進学校として名高い「明陵第二」。

 その校舎は、計算され尽くした採光設計により、隅々まで白く、影の落ちる場所がない。

 遼にとって、この硝子の箱は呼吸器官を焦がす無酸素室だった。

 偏差値という数値が酸素濃度を決め、肺活量の少ない者は、床に這いつくばって僅かな澱んだ空気を啜るしかない。

 教壇に立つ男が黒板を叩く。


「深みに落ちていく者は、二度と浮上できない。肝に銘じろ。」


 チョークの粉が舞う。それは遼の肺に蓄積し、重りとなって彼を地面へ縫い付けていく。

 遼は、うまく呼吸ができなかった。

 愛想笑いは引きつり、競争のレールからは足を踏み外す。常に嫌気性生物の様に振る舞っていた。



 ◇



 休み時間。遼の机の周りには、常に数人の男子生徒が集まっていた。

 彼らは暴力を振るうわけではない。ただ、実験動物の反応を楽しむ研究者のような目で、遼を観察している。


「おい、遼。この模試のD判定、どういう計算ミスだ?」


 リーダー格の男が、遼の答案用紙を指先で弾く。


「クラス平均を下げるっていうのは、全体の『品質』を下げるってことなんだよ。わかるか? お前は俺たちの資産価値を毀損している」


 周囲から乾いた笑いが漏れる。


「バグは修正しないとな」


 男は答案用紙を丁寧に、幾何学的な正確さで細かく引き裂き始めた。

 紙片が雪のように遼の机に降り注ぐ。

 遼はそれを黙って見つめることしかできない。反論という出力回路は、とうの昔に焼き切れていた。

 彼らにとって遼はクラスメートではない。排除されるべきエラーコードであり、統計上のノイズに過ぎないのだ。

 その無機質な悪意が、物理的な暴力よりも深く、遼の精神構造を侵食していた。



 ◇



 灯もまた、別の教室で息を潜めていた。

 彼女の生存戦略は「擬態」だった。

 壁の色に溶け込み、誰の視界にも入らない透明な存在として、嵐が過ぎ去るのを待つ。

 生きてはいない。ただ、死んでいないだけの標本のように、彼女は静止していた。

 授業中、灯はよく息を止める実験を繰り返していた。

 肺の中の酸素を全て吐き出し、横隔膜を固定する。

 血中の二酸化炭素濃度が上昇し、脳がアラートを鳴らし始める。

 視界の端がチカチカと明滅し、意識の解像度が落ちていく感覚。

 その、死に限りなく近づく「仮死状態」の数十秒間だけが、彼女にとって唯一の安らぎだった。


(擬態は疲れる)


 クラスメイトの会話に合わせて相槌を打ちながら、灯は思う。

 私の精神構造は、この世界の重力に耐えうる強度を持っていない。

 毎朝、目覚めるたびに絶望する。

 今日もまた、重たい肉体を着込んで、意味のない代謝を繰り返さなければならないのか、と。

 彼女の希死念慮は、突発的なものではない。

 長い時間をかけて堆積した地層のように、あるいは静かに進行する金属疲労のように、彼女の芯を蝕んでいた。

 いつか、ポッキリと折れるその日を、彼女は心待ちにしていた。



 ◇



 ある昼下がり。

 遼が突き飛ばされ、机上の弁当箱が宙を舞う。

 自由落下には程遠い、プラスチックが床に叩きつけられる乾いた音。散らばる米粒と色鮮やかなおかずが、無機質な床を汚すシミのように見えた。


「掃除しとけよ、汚ねえな」


 嘲笑は言葉というより、不快な周波数のノイズだった。

 その光景を、廊下を通りがかった灯が見ていた。

 彼女は足を止めない。

 視線を合わせれば、次は自分が標的になる。

 透明人間であること。それが彼女のルール。

 だが、床に散らばった赤や黄色の惨めな色彩を見た瞬間、灯の中でピンと張っていた極細の糸が、音もなく切れた。



 ◇



 その場を逃げ出した灯は、トイレに駆け込んだ。

 嘔吐感はなかった。ただ、自身の存在が汚らわしいノイズのように感じられ、冷水を顔に叩きつけた。

 鏡の中の自分と目が合う。

 そこに映っているのは、精巧に作られた有機質のマスクだ。

 笑う機能を搭載し、空気を読むプログラムが走り、周囲の景色に合わせて色を変える、中身のない外殻。

 濡れた前髪の隙間から覗く瞳は、ひどく虚ろで、性別すら曖昧な「部品」に見えた。


「……消えたい」


 その言葉は、悲しみというより、物理的な現象への憧れだった。

 蛇口から流れ落ちる水を見つめる。

 もし自分が、砂糖や塩のような結晶構造だったなら。

 この水流に身を任せ、分子レベルまで分解され、透明な水溶液となって排水溝へ流れ去ることができるのに。

 なぜ、人間はこんなにも強固な細胞膜で、外界と隔てられているのだろう。

 灯は濡れた手で、自分の首筋に触れる。


 トク、トク、トク。


 頸動脈が、不快なリズムで脈打っている。

 このポンプが動いている限り、私は「私」という固形物を維持し続けなければならない。

 それは灯にとって、終わりのない徒刑に等しかった。



 ◇



 放課後、西日が長く伸びる図書室。

 遼は、背の高い書架に隠れるように、古びた鳥の図鑑を開いていた。

 背中の骨格構造。翼を持たぬ生物が、なぜ地上に縛り付けられているのか。その理屈を目で追っていた。

 隣の棚に手を伸ばした灯が、そのページを見て足を止める。

 視線が絡む。言葉はいらなかった。

 互いの瞳の奥に、同じ「重り」が見えたからだ。


「……ねぇ」


 灯の声は、埃が舞うように微かだった。


「カラスの先祖は、純白だったって知ってる?」

 灯は視線を図鑑から漆黒の制服へ移し、


「世界に嘘をついた罰として、全身を汚されたんだって。あの、重くて、汚い、黒色に」


 言葉が出ない。灯は窓の外、遥か彼方にある雲をじっと見つめる。


「どうして私たちは、こんなに体が重いんだろうね」


 遼はページを閉じる。


「重力に、適応しすぎたからだ」


 灯は窓の外、遥か彼方にある雲をじっと見つめて言った。


「ここから逃げたいんじゃないの。ただ、この引力から自由になりたいだけ」


 遼は息を呑んだ。

 その言葉は、彼の喉元で詰まっていた塊そのものだったからだ。


「地面を歩くのが苦しいなら」


 灯は、まるで明日の天気を話すように続けた。


「空に向かって落ちればいい。そうすれば、一瞬で重さが消える」


 それは心中という言葉すら使わない、ただの物理現象への渇望だった。

 恋も友情も、ここにはない。

 ただ、同じ窒息感を共有する共犯者として、二人は隣に座った。



 ◇



 それからの数日間、二人は放課後になると理科準備室の裏手にある非常階段に座り込んだ。

 そこは監視カメラの死角であり、唯一、彼らが酸素を取り込めるエアポケットだった。


「見て、あそこの群れ」


 灯が指差す先、校庭では運動部の生徒たちが規則正しく列をなし、声を張り上げている。


「ああやって同じ動作、同じ発声を繰り返すことで、個体差を消しているんだね」


 遼は冷めた目で同意する。


「集団帰属意識によるドーパミンの分泌。生存本能の一種だ」


「気持ち悪い。まるでプログラムされたアリの行列」


 二人は、世界のあらゆる事象を、教科書的な定義に当てはめて解釈した。

 そうして事象を言語化し、解剖することでしか、この現実の気持ち悪さに耐えられなかったからだ。

 会話が増えるにつれ、二人の間には奇妙な連帯感が生まれた。

 それは友情や恋愛といった甘美な化学反応ではない。

 ただ、同じ波長の絶望を持つ者同士が干渉し合い、わずかに振幅を弱め合うような、静かな共鳴現象だった。

 ある夕暮れ、灯がポツリと言った。


「ねえ。私たちが消えても、質量保存の法則的には、世界は何ひとつ変わらないんだよね」


「ああ。物質が循環するだけだ」


「……良かった。私がいた痕跡なんて、1ミリグラムも残したくないから」


 その言葉が、最終確認の合図だった。

 仮説は立証された。この世界に、彼らの居場所という解は存在しない。

 ならば、実験を終了するしかない。



 ◇



 数日後、二人は屋上のフェンスの前に立った。

 錆びた金網は、世界を分断する格子のようだった。


「誰かと手をつなぐのって、怖くない?」


 灯が自身の掌を見つめる。

 遼は首を横に振った。


「一人だとすぐに落ちる。でも二人なら、風の抵抗が増えるかもしれない」


「変な理屈」


 灯が微かに笑う。その笑顔は、初めて見る人間らしい表情だった。

 二人は指を絡める。

 脈打つ血管、湿った皮膚の感触。

 それは驚くほど生々しい「肉塊」の温かさで、だからこそ、今すぐに捨て去るべき重りだと確信できた。



 ◇



 金網の向こう側へ足をかける。

 幅わずか数十センチのコンクリートの縁。

 その下には、約15メートルの空間と、硬質な地面が広がっている。


「……っ」


 灯の指が、ビクリと震えた。

 彼女の視線が足元の虚空に吸い込まれ、顔色が蒼白に変わる。

 遼もまた、自身の身体に異変を感じていた。

 心臓が警鐘を鳴らすように激しく脈打ち、指先が冷たくなる。膝が笑う。

 脳は大脳皮質で死を望んでいるのに、脳幹が、脊髄が、全細胞が「生きろ」と叫び声を上げている。

 ホメオスタシス(恒常性維持機能)。

 生命が持つ、あまりに強固で、疎ましい安全装置。


「怖い?」


 遼が問うと、灯は唇を噛み締め、震える声で答えた。


「……身体が、勝手に拒否反応を起こしてる。嫌だね、こんな時まで、私たちは生物のルールに縛られてる」


「大丈夫だ」


 遼は、灯の手を痛いほど強く握りしめた。

 その痛みで、生物的な恐怖を上書きするために。


「この恐怖は、ただの電気信号だ。アドレナリンの過剰分泌によるエラーに過ぎない」


「……うん。そうだね。ただのエラーだね」


 灯が深く息を吸い込む。

 震えは止まらない。それでも、彼女の瞳から迷いは消えていた。

 理性が本能を凌駕する。

 その瞬間の彼らは、どんな生物よりも崇高で、そして哀れだった。


「行こう。システムを強制終了させるんだ」



 ◇



 夏の熱風が、制服のシャツを孕ませた。


「ねぇ、遼くん」


「なに」


「私たち、やっと息ができるね」


「ああ。行こう」


 二人は地面を蹴った。

 いや、空へ向かって踏み出した。

 内臓が浮き上がる浮遊感。

 耳元で風が咆哮する。

 加速する視界の中で、校舎の白い壁が高速で遠ざかっていく。


(飛んでいる)


 遼は確信した。

 背中から翼が生えたわけではない。

 ただ、自分たちを縛り付けていた全ての鎖が千切れ、完全な自由の中にいる。

 灯の手を強く握り返す。彼女も握り返してくる。

 この鳥籠からの解放こそが、自分たちに許された唯一の飛翔だった。



 ◇



 鈍く、重い衝撃音が、校庭の静寂を破った。

 それは飛翔の終わりではなく、単なる物理法則の帰結だった。

 運動エネルギーは一瞬で破壊エネルギーへと変換され、有機的な結合を無慈悲に引き剥がす。

 コンクリートの上に広がったのは、かつて少年だった一つの有機物の塊。

 赤黒い液体が、白いタイルを不規則に汚していく。

 その不規則な放射状の模様は、どれほど好意的に解釈しても、翼の形には見えなかった。

 キーンコーン、カーンコーン。

 無慈悲に予鈴が鳴り響く。

 校舎の窓という窓から、無数の顔が覗き込んだ。


「うわ、グロ」


 誰かがスマホを向け、画像を保存すると、すぐに興味を失ってポケットにしまう。


「最悪。あそこ、俺たちの掃除担当場所じゃん」


 男子生徒が露骨に顔をしかめ、隣の友人に同意を求める。


「マジ迷惑。午後の体育、中止になんのかな」


 教師たちが現場へ駆け寄るが、その足取りには焦燥よりも困惑が滲んでいた。


「おい、ブルーシートを持ってこい! 生徒に見せるな!」


 学年主任が怒鳴り声を上げる。

 彼らが隠そうとしているのは、無残な遺体ではない。

 進学校としてのブランドに付く傷と、警察への説明、保護者会への対応といった、これから降りかかる膨大な事務コストだった。

 彼が「飛んだ」空には、黒い影が旋回している。

 それは彼の魂を見送るものではない。

 眼下に広がった新鮮なエサを嗅ぎつけ、ついばむ機会を虎視眈々と狙う、腹を空かせたカラスたちだった。

 カラスは知っている。

 飛ぼうとした愚かな白昼夢の代償が、ただのタンパク質への還元であることを。

 二人が魂を焼いて描いた一瞬の軌跡は、誰の心にも波紋を広げることはなかった。

 夏の執拗な陽射しが、アスファルトにへばりついた「それ」を、ただの乾いたシミへと変えていく。

 それは悲劇の跡などではなく、明日の朝にはホースの水で無造作に洗い流される、忌々しい路上の汚れでしかなかった。

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