【当初は昭和十一年の時代設定だった】
未明に麻布を出発した陸軍第一聯隊の将兵は列を為し、霞が関方面に向う。彼らの肩や路傍には雪がしんしんと降り積もる…
二・二六事件を描いた映画『動乱』の白眉とも言えるシーンです。
前々作に当たる『曲藝團の畸型』は、当初、昭和十一年を想定していました。二月に物語が始まるのは、その為です。帝都の大雪が鍵になります。
途中まで書きながら、映画『動乱』に関する辛口の批評があったことを思い出しました。蹶起した将兵が首相官邸に向かう頃、実は雪が降っていなかったというのです。気象記録によると雪が降り始めたのは当日の午前八時過ぎでした。
『曲藝團〜』では土蔵のシーンに該当します。朝起きたら外は白銀の世界。史実とは異なりますが、小説です。大きな問題とは言えません。
厳密に日時を決めて、大雪のシーンが二月二十六日に該当するように計算していました。別れた曲芸団本体は帝都でクーデターに遭遇するという構想です。雪と戒厳令のミックスで昭和十一年の物語であることを明示するのです。
ところが、執筆中に詳しく気象条件を調べたところ、厄介な史実が判明しました。都心部が異例の大雪に見舞われたのは二十六日ではなく、少し前の二月二十三日だったのです。今でいう南岸低気圧が通過し、積雪量は三十五センチ超。雪国と違い都内は完全にアウトで、交通は混乱し、都市機能は麻痺します。
同事件の報道写真は、大雪の官邸周辺が有名ですが、三日前の雪が残る中、更に二月二十六日にも雪が降ったという次第です。
全体のスケジュールを前倒しする策も練りましたが、先述の『動乱』の批評が頭に引っ掛かります。何か、史実と違うことを小馬鹿にした感じで、その一点だけを持ってフィクション性が破綻しているかのような口振り。映画とは言え、許されない雰囲気です。
そして降雪以外にも、戒厳令の問題がありました。内戦の危機を孕んだシリアスな局面は二月二十九日(閏年)まで続き、浅草で貞子まがいのショーをやっている場合でもなく、金毘羅神社にも辿り着けません。
二・二六事件を示唆する描写を全て捨て去り、年度も曖昧なまま、若干ノリノリで書き進めます。転換点になる波止場のシーンも終了。そして車に乗る段になって、かなり厳しい時代考証を強いられることになったのです。
【自動車の起動方法をめぐる大混乱】
劇団支配人が乗り回す自動車は、フォード・モデルAの四ドアセダンを想定しています。作中に「外国車」「観音開き」といった表現があります。
大正期の自動車は、クランク棒と呼ばれる物をフロントで回し、エンジンを起動させます。面倒で、事故も多かったそうです。それが時代の変遷でセルモーター式に取って代わられます。当初は、章一郎がクランク棒をぐるぐる回す描写を考えていましたが、高級車は違うようなのです。昭和十年代前半は過渡期と言えます。
ネットで調べても、フォード社がセルモーターを採用・量販し始めた時期が不明で、確証は得られません。次いで、創作物を訪ねます。戦前期を舞台にした小説では自動車が登場するものの多く、参考になるはずです。しかし、乗り込んで起動させる描写は見つかりません。普通に乗って、走行するシーンばかりです。
途方に暮れていたところ、偶然にも某動画サイトで、クラシックカー・マニアの映像を見つけました。それがセダンタイプのフォード・モデルAだったのです。現在の車の同様に、鍵を差し込み、エンジンを始動させています。八十年以上もシステムが変わらないとは…そして、この動画で裏が取れたことにして良いものやら。
気合いの入ったクラシックカー・マニアが利便性だけを優先して、起動方法を強引に魔改造することは有り得ません。採用しました。しかし、過渡期とあって、年代を少し遅らせた方が無難です。
こうした経緯から『曲藝團の畸型』は昭和十四年二月〜三月の物語と確定させました。少女歌劇団のセンターさんは十四歳で、昭和元年の生まれです。顔がそっくりなだけではなく、なんと誕生日まで同じなんです。
書き終わる寸前、熱海から伊東に至る路線の開通が昭和十三年という事実を知りましたが、そこは見なかったことにします。自動車〜徒歩〜電車〜自転車という移動手段の変化は譲れない部分でもありました。
【時代考証の愉しみ】
結論から言いますと、創作の苦労話ではないのです。時代考証は雑学系知識が溜まる割と愉快な作業で、縁のない小説や資料を読み込む機会にもなります。それが何に資するのか、と問われると微妙ですが、雑学ネタはそんなものです。
その中、背筋が凍ることもあります。既に公開した作品の中で、明らかな間違いや、調整が必要な部分を発見してしまう。こっちは恐怖体験です。例えば…
「東京から十二里、甲州街道から約半里ばかりそれた、府下S―村に」(横溝正史『丹夫人の化粧台』昭和六年)
「府下」と明記されています。『曲藝團〜』では巡業先の金毘羅神社の場所について何度か「都下」と記しました。当時は東京都ではなく、東京府になります。帝都の端なら「都下」も許容範囲かも知れませんが、焦ります。
別の本で「都下多摩郡」という戦中時代の表記があったことや、大正生まれの女性が八王子方面のことを「都下」と口癖のように言う等の逸話があり、そう認識していたのですが、誤りの可能性があります。これについては今後の課題とし、更に追跡調査します。
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今回の近況ノオトは「自作解題」に少し憧れもあったりして三作目に入ったら書こうと以前から決めていたものです。『曲藝團〜』関連では幾つか予定しています。豪快なネタバレも含むので、地雷要素もなきしもあらずだけど。
新作『眠れない黒魔道士〜』はそこそこ書き溜めていて、一昨日に長めの「ガンジス河編(想定舞台)」が終わり、更に執筆します。終わり方には腹案があるものの、先送りしたエピソードも増え続け、もうキャラが勝手に動いて喋ってくれるような状態です。
また『曲藝團〜』を読んで頂いた方に捧ぐ超紳士&超淑女向け作品もタイトルとメインキャラ(絶世の美少年)の名前が確定し、密かに資料を集めを進めています。それが今回の時代考証とも少々関係があって、昭和十四年の四月から始まるっぽい。