もう少しでカクヨムコンもフィナーレですね(^^)
まあ、今回はコンテスト開催中に話を完結されるのは、絶対ムリだろうと踏んでいました。今ですら、「直違の紋~」(約24万字)超えの予感がしていますし……。せめて、コンテスト開催中にもう1話位(それでもまた一万五千~二万字くらいにはなるのでしょうが)くらいは、アップしたいなあ……と思っています。
次の本業のオーダーも既に入っていることですしね。
ところで、実はこの年、「十万石以上の大名は100日の期限付きで京都警衛に当たるべし」という命令が出ていました。
我が二本松藩もばっちりこの対象だったわけで、どのメンバーが出張させられたのかは、追々書いていきたいと思います。
二本松藩の「京都警衛」担当時期は、10月~12月。その準備のために、既にミッションを達成しつつあった「江戸警衛」を免じられて京都警衛の準備に当たれ!という命令が下された程でした。
ここで興味深いのが、親戚筋の「大垣藩」も、同時期のミッションを割り当てられていたのです。
二本松藩が「建春門」の警衛を命じられたのに対して、大垣藩は概ね「伏見街道~宇治」の警備。こちらは、結構早くから何度も警備を命じられていて(多分近いから)、もしかしたら両藩で情報交換をすることもあったのかもしれません。
なぜか、互いにその記録は出てこないですが^^;
(→幕末に、大垣藩は新政府側に回ったからかも)
そして、さらに仲のいいことに?大垣藩はこの後、天狗党西上の折り、武田耕雲斎率いる天狗党の中山道西上を阻止しています。この指揮を取った「戸田氏彬」と長国公は、義理の兄弟。(長国公の妻久子様は、氏彬の姉か妹です)
それを思うと、歴史の不思議さを考えずにはいられません。