白紙の声

江藤 樹里

白紙の声


「……くねくね日記?」


 俺の言葉を繰り返し、目の前の女子高生――祓い屋のお嬢様は小首を傾げた。腰まで届く黒髪がさらりと揺れる。整った顔立ちと合わせて、アイドルと言われても信じるだろう。しかし言葉遣いも所作も、今どきの女子高生らしさは微塵もない。


 着倒したスーツ姿の三十路の俺と並べば、外を歩くだけで職質対象だ。自覚はある。


「探偵、キミもしや猥談か? 未成年にそれは如何かと思うが」


「そんなわけねぇだろ莫迦。どこをどう聞いたら猥談になるんだ。都市伝説だよ。『くねくね』。田舎で出るって噂の、正体不明のバケモノ」


 広すぎて毎度落ち着かない文月邸の座敷で、俺たちは向かい合っていた。障子の向こうには従者の影。無言でも圧がある。


「私は思春期だからな、そういう話には興味津々だとも。だがなんだ、そちらの『くねくね』の話か。それと日記がどう繋がる?」


「そうかよ、そういう話は学校のお友達とするんだな。

 俺がしたかった話はこっちだ。祓い屋なら俺がこれを持ち歩いていることくらい、もう気付いてるんじゃないか」


 カバンからジッパー袋に入れた日記帳を取り出す。白地に花柄の、女性向けのデザインだ。


「日記の持ち主は二十代のOL。彼女は失踪し、恋人がこの日記を手がかりと見て調べていたが……ある日『分かった』と連絡してきた直後、倒れた。今は入院中。残された兄貴が藁にも縋る思いで俺のとこに来たってわけだ。

 警察に届けても進展はないし、妹の恋人は今や自分の名前も判らない。ネットで調べて俺の事務所に辿り着いたのが一週間前だ」


 あぁ、と彼女は俺を憐れむような目で見た。


「人探しで『きさらぎ駅』まで赴いた挙句、見事に生還したハクのついた探偵だものな、キミ。大抵は絵空事と取り合ってもらえないのに、救出者に妙な文才があったせいで。まだ残ってるのか、あの書き込み」


「とっくに削除されてるさ。でも残る。それがネットだ。それで仕事がくるならまぁ、悪くはないのかもしれんが」


 真剣に答えたのに彼女は一瞬ぽかんとし、それから笑った。あはは、と大きく口を開けて笑う様は年相応といえばそうだが、お嬢様学校では浮いていないか心配になる。初見から“友達いねぇだろ”と思った印象は今も変わらない。


 まぁ、と彼女は日記に手を伸ばす。触れる一瞬、指先が震えるのが見えた。


「……あぁ、案ずるな」


 影に向かってそう呟くものだから既に何度も触れて中身まで見ている自分を思い起こした。いや、触っても開いても何ともないのは確認済みだ。


 彼女は手帳サイズの日記帳を袋の上から表面を観察するように眺め、黒目がちの視線を俺に寄越した。


「その手の依頼は今後もくるだろうよ。とはいえお人好しで生活苦の貧乏探偵には仕事を選ぶ余裕もないか」


「よぉくお解りで……」


 十五も下の少女に突きつけられた現実に俺は目を逸らした。


「さて。『くねくね』か。私たちの業界でも情報が少ない。“古いやつ”なら手の打ちようもあるが、これは新しすぎる」


 文月家――祓い屋の名門。その分家の彼女は、俺がオカルト絡みの案件を抱えた時、唯一頼れる存在だ。今回は畑違いの可能性を伝えられて内心少ししょげている。


「まぁ、目撃談が主だ。遠目には白くて、人間技とは思えないほどくねくねと動いているのが判るだけ。問題になるのは、“それが何かを理解したら”だ」


 一般的に知られているくねくねとはそういうものだ。中には誇張して“見たら終わり”と言われる場合もあるが、遠目に見るだけなら何ともないらしい。双眼鏡を覗き込み、それが何かを知った者は口を揃えて“分からない方が良い”と言う。


 ふうん、と彼女は日記をしげしげと眺めながら目を細めた。


「なるほど。で、この日記は『読むと理解してしまう』という類か? 理解するとどうなる?」


「……言葉を喪う」


 へぇ、と彼女は感嘆し、次いで面白がるように口角を上げた。変わった少女だと思う。それとも祓い屋とはそういうものなのか。


「俺も中身を確認した。別段、普通の日記だ。一ページだけ意味不明だがな」


「ははぁ、そのページを『理解してはいけない』のか」


 ふむ、と思案げな表情に変わった彼女は目を伏せ視線を逸らす。すぐにまた俺に戻すと、言葉を喪うことについて触れた。俺は答える。


「文字通りだ。読み書きも、会話も、何もできない。話しかけられたことさえ解っていない風で、音としか認識できないようだと依頼人は言っていた。だが誰もその日記のせいだとは思わない。何せ本人にももう説明できないからな」


「せっかく理解したのに説明する機会を奪われるとは皮肉なものだ」


 本人が説明できない以上はその『分かった』さえ日記のこととは言い切れない。ただ直前までその意味不明なページを調べ、考えていたことから可能性は高いだろう。


「くねくねを理解した登場人物が辿る結末も大方そんなものだ。喋れず、別人のようになる。

 くねくねは正体不明で色んな考察が溢れかえっちゃいるが――」


 はぁ、と俺は息を吐いた。


「創作と見るのが一般的だ」


「そりゃ、そう思われていた方が良い場合もあろうよ」


 彼女はハッと一笑に伏す。祓い屋の性質も同じようなものなのだろう。


「探偵、キミが件の駅にするりと入り込めるタチだから言っておくが、あまり簡単に関わるな。いつも言っているだろう。自分の手には負えないと言って依頼を拒むことも覚えた方が良い。

 いずれ本当に死ぬぞ」


「だが依頼を受けないとそれもそれで死ぬんだよ。それに危険なのは解ってる。だからこうして相談にきてるんだろ」


 生きていくためには仕事が必要だ。今日び探偵など活躍できるようなご時世ではない。そんなご時世があったかは不明だが、多くは人探し、素行調査、そうしたものだ。警察では禄に取り合ってもらえず、あるいは人員を割いてもらえず、依頼人が最後に縋るのが探偵だ。


 誰もがこの世の終わりみたいな顔で事務所の扉を叩く。詐欺かもしれないと疑いながら、それでも頼らざるを得ない。最後の望みをかける顔をされては断るにも断れない。


「俺だって普通の人探しがしたいよ。というか最初は普通の人探しだったんだがな……」


 探偵という職は自分に合っていた。小説みたいな派手さはないが、やりがいもあった。どこかで歯車が狂ったとすれば、この祓い屋の少女と出会った件の駅からだろう。


 オカルトの依頼は正直、気乗りはしない。割が良いから一応は引き受けるが右も左も判らないし彼女が言うようにいつか死ぬかもしれない。まぁ別に家族はいないから気楽なものだが、ここにくるのは、せめて何か調査中であると彼女に知ってもらいたいからなのかもしれない。


「ははぁ、人探しの皮をかぶってきた依頼か。本当に人間からの依頼だったのかい? 探偵、キミにそれを見抜く“目”はあるか?」


「……おいおい、やめてくれ。前提から覆そうとするな」


 揶揄うでもなく、真面目な調子で言われては背筋を恐怖が走っていく。そんなこと、考えもしなかった。大体そんなことをするメリットがどこにある。


「ネットを中心に広まったものだからこその創作の可能性、大いに結構。

 だが最近の怪異は“人に見つかることで形を得たもの”だ。もはや人智を超えている」


 日記をひらりひらりと振りながら、彼女は俺を真っ直ぐ見据える。祓い屋として相手にしてきた“古いやつ”とは手段も立ち回りも変わるのだろうか。


「良いかい、探偵。本来なら怪異は“ただそこにあるもの”であり、呪物は“人の手が加わるもの”なんだ。

 この日記は意図せず“呪物”になっている。誰かが呪おうとしたのではなく、怪異側の意図で“そうなった”と見るべきだ。だから――理解してはいけない。考えてはいけない」


 彼女は言い切る。ぞくり、と背に冷たいものが走った。そう強く言われるほど、頭の片隅で考えようとする自分がいる。いけない、と思いながらもなぜいけないのかを今度は考えようとしてしまう。


「探偵、キミは“見つける”側だ。探す側だ。怪異にとってこれほど都合の良い相手がいるか?」


 じ、と目を通して体の内側まで覗き込まれている気がした。胸の内側を冷たい手で撫でられたような感触に、ごくりと喉が無意識に鳴った。


 黒目がちの目は今まで幾度も異界を覗き、怪異を見てきただろう。祓い屋として多くの怪異を祓ってきた彼女がこれ以上はだめだ、と言う。


「ひとつの可能性も考えるな。進むな。それが探偵、キミと、キミが守るべき依頼人を救うことになる。断りづらいなら私を紹介してくれても構わないぞ。私からきっぱりその人探しは諦めろと言ってやろう」


「いや流石に……女子高生に自分の仕事を押し付けるわけにはいかねぇだろ」


 彼女の忠告はいつになく真剣だ。それだけこの日記はホンモノであり、触れてはならないものであり、開けてはならない蓋なのだろう。俺が諦めやすいように依頼人を守ることに繋がると言葉を選んだのは流石の一言に尽きる。


「何の変哲もない日記帳を呪物に変えるような怪異だ。早々に処分するのが良い。火にでも焚べてやれ。そうして尚残ることがあればその時はいよいよ私を紹介すると良い。そこまで方針を打ち立ててやれば後はどうしようが依頼人の勝手だ」


 彼女の大きな目に日記帳の白が反射するのが見えた。ただの日記帳に対して彼女がそこまで言うならば、聞いておいて損はないだろう。


「分かったよ。忠告ありがとな」


 素直にそう伝えたら、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向かれた。別にキミのためではない、と言うそれは今時もう流行らないだろうに。まぁ流行り廃りで言動を変えるような少女ではない。それが素なのだろう。


「これは返す。そのまま依頼人に返してやれ。処分に困るようならその時も私を頼れば良い」


「そうさせてもらうよ。時間を取らせて悪かったな」


「なに、稀有な友人の訪問とあれば時間くらい取るさ」


 友人、か。驚きはしたが顔には出さず、そのまま文月邸を後にした。


 女子高生の友達なんて口が裂けても言えないな……と思いながら。



* * *



 駅に向かう途中、草臥れたスーツのポケットでスマホが震えた。表示された番号に眉を顰める。言いづらい話題を口にしなければならないことを覚悟して、一度だけ深呼吸する。


「はい」


『あ、探偵さん! 進捗どうですか……!』


 依頼人だ。焦燥の滲んだ声に胸が痛む。


 引き受けた手前、成果がなかったどころか手を引くと言うのは心苦しかった。だが言わずにトンズラするわけにもいかない。そんな不誠実なことはできなかった。 


「事務所でお話しします。十七時頃、来ていただけますか」


『もちろんです!』


 電話を切り、俺は深く息を吐いた。


 そんな人物には見えなかったが激昂されるかもしれない。そういう時のために逃げ道を確保しておかなければ。


 事務所に戻り、簡単に整え、例の日記をテーブルに置いた。冷えた麦茶を用意しておく――かけられても火傷をしないように。


 時間になり、事務所の扉がノックされる。返事をすれば今回の依頼人が姿を現した。


 ……人間に見える。少なくとも、俺の目には。


 スーツが少し緩くなり、頬がこけた営業マン。妹と手がかりを一度に失ったのだから無理もない。


「この一週間、妹さんをこの街の中でひとまず探してみましたが」


 ソファにかけるよう促して俺は口を開く。依頼人は文脈から芳しくないと感じ取ったか、昏い顔をしてはいと相槌を打った。


「妹さんのご自宅、勤務先、通勤路、その辺りで見かけたという人はいませんでした。あまり周囲と積極的に関わるタイプではなかったようですね。よく行くスーパーでは顔を覚えられていたりするものですが、それもなく」


「あぁ、妹はよくネットで買い物をしていたようです。定期的に食材が届くんですよ。家にそういう段ボールが畳んでありました。次のゴミの日にでも出そうとしていたのか、纏められていて」


 道理で、と俺は頷く。最近は家から一歩も出なくても生活できる時代だ。それでもオフィスに出勤していたから外には出ているはずなのに、誰も彼女のことを朧げにしか覚えていない。


 こうも記憶に残らないものだろうか。そういう社会、と言えばそれまでだが、人ひとり消えても見つけにくく容易く消えやすい構造になったものだと思う。


「人間関係はかなり限定的。恋人とは仲も良く頻繁に会ってもいたんでしょうが……」


「肝心の恋人が入院していてはね。家族でもないから面会もできないし、面会してもあの様子では、と警察には言われましたよ。パニック状態で暴れているところを警察に通報され、そのまま措置入院となったようです」


 依頼人は疲れたように笑った。それに追い打ちをかけることを申し訳なく思いながらも俺は口を開く。


「正直に言って、お手上げです。お役に立てなくて申し訳ない」


「いえ……」


 たった一週間で匙を投げるようなことはないが、今回はそうもいかなかった。長引かせれば長引かせるだけ期待を抱かせることになる。


「日記はその、どうでしたか」


 おずおずといった様子で依頼人は尋ねる。妹の恋人が直前まで調べていた日記だ。しかも意味不明なページがあるときていれば、そのことも踏まえて調べていると思うだろう。そのために置いていった品だ。依頼人にはあのページの意味が判らなかった。俺にも、判らなかった。


「いえ、解りませんでした。知り合いにも見せてみたんですがね、結局のところ答えは分からず仕舞いです」


 手を引けと言われたとは答えず、事実の側面だけをなぞる。嘘ではない。そうですか、と依頼人は肩を落とした。


「……私もずっと、考えていたんですが判らなくて。どうして妹はあんなページを……」


 依頼人がテーブルの上の日記を取った。パラパラとページを捲り、最後の記入箇所を開く。見ない方が、と言ったけれど聞こえていないようだ。彼は開いたページにじっと視線を落とす。


 ネットを駆使して買い物をする彼女がネット上では残さなかった日々の記録は、小さな日記帳に収められている。誰かに読まれることが耐えられないから、と冒頭に書かれていたその想いに謝りながら踏み入った。読み進めた他愛もない日々は、失踪した彼女が紛れもないひとりの生きた女性であることが生々しく伝わってくる。見つけたいと思う近しい人の気持ちは理解できた。


 彼女が失踪したと思われるその頃、日記帳は突然空白になる。罫線が引かれたノートが突如、罫線さえ塗り潰されたように真っ白になるのだ。修正液やテープかと思ったけれども違う。紙の厚さも変わらず、綴じられたノートタイプの日記帳に新たなページを挿し込むことは不可能だ。


 乱丁、落丁の類。それが失踪のタイミングと偶然重なっただけ。誰もがそう見るだろう。ただ、そのページを調べて何かを“分かった”青年が言葉を喪い入院した事実は動かない。


「あぁ……どこに行ったんだ……」


 依頼人の悲痛な声が、時計の音くらいしかしない事務所に反響する。真っ白なページを見ている目が虚ろで、どこに焦点を合わせているか判らないように見えた。


 ――この日記は意図せず“呪物”になっている。誰かが呪おうとしたのではなく、怪異側の意図で“そうなった”と見るべきだ。


 日記は呪物に成り果てたのだろうか。だからこうして、真っ白に変異している? 


 ――くねくね日記?


 理解してはいけない、理解したら言葉を喪う。そうした性質から『くねくね』と結びつけたが、はて、と思う。最初にそう呼称したのは誰だったか。


「……探偵さん、探偵さんには、解りませんか……この日記が何なのか」


 依頼人は顔を両手に埋め、くぐもった声でそう尋ねた。解りません、と俺は答える。そう答えなければならない気がした。


「どうしてこのページだけ」


 依頼人が見ていた真っ白なページに目が吸い寄せられる。何も書かれていないページは、それとも、何もかもを消したのだろうか。すべてを。だから――。


「漂白したみたいに……真っ白なのか」


 思考と依頼人の疑問が重なる。考えるな、と頭の奥で祓い屋の忠告が警鐘を鳴らした。


 ――理解してはいけない。考えてはいけない。


 遂に依頼人は涙をこぼした。それを追って、白いページから無理矢理に視線を外す。


「……探偵さん。これは……何なんですか?

 妹は……あの子は……何に触れてしまったんでしょうか……!」


 声が、崩れ落ちる寸前の糸を震わせていた。


 俺は覚悟を決めた。


「……この日記に関わり続ければ、あなたも同じことになります」


 依頼人がのろのろと顔を上げる。


「妹さんの失踪理由も、恋人が倒れた理由も――この日記の“理解してはいけないページ”に触れたからです」


「……理解……?」


「ええ。文の意味を理解してしまったんです。

 理解が、発症条件なんです」


 言いながら、喉が乾いていく。


「あなたはページを見ただけで、意味を考えてはいない。

 だから助かっています。今なら、まだ引き返せる」


 依頼人の表情が恐怖に染まった。同じ恐怖に染まっている自覚を持ちながら、その目を覗き込む。


 俺は深呼吸し、祓い屋の忠告をそのまま伝えた。


「日記は……処分してください。

 燃やしても良い。どうにもならなければ、俺の知り合い――専門家に渡す」


 依頼人は力なく頷いた。だが次の瞬間、言いにくそうに口を開いた。


「あの……探偵さん。

 ……ひとつだけ、訊いても良いですか」


「どうぞ」


「妹が最後に書いたページ……燃やしたら、それがどんな内容だったかはもう二度と……判らないんですよね……?」


 永遠に喪われる――その現実は刃物のようだった。二度と知ることができない。燃やさず、処分もしなければ。安全に中身を知る方法があれば……。


 開かれたページに書かれた文字が視界の隅で踊った気がする。何も書かれてなどいないのに。それとも何か、書かれていたのだろうか? 読まれたくなかった彼女の生活。消えた彼女と、彼女の――文字。


 瞬間、音が遠ざかる。時計の音も、依頼人の泣き声も、自分の、呼吸さえ。


 知りたい。


 なぜいなクなったのか。


 なにを書いていたのか。


 なにをりかいしてしまったのか。


 うねうね、とかみがうごいているような、きがした。あぁ、これ、は。なんだ。もじ、だろうか。


 手をはなさネば、終わる。


「……しらない、ほう、がいい」


 静かに言った。視界の隅で踊る幻影を無視しながら、そっと目を閉じて。


「しり、たくも、ありません。

 知っては、いけない」


 ――進むな。


 祓い屋の声が引き留めた。目を閉じたまま軽く頭を振る。一瞬、頭がぼんやりした気がした。


 依頼人は顔を伏せ、ぽつりと呟いた。


「……やっぱり、そうなんですね」


 その声は、どこか残念そうに聞こえた。


「今日で終わりにしましょう。

 妹さんのことは……どうか、生きていると信じてやってください」


「……はい」


 依頼人は深く頭を下げ、帰っていった。自分ではできないからと、日記の処分は俺に任される。


 ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。



* * *



 事務所にひとり残り、麦茶を煽る。苦味も甘味も判らない。


 机の上には、日記。


 ビニール袋越しでも、例のページが“こちら側”へじっと滲み出してくるようで、背筋が冷えた。


 ……処分すべきだ。祓い屋に渡すか……火を使うのも怖い。


 考えるな。


 考えたら――。


 ぶる、とスマホが震えた。画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねた。


「はい」


『探偵。今すぐ、こちらに戻れ。

 ――日記を開いてはいないだろうな?』


「……なん――」


『良いから答えろ。理解していないか?』


「してねぇよ。ページを見てもいない」


 電話の向こうで、彼女が小さく息をついた。


『……なら間に合う。すぐくると良い。

 それから――窓のところ、見ないようにな』


 全身が鳥肌に包まれる。


 祓い屋には何が見えている? 俺は、ゆっくり視線を落とし、机に手を伸ばすとスマホと日記だけ掴んで立ち上がった。


 ……窓は開けていない。時計の音しかしないし、自分以外の息遣いもない。


 だが、確かに“何か”がいる気配がした。


『探偵。絶対に振り向くな。

 後ろにいるのは、日記を読んだ“誰か”ではない』


 喉が引き攣る。痛みを覚えるほどに。


『――キミに興味を持った“白いもの”だ』


 思わず息を呑む。脳裏に何かを考えそうになって慌てて追い払った。


『走れ。理解する前に』


 電話が切れた。


 俺は事務所を飛び出す。耳元では風を切る音がし、車道には多くの車が行き交っている。現実がここにあるのに、なぜだか。


 微かな、気配が追ってくる気がした。


 考えるな。


 理解するな。


 振り向くな。


 ただ走れ。



* * *


 

 文月邸の門が見えたところで、遂に膝が笑い、地面に倒れ込んだ。


「まだ話せるか、探偵」


 声の方を見ると、祓い屋の少女が玄関先で腕を組んで待っていた。背後には祓い師の装束を纏った従者たちが複数控えている。


「……擦りむいたかもしんねぇ」


「あはは! 減らず口が叩けるなら安心だとも!

 ……間一髪だった。あれは理解しかけた後なら、“見る”だけで引きずられる」


 彼女は俺の手から日記を奪い取るように受け取り、無言で従者に渡した。


「急ぎ処分する。キミは中へ」


「……助かった」


「当たり前だ。

 友人が“くねりかけた”となれば、私も動く」


 なんだ、くねりかけるって。どこか冗談のような調子のくせに、声色は冗談ではない。それがどんな状態か考えることさえ恐ろしかった。


 俺は苦笑し、立ち上がろうとして――足が震えて座り込んだ。


「探偵、今日は泊まれ。

 帰ったら、いるからな」


「……帰らねぇよ」


 情けなく笑う俺に、彼女はふっと目を細めた。


「よく……生きて帰ってきた。ありがとう」


 その一言で、張り詰めていたものがようやく解けた。




 その後、日記は文月家が処分し、依頼人には「燃やした」とだけ伝えた。


 妹の行方は分からない。恋人の容態も改善していない。


 そして――俺の事務所は、移転することにした。


 あの日以来、窓の外が時々揺れるからだ。


 白く、くねくねと。

 

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白紙の声 江藤 樹里 @Juli_Eto-

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