明日、拙作『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』が発売になります。
今回は発売直前記念として、作品に込めた想いなどのいわゆる「意識高い」ことを語りたいと思います。作者は作品で語ってほしい派の人は遠慮なくブラウザバックして下さい。ただそうでない人、特に「作品に触れるかどうか迷っている」人には、長い話になりますが是非お付き合い頂ければと思います。この語りがその迷いを払拭する一助となることを、切に願います。
さて、僕が作品に込めた想いを語るのに絶対に避けては通れないものが一つあります。それは「タイトル」です。
だいたいの人はご存知でしょうし僕も作中で記していますが、「ホモ」は当事者にとって悪いイメージのある言葉です。重さはだいぶ違いますが、「ハゲ」とか「デブ」とか「ブス」とか、そんな感じ。はっきり言って、使わないで済むなら使わない方がいい。なのに、どうしてそんなデリケートな言葉を、よりにもよって作品の顔であるタイトルに据えたのか。それはもちろんついうっかりではなく、明確な意図があります。
つまり僕は、割と気軽に悪い意味で「ホモ」を使ってしまう人にこそ、この作品を読んでもらいたいのです。
作中、僕はある場面で主人公の純くんに「人々が僕たち(同性愛者)を侮蔑するのは差別したいからではない。習慣だ」とモノローグで語らせました。僕はこれ、自分で言うのもなんですけど、かなり的を射ていると思うんですね。もちろん中には差別したくてしている人もいるでしょうが、大半の人は何となくそういう風に振るまってしまうだけなんじゃないかと。この二者には大きな違いがあります。前者の人の行動を変えるのはかなり難しい――というか、基本無理です。ポリシーなので。ですが後者の人の行動は、その人がほんの少し気づくだけで、いくらでも変わる可能性があります。
僕が作品を通して最も伝えたかったことは、性的マイノリティはただ「少ない」だけでどこにでもいるということです。決して特定の地域で育った特定の人間にだけ発現する特殊な性質ではありません。例えば、あなたに100人の知り合いがいると考えてください。そして同性愛傾向の発現率を5%と考えてください(電通の2015年調査では7.6%だそうです)。この時、100人の中に1人も同性愛者がいない確率は0.6%であり、99.4%の確率で最低1人は同性愛者が含まれています。100人の友達ならいざ知らず100人の知り合いなんて、義務教育の期間内ですら容易に超えるでしょう。つまり、それなりに年を重ねてきて人生で同性愛者と一度も出会ったことのない人間なんて、おそらくこの世にほとんどいない。ほぼ間違いなくどこかで出会っているはずなのです。
それはあなたの親友かもしれないし、
あるいは、あなたの兄弟や姉妹かもしれないし、
もしかしたら、あなたの息子や娘かもしれない。
そういう可能性を考えれば世界は違って見えるし、違って見えれば行動も変わるでしょう。そう思って僕は、つい「習慣」でどこにでもいるマイノリティを馬鹿にしてしまう人がうっかり手にとってどっぷり考えてくれることを期待して、本作を『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』というタイトルで書きました。このご時勢にこのタイトルが論議を呼ばなかったといえば、それは嘘になります。ですが最終的には僕の意思、作品のメッセージ性を鑑みて、タイトルを変えずに出版できることとなりました。
とはいえ、もちろん性的マイノリティ当事者の方々を全く無視して書いたわけではありませんし、現に読了頂いた当事者の方々から強い共感や賞賛を頂いたことも何度もあります。「この物語を書いてくれてありがとうございます」という感謝の言葉を頂く機会も何度かあり、そういう時は僕も深く感謝すると共に、「この物語を書いて良かった」と救われた気分になります。
「差別」が無くなれば「差別用語」は無くなります。十年後、二十年後、『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』がとんでもタイトルの発禁本になっているか、昔の人間はこんなつまらないことで悩んでいたんだと馬鹿にされる社会学の資料になっているか、それは分かりません。分かりませんが、できれば後者であることを願いながら、この近況ノートを終わらせたいと思います。
それでは皆さん、明日発売の『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』を、何卒よろしくお願いいたします。
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(追記)
gdgd言ってましたが普通に自分もホモでしたというお話です。発売前に黙っていた理由も記載していますので、よろしければこちらもご覧ください。
https://kakuyomu.jp/users/Mark_UN/news/1177354054886019005