時代においてどのような人物評価を得ていたかよくわかります。篁の卒伝は地位に比してかなり長く詳細なもので彼が色々な意味で「人物」と捉えられていたことがわかります。NOと言った最初の日本人と紹介したのですが、実は奈良時代から平安時代にはNOと言った日本人は何人かいます。その最初は本当は和気清麻呂だとは思うのですが、小野篁、菅原道真などNOと言った人はちゃんといて、それが遣唐使の廃止(それ自体は小野、菅原にも関わるのですが)と共にNOと言える文化が内向きの文化に変質してしまったのかもしれません。(続)

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