『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』の発売日(2/21)から今日(5/31)で100日が経過しました。
まずはご購入頂いた皆様へ感謝の言葉を述べさせて頂きたいと思います。本当にありがとうございます。SNSでは毎日のように何かしらの感想を見かけ、手書きのファンレターまで二通ほど貰い、思っていた以上の反響がありました。心より嬉しく思います。
さて今回は発売100日目記念として、僕から一つ、告白したいことがあります。
先に言っておきますが、クソ長いです。6500字以上あります。まあ、この件に関してはそれだけ語りたいことがあるということですのでご容赦下さい。ではまず骨子から語らせて頂きます。
僕は男性でありながら男性を愛する人間、即ち、同性愛者です。
ただし初恋は女性。しかも物心ついていない頃とかではなく、中1ぐらいまでガッツリ恋していました。よって同性愛者というより周囲に女っ気が無かっただけの両性愛者なのかもしれませんが、とりあえず現時点の自己認識は同性愛者です。ちなみに普段の生活ではクローゼット、つまり同性愛者であることを明かしていません。ただし妻子が居るようなこともありませんので、そこはご安心下さい。
さて真実を明かしたところで、ここから僕が「同性愛者であることを隠した理由」と「同性愛者であることを明かすことにした理由」を三つずつ語りたいと思います。後ろ向き→前向きの方が読後感良いと思うので、まずは隠した理由の方からいきます。
隠した理由の一つ目は、今日まで黙っていた理由に直結します。ある程度落ち着くまで語りたくなかったんですね。なぜなら「作者や作品にバイアスをかけてもらいたくないから」。
僕は同性愛者ですが、男女の恋愛小説を好んで読みます。そして読むだけならまだしも、書きます。最近(でもないか)ボーイミーツガール小説である『御徒町カグヤナイツ』の公式連載を終えたばかりですし、『小笠原先輩は余命半年』という女性視点の恋愛短編小説をアップしたりもしています。そういったものを書く上で同性愛者としての感性が含まれていないとは言いませんが、同性愛者であることは僕の作家としてのスタンスを何ら規定するものではありません。
しかし、世間はそうは行きません。カノホモ作中に書いた通りフレディ・マーキュリーでさえ好き勝手に言われるのです。僕なんか間違いなくひとたまりもない。例えば『小笠原先輩は余命半年』について「同性愛者だから自分の体験を元に女性視点の恋愛小説が書けるんだな」と理解されたりするかもしれません。でもこれは全くの見当違い。僕はあの作品のヒーローである小笠原先輩をそういった意味で魅力的とは感じておらず、視点人物である主人公の女の子と僕がシンクロするところはどこにもありません。
また僕にかかるバイアス以外に、作品にかかるバイアスもあります。僕はカノホモを「大衆向けエンタメ青春小説」として仕上げました。そして実際にそういう感想を多く頂いています。しかし僕が自身の性指向を明かしてしまうと、中身ガン無視で「ゲイ向けゲイ小説」になってしまう可能性があった。それはどうしても避けたかったのです。というか避けないとあの作品を書いた意味がない。
以上のように「浅原ナオト」及び『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』の両方にバイアスをかけないため、僕は自分の性指向を明かしませんでした。僕はこれからも多種多様な作品を書いていきたいと考えています。同性愛が絡むものも、そうでないものも。今後も僕を応援して下さる方がおりましたら、この点については強くご理解いただければ嬉しいです。
さて隠した理由の二つ目ですが、それは「世の中の同性愛者はたいていクローゼットなものだから」です。
メディアで同性の恋人がいて、同じ性指向の友人がいて、二丁目に飲みに行って……みたいな人が「普通のゲイ」的な紹介されることあるじゃないですか。あんなのは嘘です。いや、嘘は言いすぎました。でも「普通」の定義が「最も多い」ならば、それは間違っていると思います。そもそも二丁目に行っている時点で在住地域がかなり限定されるわけで、数として一番多いと考えるのはおかしいです。
僕が思うに「普通のゲイ」の日常なんて、その辺の男性の日常と大して変わらないんですよ。でもそれは面白くないからメディアは取り上げず、一部の生き方や考え方がスタンダードとして世間に広まっていく。例えばこの文章を読んでいる異性愛者の皆さんは「同性愛者はみんな日本で同性婚が認められることを強く願っている」と思っていませんか?統計を取ったわけではないのでこっちが間違っているケースもあるとは思いますが、僕の肌感覚では別にそんなことないです。「自分はどっちでもいいけど選択肢は多い方がいいから認められた方がいいよね」ぐらいの人が一番多い印象。夫婦別姓に対する世間の反応と似たようなものと捉えて頂ければ雰囲気を理解しやすいと思います。
そういう風に現実は分かりやすくないんです。そこで、お前が毎日のように学校や会社で話している相手が同性愛者でない保証なんてどこにもないんだと、そういうことが言いたくて僕は『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』を書いたわけですが……その作者が「分かりやすくゲイ」だと台無しですよね。なので黙っていました。これからも(今のところ)著者プロフィールとして性指向を明記するつもりはなく、調べなきゃ分からないぐらいに留めておきたいと考えています。その旨、ご了承下さい。
隠した理由の三つ目はありきたりで普遍的なもの。ごく一般的なカムアウトと変わりません。それは「カムアウトの反動が怖かったから」。
そもそもカノホモはweb小説から書籍化した作品であり、僕には「出版前に明かす」以前に「サイト登録時に明かしておく」という選択肢がありました。それをやらなかった理由は既に語った「作者と作品にバイアスをかけて欲しくないから」なのですが、実は初期の頃はカノホモを読んだ誰かに「同性愛者なんですか?」と聞かれたら普通にYesと答えるつもりでした。現実世界への影響はゼロですし、別にそこまで隠したいものでも無かったので。
ところが、聞かれなかったんですね。気になっている人は絶対にいたと思います。そういう作品なので。ただ「他人のセクシャリティに迂闊に触れない」という考えが思っていた以上に浸透していた。それはありがたかったのですが、心苦しくもありました。嘘をついているわけではない。言っていないだけ。それでもやはり、騙している感覚はありました。
そんな状態のまま「浅原ナオト」はどんどん交流を広げていきます。「浅原ナオト」の交友はだいたいカノホモから始まっているのですが、中にはカノホモを読んでいない人もいます。そのうちに書籍化まで決まり、「浅原ナオト」の存在が大きくなり、僕は真実を明かすことで起きるかもしれない反動を恐れるようになりました。
僕は同性愛者です。ですが、傍から見てそれはわかりません。興奮すると額に「♂」マークが浮かぶわけでも同性に触れるとハートのエフェクトが飛び交うわけでも背後に虹色のオーラを背負っているわけでもありません。ただ、そうであればいいのにと思ったことはあります。そうであれば最初から理解できるやつだけが近づいてきて、理解できないやつは近づいてこない。そういう風に生きられたのに、と。
手に入らないことは怖くありません。だけど失うことは、たまらなく怖い。
書籍化の話を打診された際、僕は担当編集に自らの性指向を明かしました。僕が同じ同性愛者以外に自身の性指向を明かしたのはそれが初めて。そしてこれが、二回目です。僕を取り巻く世界がどのように変わるのか。まずは粛々と、見極めたいと思います。
さて、ここからは「同性愛者であることを明かすことにした理由」の方に移りたいと思います。つまりはっちゃけることにした理由なので、はっちゃけたものになります。結果として当たりの強い言葉も出てきますが、ご容赦下さい。
一つ目の理由はシンプル。「好き放題言われてストレスが溜まるから」です。
僕は自身が同性愛者でありながら作品タイトルに「ホモ」という言葉を使いました。これには表の理由と裏の理由があります。裏の理由はこれからtwitterで語ろうと思っているのですが、表の理由は既に別の近況ノートに記しました。そしてそこに僕は「マイノリティはどこにでもいる」ということを理解して欲しいと書きました。
この「マイノリティはどこにでもいる」という考え方、僕はセクマイ議論に参加するならば何よりも先に抑えるべき基本思想だと捉えています。これさえ抑えればその他は枝葉末節。というか、これを抑えている時点でもう大事なところは理解できているので議論に参加する必要すらありません。逆にこれを抑えないまま深いところに突っ込むのは数字を読めないのに微積分を解こうとするようなものであり、僕の経験上そういう人は当事者性を失った言葉遊びみたいな議論しか出来ません。
それで僕があのタイトルで作品を発表すると、出てくるわけですよ。
僕が当事者であることを想定せずタイトルに反応する「数字読めないのに微積分を解こうとする」人が。
上で「同性愛者であることは僕の作家としてのスタンスを規定するものではない」とか書いておいてあれなのですが、カノホモは僕の性指向丸出しです。twitterでは「10分立ち読みしただけだけどこれ作者ゲイだろ」と言っているゲイの方も居ました(「買え」と思いました)。たぶん試し読みの範囲で分かります。少なくとも疑念は持つと思います。
でも「数字読めないのに微積分を解こうとする」人って、その試し読みすらしないんですよね。そういう姿勢だからいつまで経っても数字読めないんですけど。そんなのに差別主義者とか言われればそりゃ「Uzeeeeeeeeeeeee!!!!!!!」ってなるでしょ。そういう人から僕自身が受ける苛立ちとか、編集部やカノホモを読んで下さった方が作品についてツイートする度にそういう人に絡まれないか心配になる不安とか、それがストレスフルでめんどくさくなったのでもう明かすことにしました。
いや、この「マイノリティはどこにでもいる」という思想が現時点で世間に根付いていないこと自体は別にいいんですよ。そもそも根付いていないから僕はカノホモを書いたし、書けたのです。今の社会に「世間の人々は全ての人間について同性愛者かもしれない可能性を想定して動くべきである」みたいな過度な期待はしていません。
ただマイノリティの味方という立場から他人を差別主義者呼ばわりまでする人がその程度の基礎も抑えていないのは、どう考えてもおかしいでしょう。申し訳ないけれど半年ROMって欲しい。僕はそういう「人間」を見ないで「LGBT」を見る人がいくら増えても世の中に良い流れが生まれるとは思えないのですが、最近は当事者ですらそうなっているケースが散見されて、正直空恐ろしい部分があります。
なお「作者が同性愛者であることを想定してなお」という方に対するコメントは前述の通りtwitterで語ります。僕が同性愛者でありながらタイトルに「ホモ」を使った理由。それには以前述べたもの以外に僕個人のルーツが関わってきます。そのうちこちらにも転載します。
そして二つ目の理由。これは一つ目の理由「好き放題言われてストレス溜まるから」に似ています。雑に言うと「好き放題言いたいことがあるから」です。主に、LGBTに関して。
上で僕は「半年ROMれ」と書きましたが、半年ROMらないで議論ふっかける人が出てくるようになった理由は間違いなく「LGBTブーム」です。そもそも「LGBT」自体が絶対に一緒にできないものを強引に一緒にした当事者性の薄い言葉で、そんな言葉の上に乗っかった議論が当事者性を失うのは当然と言えば当然の帰結ではあります。
そんな中、一応はマイノリティの一人として生きている以上、世の動きに言いたいことはあるわけです。ただそこで一言言うならば自身の立ち位置は明かしておくべきなんですよ。明かしているのと黙っているのとでは説得力が雲泥の差だし、そもそも自分の立ち位置を隠したまま横から好き勝手にものを言うのはあまりよろしくない。
というわけで、明かしちゃおうかなと。今が過渡期ですからね。僕の言葉にどれだけ世界を動かす力があるか分かりませんが、言いたいことは言っていきたいと思います。
そして三つ目。これは今までの二つとだいぶ毛色が違います。拙作に触れ、世界を信じるようになった当事者の方々の感想を受け、「僕も世界を信じたくなったから」です。
カノホモはあのタイトルにも関わらず多くのマイノリティ当事者に届いています。むしろ反感を買うと思っていたのでこれは嬉しい誤算でした。特にゲイを表明しながら中身に一切触れる気なく批判を口にしていた人は(僕の知る限り)一人もいません。実は発売前はものすごく批判されるのではないかと警戒を抱いていたのですが、今となってはそのような考えを持っていたことに恥ずかしさを覚えます。
読了した当事者の方はみんな、僕の言いたいことを的確に読み取ってくれました。クリティカルヒットしている人も結構いて、当事者の感想にはやたら「しんどい」が多いのが印象に残っています。そして大げさな言い方をすると、拙作が「人生を見つめなおすきっかけなった」という人が少なからずいました。
とあるビアンの方は、主人公の純くんから自分を認める少しの勇気を得て、創作のキャラクターである純くんに御礼を言ってくれました。
とあるゲイの方は、物語が人の心に与える影響の大きさを感じ取って、自分も読む人に救いを与える創作をしてみたいと言ってくれました。
そういう方々の感想に触れると、僕がいつまでも「さー、どっちでしょうか」とかやってるのが、カッコ悪く思えてくるんですね。「偉そうなこと言って、お前が一番誰のことも信じてないじゃん」みたいな。作家という立場や、作品の印象を考えているという建前はあるにしても、その根本にあるものが「僕が僕を取り巻く世界を信じていない」なのは間違いないと思います。
だから少し、信じてみることにしました。僕が読者の方々に信じさせたものを、僕自身も信じてみます。その結果として打ちのめされ「やはりこの世は地獄だ」と思うこともあるかもしれません。ただ、それも一つの答えです。受け止めて生きていきます。
以上、僕が同性愛者であることを隠した理由と明かした理由でした。最後に一つ、前向きなんだか後ろ向きなんだか分からないメッセージをマイノリティ当事者に送り、この近況ノートを〆たいと思います。
僕は同性愛者であることをクローゼットにして社会で生きています。そして「浅原ナオト」として世に顔を出していません。簡単に言うと、逃げ道を作っています。ここから何が起きても「浅原ナオト」を消せばそれでおしまい。人生に深い影響は与えません。
何が言いたいのかというと、もしカムアウトするならそれぐらい慎重になった方がいいということです。世の中には「同性愛なんて恥ずかしいことじゃないんだからどんどんカムアウトするべき」と言う人もいますが、僕はその思想には賛同出来ません。だってそれで何が起こったとしてもその人が責任取ってくれるわけじゃないし。
僕の『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』やこの近況ノートは、当事者が読むとカムアウトしたくなる仕様になっています。でもちょっと待ってください。それを書いたやつ、現実世界ではカムアウトしていませんからね。小説家程度の箔をつけたところでリスクリターンが釣り合わないと考えていますからね。そこは忘れないで下さい。
ただ、それでもカムアウトしたいと言うなら
僕がまだ信じきれていない世界を、信じたいと言うのなら
それは心から応援します。その際は僕の作品を利用して頂いて構いません。カノホモは当事者以外でも楽しめる青春小説です。そういう実績も出ている。だからカムアウトしたい人にカノホモを読んで貰って、反応を見て、それからカムアウトするというクッション的な役割を持てるのではないかと思います。
なおここまで性指向について長々と、さも重大そうに述べましたが、実のところ僕の抱えているコンプレックスは顔面>>>>>>>>>>性指向であり、もしイケメンだったら何もかもフルオープンにして精力的に活動に励んだ挙句、情熱大陸に「面白いホモ小説家がいるんですけど、どうっすか?」と売り込みをかけるぐらいのことはやっていたかもしれないことを最後に追記しておきます。いや、ホモなんてそんなもんですって。本当に。
-------------------------
転載すると言って今日(2019年4月22日)まで忘れていたtwitterの呟きのまとめを貼付します。気になる方はご確認下さい。
https://togetter.com/li/1233037