人形の眼

都桜ゆう

第1話

古びた日本家屋を借りて一人暮らしを始めて、半年が経つ。

 僕、高瀬悠人たかせ ゆうとは、都心から少し離れたこの街で、フリーランスのデザイナーとして働いている。都会の喧騒から離れたくて選んだこの家は、築年数だけならゆうに五十年を超えているだろう。畳敷きの和室が二間と、古い台所、申し訳程度の浴室。家賃の安さだけが取り柄のような家だった。

 引っ越してきたときから、和室の隅、床の間の横に、その人形は鎮座していた。高さ四十センチほどの、着物姿の日本人形。艶やかな黒髪はパサつき、顔料のひび割れた白い顔は、どこか愁いを帯びた表情をしている。前の住人が残していったものらしい。不動産屋は「処分しても構いませんが」と言ったが、なんだか勝手に捨てるのは憚られ、そのままにしてある。

 僕の日常は淡々としたものだ。午前中はデザインの仕事。午後は打ち合わせや修正作業。日が傾き始めると、古い家は急速にその陰鬱な表情を深めていく。夜の静けさは、この家を借りた最大の理由であり、最大の不安要素でもあった。

 夜十時を過ぎ、仕事を終えると、僕はいつも決まった習慣を持つ。薄暗い台所で簡単な夕食を済ませ、熱めのシャワーを浴びる。そして、電気を消す前の十五分間、和室で今日のニュースをスマホで確認するのだ。その和室の隅に、人形はいる。


 ある晩、僕はいつものように和室の電気を消し、押し入れから出した布団に潜り込んだ。この古い家は、木造ゆえに夜になると様々な音がする。風が通るたびにギーッと軋む梁の音。どこかの小動物が壁の裏を走るカサカサという音。外を走る車のエンジン音は遠い海の波のように聞こえる。その中でも、特に神経を逆撫でするのは、枕元に置いた古い振り子時計の針が時を刻む音だ。

 カチッ、カチッ、カチッ……。

 規則的でありながら、この静けさの中ではまるで心臓の鼓動のように聞こえてくる。

 布団に入り、スマホを閉じる。真っ暗な闇が僕を包む。

 そのとき、ふと、和室の隅に置かれた人形の存在を思い出した。

 僕は仰向けのまま、薄く目を開けた。完全に闇に慣れた眼には、障子窓から漏れるわずかな街灯の光が捉えられる。その微かな光のおかげで、人形の輪郭が朧げに見えた。

 そして、ふと、「人形の目がこちらを見ている気がする」という強い違和感が胸の奥に湧き上がった。

 それは、錯覚の類だろう。人形なのだから、その表情は固定されているはずだ。しかし、この夜の闇の中で、その視線は固定されているどころか、奇妙な角度を向いているように感じられたのだ。その目は、僕のいる位置を直接見つめているわけではない。なんだか、僕の横、つまり、今僕が横になっている布団の上の空間を検(あらた)めているような気がしたのだ。

 僕は自分の頭を振って、その考えを追い払おうとした。「疲れているんだ、ただそれだけだ」。そう自分に言い聞かせ、僕は目を閉じ、深い闇の中に意識を沈めていった。

 しかし、その夜、僕はなかなか深い眠りにつくことができなかった。布団の中に閉じ込められた身体は、温かいはずなのに、なぜか居心地の悪い圧迫感を覚える。カチッ、カチッと響く時計の針の音だけが、時間というものが存在することを証明している。

 闇の中に目を凝らすと、眠ろうと目を閉じても、微かに浮かび上がる人形の、白い顔が脳裏から離れなかった。その顔の中心にある、漆黒の瞳は、まるで僕の呼吸が止まるのを、静かに待っているかのように、僕の意識の淵を覗き込んでいる。

 僕は無意識のうちに、布団の縁を掴む指に力を込めた。


 その夜、時計の針が深夜二時を指そうとしていた頃だろうか。

 カチッ、カチッという音が、やけにクリアに聞こえる。浅い眠りの中にいた僕は、明確な理由もないまま、布団の中で、仰向けのまま、そっと目を開けた。

 和室は、先ほどよりもさらに深い闇に沈んでいた。目を慣らそうと、ぼんやりと天井を見つめる。そして、無意識に、視線は部屋の隅、人形のいる場所へ向かった。

 闇の中、その存在は黒い塊として、辛うじて認識できる。その黒い塊の中心に、ぼんやりと白い顔が浮かんでいる。

(ああ、また、見ている気がする……)

 そう思った瞬間、僕の心臓がドクンと大きく跳ねた。

 白い顔、その漆黒の瞳が、わずかに、本当にわずかに動いたように見えたのだ。

 右から左へ。極めて緩慢に、まるで泥の中を這うように。

 それは、一瞬の出来事だった。あまりにも微かで、すぐに視線は元の位置に戻ったように見えた。しかし、僕はそれを見た。確かに、人形の目が、生身の人間のように、僕の存在を探るように動いたのを。

 気のせいだと結論付けようとしたが、一度感じてしまった恐怖はそう簡単に拭い去れない。布団の中で、僕の心臓の鼓動は激しく速くなり、古い振り子時計の針の音を凌駕しそうなくらいに大きくなった。僕は耳の奥に響く自分の血流の音を聞きながら、身体を硬直させたまま、人形のほうを凝視し続けた。

 しかし、次に動くことはなかった。人形はただ、その場に静かに座っている。僕の動揺を、静かに見つめ返すように。

 僕は恐怖に耐えきれず、ゆっくりと目をつぶり、そのまま朝まで眠ることを選んだ。布団の中は、もはや安心できる場所ではなく、巨大な闇の中に浮かぶ、唯一の避難所のように感じられた。

 翌朝、目覚めたとき、僕は身体中に汗をかいていた。悪夢を見たわけではない。ただ、あの動いた目が、僕の浅い眠りのすべてを支配していた。

 朝日が差し込む和室は、夜の顔とは打って変わって明るく、健全だ。夜通し僕を苛んでいた恐怖は、太陽の光の下で急速に萎んでいった。

(やっぱり、気のせいだったんだ)

 僕はホッとしながら起き上がり、朝の支度に取り掛かった。顔を洗い、コーヒーを淹れ、改めて和室に戻ってくる。そして、なんとなく、その日本人形を確認した。

 人形は、床の間の横に、昨日と同じように座っている。

(……あれ?)

 僕は顔を近づけて、人形の目を見た。

 昨日と、視線が微妙に変わっているように感じる。

 昨夜、僕が寝る前までは、その視線は部屋の奥、壁を見つめていたはずだ。しかし、今の人形の目は、まるで僕が寝ていた布団の場所、正確には、布団から起き上がった僕の背中を見ているような、微妙に下向きの角度になっている。

 それは、光の当たり具合や、僕自身の記憶の曖昧さによるものかもしれない。

 しかし、深夜に目撃した「目の動き」の記憶と結びつくと、それは単なる違和感に留まらなかった。視線の変化は、昨夜の現象が錯覚ではなかったという、確信めいたものとなって、僕の胸に張り付いた。

 僕は思わず、人形に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。触れることが、何か決定的なものを呼び起こすような気がして、怖くなったのだ。

 その日一日、僕の心は重かった。デザインの作業に集中しようとしても、ふとした瞬間に、あの漆黒の瞳が脳裏をよぎる。

 視線が変わっている。動いたんだ。

 それでも、僕は「きっと錯覚だ」と自分に言い聞かせることしかできない。もし、本当に人形が動いたのだとしたら、それは僕の日常の根幹を揺るがす、恐るべき事態だからだ。

 その夜も、僕はいつも通り、和室の布団に潜り込んだ。

 カチッ、カチッ、カチッ……。

 古い時計の音が、僕の覚悟を嘲笑うかのように、規則正しく響き続けていた。


 それからの数日間、僕の夜は一変した。

 深夜、浅い眠りから覚め、ふと目を開けると、必ず人形の目が動いている。

 最初は、単なる微動だったが、その動きは日を追うごとに、明確さを増していった。

 一度、僕は確認のために、目を開けたまま、ゆっくりと頭を動かしてみた。枕の上で、顔を右、そして左へ。

 すると、人形の目もまた、僕の動きに合わせて、微かに動いた。それはまるで、僕の顔の輪郭を追っているかのようだった。

 そして、決定的なのは、この現象が「布団の中からしか見えない」ということだ。

 恐怖に耐えきれず、布団から飛び起きると、人形は必ず静止している。再び布団に潜り込み、横になってしばらく経つと、闇に慣れた目には、またあの微かな動きが捉えられるのだ。

 布団の中、という閉塞感が、この恐怖を何倍にも増幅させた。布団に潜っている間は、僕は人形の眼から逃れることができない。動けば、人形も動く。静止すれば、人形も静止する。まるで、僕の意識が、人形の活動のスイッチになっているようだった。

 カチッ、カチッと響く時計の針の音は、もはや単なる時の流れを示す音ではない。それは、僕が恐怖に耐えなければならない時間の長さを、無情にも刻み続ける音となった。

 眠れぬ夜が続き、僕の日常生活は急速に軋み始めた。

 日中のデザイン作業中も、集中力が続かない。クライアントとの打ち合わせでは、相手の目を見て話すのがつらくなる。目の奥には、常にあの漆黒の瞳が焼き付いているからだ。徹夜明けのような顔でいる僕を見て、同僚の山下が声をかけてきた。

「悠人、最近顔色悪いぞ。どうした?」

 僕は意を決して、人形の話を切り出した。

「実は……、今借りてる古い家に、日本人形が置いてあって。夜、布団に入ると、その人形の目が動くんだ。布団から出ると動かないんだけど」

 山下は、僕の奇妙な条件を聞いた途端、苦笑いを浮かべた。

「おいおい、悠人。マジで言ってるのか? そりゃ、疲れているだけだって。ストレスで幻覚でも見てるんだよ。早く休めって」

 別の友人に相談しても、「古い人形なんて、そういう霊的な噂があるから、勝手にそう思い込んでるんだよ」と取り合ってもらえない。

 僕はカメラで録画することも考えたが、すぐにその考えを打ち消した。もしカメラに何も映らなかったとしたら、それは僕の不安が完全に精神的な病だと宣告されることを意味する。そして、僕は動いているという確信を失いたくなかった。その確信こそが、僕がまだ正気であることの、唯一の証拠のような気がしたからだ。

 

 人形の存在は、僕にとって家の中の異物として、その存在感を増していった。

 電気を消すと、障子窓の桟の影が、複雑な幾何学模様となって和室の床に落ちる。しかし、どんなに影が動こうとも、部屋の隅のあの白い顔だけは、固定された悪意を持って座り続けている。

 僕は、布団の布地の重みと、暗闇の圧迫感に耐えながら、心の中で人形に問いかけた。

(なぜ動く? 何を見ている?)

 しかし、返ってくるのは、カチッ、カチッという、冷たく無機質な時計の音だけだった。そして、その音と音の間で、漆黒の瞳が、僅かに、僕を捉えるように、瞬いた気がした。


 眠れない夜が続き、ついに僕は決断した。

 人形を処分する。

 もうこれ以上、この異常な状況に耐えることはできない。幻覚だろうが、現実だろうが、この人形が僕の生活を蝕んでいることは確かだ。

 昼下がり、和室の電気をつけ、僕は人形に向き合った。

「すまない、君にはここから出て行ってもらう」

 そう呟き、僕は人形を持ち上げようと、その着物の肩に手をかけた。

 次の瞬間、僕は思わず「重い」と声に出していた。

 四十センチほどの大きさの、木と布でできた人形にしては、異様に重いのだ。まるで、その小さな身体の中に、石か、あるいは鉛のようなものが詰め込まれているかのようだった。予想外の重さに、僕は両手でしっかりと人形の胴体を抱え込んだ。

 そして、その拍子に、僕は人形の顔を直視することになった。

 真昼の光の下、僕は人形の目を、直に、真っ直ぐに見つめた。

 そのとき、それは起こった。

 昼間、布団の外、明るい光の下にもかかわらず、人形の目が、ゆっくりと、左へと動いた。

 昨夜までの微かな動きとは違い、それは明確な、意思を持った動きに見えた。まるで、僕の顔を検分しているかのように。

 僕は息を呑み、人形を抱えたまま硬直した。

(動いた。今、動いたぞ!)

 僕が抱きしめているのだから、光の反射や錯覚ではない。人形の顔は僕の目の前にある。

 僕は恐怖を通り越し、得体の知れない事態に、ほとんど怒りのようなものを感じながら、人形を掴んだまま、玄関のドアを開けて、たまたま通りかかった近所の老婦人に声をかけた。

「すみません、この人形を見てください! 今、目が動いたんです!」

 老婦人は驚いた顔で僕の形相を見た後、人形の顔を覗き込み、にっこりと笑って言った。

「あら、立派な、お雛様かね? 目なんか、動いてないよ。動くわけないじゃないか」

 僕は再び人形の目を見た。老婦人の言葉通り、人形の目は完全に静止している。視線は、昨日僕が確認した、あの微妙に下向きの角度に戻っていた。

「おかしい……今、動いたんです……」

 老婦人は僕を気の毒そうに見つめ、一言、「お疲れ様」とだけ言って、立ち去っていった。

 僕はこの異常な事態に、心底混乱した。自分にしか見えない。僕自身の意識が、この現象を引き起こしているのか?

 僕はインターネットで、この家と人形に関する情報を調べてみることにした。

「○○県××町 古い家 人形 噂」といったキーワードで検索をかける。すると、いくつかの古いブログや、地域の掲示板に、断片的な情報が見つかった。

 まず目についたのは、その家が昔、近隣で「人形の家」と呼ばれていたという記述だ。

 ある地域ブログのコメント欄には、「あの辺りの旧家には、人形に魂を宿す風習があったという。先祖代々の守りとして、生きた人間の髪や爪を人形の胎内に収めたとか……」という書き込みがあった。

 僕はさらに匿名掲示板の過去ログを辿った。そこには、より生々しい噂と、それに対する他のユーザーの反応が残されていた。

 ある書き込みには、「あの家には昔、病持ちの娘さんが住んでたらしい。その子の遊び相手として、『代わりに苦しみを受けるよう』作られた人形だとか……」とあった。

 その直後の返信のような形で、「へえ、それって、あの人形のことか? あの人形、異様に重いって話だよな?」という問いかけを見つけた。僕自身の体験と一致するその一文が、インターネットの画面から直接、僕の内面に突き刺さるような気がした。

 この異様な重さも、「人形に魂を宿す風習」によるものなのか?

 僕はさらに情報を深掘りした。そして、ある古老の書き込みに、目が釘付けになった。

「あれはな、『夢境むきょうひな』なんじゃ。半覚醒の状態、つまり眠りと覚醒の境界にいる人間にしか、その『魂の動き』は見えんのじゃよ。完全に目覚めてしまうと、人形は元の抜け殻に戻る。だから、夜、布団の中で、人が意識を彷徨わせているときだけ、人形は生き返るんじゃ」

「眠りと覚醒の境界に立ったときだけ人形は動く」

 連夜、僕を苦しめてきた「布団の中からしか見えない」という条件。他人には見えない「動く目」。

 つまり、人形は僕の「意識の揺らぎ」を糧にして動いているのだ。僕が、恐怖と、眠気に抗い、現実と非現実の狭間にいるときだけ、人形は生きる。

 僕は、ぞっとした。人形は、僕の恐怖を待っているのだ。

 僕は、まるで熱いものでも触ったかのように、人形を床に置いた。人形は、再び静かに、その場所に座り込んだ。

 僕の心臓は、このとき、夜の時計の針よりも早く、不規則に鼓動していた。

 その夜。

 僕は、布団に潜り込む前に、和室の電気をつけたまま、人形を凝視した。

「お前のことはわかっている。僕の恐怖が、お前の命なんだ」

 そう呟いてみたが、人形は無言だ。昼間の光の下、その顔はただの美術品のように見える。

 しかし、僕は知っている。この光を消し、この布団に潜り込めば、事態は一変する。

 僕は、戦うことを選んだ。逃げるのではない。恐怖と対峙する。

 カチッ、カチッ、カチッ……。

 いつもより早く、布団に潜り込んだ。電気を消す。闇がすべてを包み込む。

 僕は、恐怖に意識を奪われないように、深く、ゆっくりと呼吸をした。

 絶対に、完全に覚醒するな。だが、眠りすぎるな。

 眠りと覚醒の境界。その一点を、僕は意識の力で保とうとした。


 深夜一時を過ぎた頃だろうか。

 闇に目が慣れ、僕は和室の隅に鎮座する人形の白い顔を捉えた。

 僕は、静かに、人形を見つめた。挑むように。

 すると、待っていたかのように、人形の目が動いた。

 右へ、ゆっくりと。僕の顔を捉える。そして、静止する。

 僕は、身体を動かさない。鼓動が速くなるのを感じながらも、呼吸だけを意識する。

 ドク、ドク、ドク……。

 そして、次の瞬間、僕は見た。

 人形の口元が、わずかに動いたのだ。

 それは、笑みではない。喜びでも、悲しみでもない。

 まるで、何かを囁こうとしているかのように、その朱色の唇が、一瞬だけ開き、そして、すぐに閉じた。

 その動きは、目の動きよりも、はるかに生々しく、ぞっとするものだった。

 瞳の動きは「監視」だったが、口元の動きは「意思の表出」だ。

(――何かを、言おうとしている)

 僕の脳内で警鐘が鳴り響き、恐怖は身体的な危機感へと変わった。

 僕は、耐えきれず、「うわぁ!」という叫びを上げながら、布団から飛び出した。

 畳の上に足が着き、体が完全に起立した、その一瞬。

 僕は、闇の中にいる人形を見た。

 人形は、完全に静止していた。目も、口元も、何一つ動いていない。まるで、最初から動くことなどなかったかのように、無言のまま座っている。

 部屋の空気は冷たい。

 僕は、激しく肩で息をしながら、自分が再び「安全な」覚醒の世界に戻ってきたことを知った。

 だが、同時に、「布団に戻れば、また動く」という確信が生まれていた。

 このまま、この家から逃げ出すこともできる。しかし、この異常な存在の「仕組み」を知ってしまった今、僕の意識は、恐怖と、抗いがたい好奇心の狭間で、激しく揺れ動いた。

(何が、起こる? 口を開いたのは、何を言おうとした?)

 もしもう一度、わずかな覚醒と浅い眠りの境目まで意識を沈めたら、人形は次に何をするのだろうか。

 僕は、まるで何かに取り憑かれたかのように、ゆっくりと、布団の縁へと歩み寄った。

 そして再び、自分の唯一の安全圏であったはずの、閉塞した闇の中へと、身体を沈めた。

 布団に潜り込み、横になる。

 闇が、優しく、そして冷たく、僕を包み込む。

 カチッ、カチッ……。

 時計の音だけが、僕の現実との最後の繋がりだ。

 僕は、意図的に、自分の意識を「夢境」の状態へと誘った。深く呼吸をし心臓の鼓動を意識の外へと追いやる。

 目を慣らし、和室の隅へと、視線を送る。

 白い顔が、浮かび上がる。

 人形の目が、既に、僕を捉えている。

 そして、その目は、今夜の始めとは比べ物にならないほど、大きく、完全に開かれていた。その漆黒の瞳は、まるで僕の魂を吸い込もうとする、暗黒の渦のようだ。

 恐怖よりも、むしろ、畏怖のような感情が湧き上がってきた。

 そして、それは、もはや目や口元だけの動きではなかった。

 人形は、座ったまま、上半身をわずかに前に傾け、僕に向かって、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。

 その動きは、極めて緩慢で、まるでスローモーションのようだ。着物の袖が、床の畳に触れ、カサリと微かな音を立てた。

 僕の口は、乾ききっている。声は、喉の奥に張り付いて、出ない。

 僕はただ、その光景を、眠りと覚醒の境界線で、じっと見つめ続けることしかできなかった。

 人形の体が、さらに、わずかに持ち上がる。その視線は、僕の顔から、僕の胸元へと、降りてきている。

 カチッ……。

 時計の音が、最後の一歩を刻む。

 次の瞬間、人形は完全に立ち上がるだろう。

 そのとき、何が起こるのか。

 僕の意識は、急速に、闇の底へと沈み込んでいくのを感じた。



 翌朝。

 朝日の光が差し込む和室には、布団が敷かれたままになっていた。

 布団は、きれいに整えられ、空だった。

 その布団の横、畳の上には、昨夜人形の体が持ち上がったことを示す、わずかな着物の裾の跡が残っていた。

 和室の隅にはいつものように、着物姿の日本人形が、ただ静かに座っていた。



(C),2025 都桜ゆう(Yuu Sakura).

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