あいびょう

みにぱぷる

あいびょう

 私があの公園に行くようになって、かれこれ数ヶ月が経過していたであろうか。締切が迫り、もう二度と筆は握らないと誓い、家を出たものの行く先がなく、気がつけば家から五キロも離れたこの公園に私はいた。ただ、そこはとても居心地が良く、鳥の鳴き声や子供たちがボールを蹴る音、散歩する犬の喧嘩さえも、私の耳を癒し、全身に積もり積もった疲れをスッキリ取ってくれた。

 そんなわけで、私は毎週その公園に通うのが日常となっていた。毎度、同じ子供たちがボール遊びをして、同じ犬が喧嘩をしている。何ら変化ない様相。ただ、変化なくあり続けるその公園はまるで私を迎えてくれるような、そんな温かさをどこかに含んでいた。

 

 その猫が現れたのは先週からだった。何とか新作書き下ろしを仕上げ、久々に実家に帰っていたのだが、親元で甘い汁をたっぷり吸って、気分よく東京に帰って来た私を、やはりその公園は相変わらずの様子で迎えてくれた。しかし、一点だけ変わったところがあった。それがその猫である。

 いつもくつろいでいるベンチで、タバコを蒸かしながら今晩は外食をしようかななどと他愛無い思索を巡らしていた矢先、私の座っているベンチの隣、朽ちていて人が座っているところを見たことないそのベンチに、猫がちょこんと行儀良く乗っかっているのが視界に入った。

 とても愛らしい様子の黒猫で、私と目が合っても恐れて逃げていく様子はなく、私のことをじっと見つめてくる。

 その猫はとても可愛い猫ではあるのだが、そもそも私はあまり動物に興味がなく、言葉も通じないし、何を考えているかわからないしで、寧ろ得体の知れないものだと思っていた。だから、私はその猫に近寄ってみたりはせず、無視して新しいタバコを取り出して蒸かした。

 今日はやっぱりコンビニで弁当を買おうか、と私が自分の金蔵を気にし始めていると、いつもサッカーをしている少年たちがその猫に気付き、足音を顰めながら一歩ずつ距離を詰めていた。

 猫は気づいている様子だったが、まるで逃げる様子はない。

 少年のうちの一人が水が入ったペットボトルの蓋を開けているのが目に入った。水をかけてイタズラをしようとしているのだろうか。それに気付いても尚、私はその猫に愛着が湧かなかったので、止めようとも、守ろうともせず、なりゆきをじっと見守っていた。

 猫は結局逃げ出さず、少年たちは猫の目の前までたどり着いた。そして、ペットボトルを握っていた少年はきゃっきゃと笑い、それを振り上げ、猫にかけようとした。

 途端、ここまで微動だにしなかった猫はひょいと飛び上がり、ペットボトルを握る少年の手を引っ掻いた。少年はいってぇと小さく悲鳴を漏らし、ペットボトルを取り落とす。ペットボトルは中身を撒き散らしながら、草むらに落ちた。

 猫は素早くその場を立ち去り、遊具の間を駆け、どこか遠くまで走り去ってしまった。少年たちは悪態をつきながらつまらなさそうに退散していく。私はそれを見て何とも理解し難い気味の悪い感覚に襲われた。

 そもそも、あの猫はなぜぎりぎりまで逃げ出さなかったのだろうか。もっと早く逃げておけばよかったのに。まさか、あの少年たちに可愛がってもらえるのを期待したのだろうか。だとすれば、読み外れもいいところだ。猫にしては人間への警戒心がかなり低い。案外間抜けで鈍臭い猫なのかもしれない。それでいて、身のこなしは優雅で素早い。

 その時だろうか。私は初めて動物に愛着が湧いた。


 それから数週間、その猫はいつも私の座るベンチの隣に現れた。何かするわけでもなく、でも退屈そうではなく、いつも満足げに。

 時折、発する、か細い鳴き声は、どこか哀愁を感じさせ、私はその猫の境遇を勝手に想像しながら、酒を飲み干し、タバコを捨てる。

 野良猫なのだろうか。飼い猫なのだろうか。あの時の少年たちに見せた警戒心のなさは人間に慣れている証拠でもある。なら、この猫は飼い猫なのだろう。しかし、その美しくも痩せこけた様子は、十分に餌が与えられていないからのようにも見える。

 なるほど、この猫は捨て猫なのかもしれない。

 ひどいことをする人がいるものだと私はため息をつきつつ、同情するような眼差しで見つめる。黒猫は虚ろな目で私を見つめ返してくる。真っ黒で、取り憑かれたように薄暗い目。だが、なんだか明るく優雅な印象を抱いてしまうのは、多分目元が笑っているように見えるからだろう。


 撫でてみたい。

 そう思ったのは黒猫が現れて、一ヶ月か二ヶ月が経った時だった。理屈では説明できない感覚に囚われて、私は衝動的にその猫に触れてみたくなった。猫の認知機能がどの程度のものなのかは私には全くわからないが、流石に猫も私の存在は認知していて、私が敵対する相手ではないと理解しているはずだ。もし、向こうが無警戒で私を受け入れてくれたなら、飼ってみたっていい。動物を飼ったことは人生で一度もないし、尤も私は動物に興味がなかった。だけど、この黒猫なら。

 私は缶ビールをぐいっと飲み干し、ベンチの脇にあったゴミ箱に投げ捨てた。ゴミ箱の縁に当たって、缶ビールはゴミ箱の外に落下する。拾って入れ直すのは厄介で、いや、今はそれどころではなかったので、私は無視してその猫に近づく。

 猫は逃げる仕草を見せない。

 一歩ずつ私は距離を詰めていく。逃げられるだろうか、逃げられないだろうか。胸を高鳴らせる駆け引きがそこにはあった。あと一歩行ったら逃げられてしまうかもしれない。でももっと近づかないと。

「あぁ」

 猫は私がその隣に腰掛けても逃げ出さず、私は声を漏らした。それに応じるように猫が鳴く。

「大丈夫だよ、敵じゃないんだ」

 そう囁きながらゆっくり猫の額に手を伸ばす。猫は私のことを推し量るようにじっと見つめてくる。私も精一杯の誠意を持ってその目を見つめる。

 指先が猫の毛先に触れ、そして私の手が額にたどり着いた。私は優しく丁寧に撫でてやる。猫は気持ちよさそうに目を細めて鳴き声を漏らす。

「君はどこからきたんだ。飼い主はいるのか」

 返事はない。

「捨てられたのか」

 返事はない。

 ただ、じっと私の方を見つめてくる。

「そんな目で見つめられたら、助けないわけにはいかないだろう」

 小賢しい奴め、と心の中で呟きながら私は撫でる手を止める。

 なぜ私はこんな捨て猫を愛でているのだろうか。動物に対して興味ないのが私ではなかったか。この猫は巧妙に私の心に忍び込んできているのだろう。遂には私の口から

「うちで飼おうか」

 などという言葉が出たのだから私自身びっくりである。だが、猫はそれを拒否するようにベンチから飛び降り、一度私の方をじっと見つめてから颯爽と走り去ってしまった。私は罰が悪くなり、苦笑いしてから公園を去った。


 それからも猫は毎週同じ曜日にそこにいた。私は適当に餌をあげたり、撫でてやったりしながら、徐々に猫との仲を深めていった。側から見たら変人中年男性なのだろう。毎週公園に姿を現しては猫にぶつぶつ話しかけながら餌をあげる、見椎らしい身なりの男性。近所の小学生の間で悪い噂になっていてもおかしくない。

 ただ、そんな周りの目は気にせず私はその猫との時間を楽しんだ。その時間が終われば、すぐに仕事や先の見えない未来からの漆黒の不安が私を喰らい始める。逆に言えば、猫と触れ合っているその時間は、混沌とした時間の渦に一箇所だけ差す直射光のような、そんな幻想的なもののように私には感じられた。

 この猫を飼うことはできなくてもいいから、私はこの日々を続けたかった。


 そんな矢先、私は激しい下痢、発熱、そして嘔吐に数日間悩まされた。思い当たる理由もなく、仕方がないので懇意にしている旧友の元に向かった。

「はあ、来ると思っていたよ」

 彼は診察室に私が現れた途端、そう呟いた。

「お見通しかぁ。なら、症状は言わなくてもいいか」

 私は少しカッとなってそう言った。

 彼は大学時代に出会った友人で、今も交流がある数少ない知人の一人だ。

 だらしない様子だが、正真正銘の医者であり、私はとても頼りにしている。

「まあそう怒らないでくれ。症状はなんだ」

 彼のヘラヘラとした様子がとても腹立たしく、私はむすっとしたまま

「嘔吐と下痢、と発熱。腹痛も」

 と乱暴に列挙した。彼はそれを聞いてははんと声を上げて

「やっぱりサルモネラだな」

 とニヤリと笑った。

「なんだそれは」

 言い回しがやはり無性に腹立たしい。私は彼を軽く睨みつける。

「食中毒の原因としてとても有名な細菌で、様々な動物が持っているが、基本的にこいつが人間に感染するのは大体この動物経由だ」

 彼はそう言って、まるで前もって用意していたかのように手際よく図鑑を開き、一匹の動物を指し示した。私は彼が何を言っているのかさっぱりわからない。彼は私を馬鹿にしているのだろうか。

「基本は糞から感染したりするんだがね、お前は極端に触れ合っていたからな、野生の個体と。糞以外からの感染なんだろうな。安心しろ。一週間ぐらいで自然に治る。命に関わるものじゃない」

 何を言っているのだろうか。彼はずっと私に何を説明しているのだろう。私を揶揄っているのだろうか。

「実は一回俺はお前が公園にいるのを見かけていてね。本当に申し訳ないが、異様な光景だったから後で理由を聞こうと写真を撮っていたんだ」

 彼はスマートフォンを取り出し、一枚の画像を表示する。

「それがどうしたんだよ。サルモネラと何が関係あるんだ」

 彼が見せたのは、私が猫に餌をやっている写真だった。

「これが何よりの証拠だろう。お前がベタベタ触ったせいでサルモネラに感染したんだ」

「確かに野生の猫に餌を与えるのは良い行動だったとは言えない。野生の猫に餌をやって話しかけているのが不可解で不気味な行動に映るのは仕方がないかもしれない。だが、この猫はなんら関係ないはずだ」

 私は舌を捲し立てて反論した。彼は目を丸くして私の方を見つめていたが、やがて憐れむような表情で、落ち着いた調子で言った。

 ガァアアァアガァ。

「サルモネラは鳥がもたらす細菌だ。お前が餌を与えて撫でているのはカラスだ、猫じゃない」

 その言葉を聞いた途端、意識が暗転し視界がぼんやりと靄がかり始めた。

 そして不意にどこからか咆哮が聞こえてきて、同時に私の目の前がゆっくりと歪み始め、そして私は吐いた。多分、私はこのまま吐き続けるのだと思う。

 漆黒の怪鳥が吐き溜めに姿を現すまで。

 

 

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あいびょう みにぱぷる @mistery-ramune

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