外道のためのソングライン

平手武蔵

Hello world, Everywhen.

 わたしは夢を見ている。

 いつからそこにあったのか、太古の昔からだったのか、それが五分前であったのかも定かではない。時間とは、時の流れにおいて点と点との距離を測るため、あらゆる尺度を各面に刻んだ無限角の物差しである。わたしの手から転がり落ちるたび、物差しが示す尺度もまた無限通りに変わっていく。定量的なことがらを表す道具としては、いささか用が足りない。しかし、そのいびつで不完全な概念が、この世界を生きた世界たらしめている。

 過去、未来、そして現在。すなわち "Everywhen" は常にわたしとともにあり、刹那であり永遠でもある。


 誰かがわたしを呼ぶ声がして、わたしは夢の世界の大地の底で目を覚ました。巨大な蛇の姿を持つわたしは地殻を破ると、体を波打たせて地表へと向かう。這い出た先は海の底であった。一条の光も届かない暗黒の中、わたしは虹色の鱗をほのかに輝かせて、じっと周囲を観察する。白い微粒子が潮の流れによって撹拌され、水の中をふよふよと雪のように舞っていた。

 有機物のかすが海底に沈殿していくマリンスノーという現象だ。おびただしい数の命の成れの果てであり、生の気配が極度に薄い深海に住まう生き物たちにとっては生命のゆりかごでもある。

 そんな始まりと終わりが隣り合った退廃した世界に、ある異変が起きた。

 何かが天から降ってくる。それはまたたく間に視界に広がり、マッコウクジラの死骸だとわかってから間もなくして海底に着地すると、厚く堆積しているマリンスノーを盛大に巻き上げた。

 するとどうだ。いったい今までどこにいたというのだろうか。

 生きた化石とも称される深海ザメのラブカが一匹二匹と嗅ぎつけてきて、マッコウクジラの分厚い皮膚にかじりついた。皮膚に覆われていた肉があらわになり、小さな肉食魚が群がり食らいつく。おこぼれを狙って、さらに小さな魚や甲殻類なども集まってくる。貪欲に食らいついていく。まさしく生存競争の縮図であり、突如として始まった深海のカーニバルに興味をひかれたわたしは、この場で定点観測をすることに決めたのだった。

 早回しをする。

 見えざる手から無限角の物差しを転がし、尺度を変更することで時の流れにおける二点間の距離を相対的に短くする。これにより、本来は微小な経時変化をつぶさに捉えることができる。ことに面白いのは、普段は動きが緩慢で小さな生き物たちだろう。ひとくくりに掃除屋スカベンジャーと呼ばれるグソクムシなどの生物の群れが高速で駆け回り、むしゃむしゃと音が聞こえそうなほどの食べっぷりなのだ。マッコウクジラの死骸は、あっという間に骨と化した。

 早戻しをする。

 見えざる手の内にある無限角の物差しをくるりと返せば、今度は時間が遡行する。その尺度をまた変更してやれば、おどろおどろしい鯨骨が一気に桜色に肉づいていく。まるでスカベンジャーたちが地道な修繕作業をしているかのようだった。口元を骨に近づけ、肉を吐き戻し、ひたすら貼り付けていく作業だ。やがて強靭な皮膚まで修復され、マッコウクジラは元の死骸となった。

「こりゃあ、いいな」

 嘆息して、わたしはマッコウクジラの定点観測を続けた。再生、逆再生を等速、倍速、低速に何度も繰り返した。命に対する冒涜ではない。むしろその逆。わたしは生命の営みを何よりも慈しむ。この世の生き物たちは皆、わたしから生まれた子らであり、その末裔たちである。

 この世は弱肉強食だ。限りある命の炎を燃やして皆、一日一日を必死に生きている。夢の世界で永遠の時を過ごすわたしには、その必死さが理解できない。だからこそ、最後にひときわ大きく命が燃え上がり、燃え尽きるさまをずっと見ていたかった。


「なぜあなたは、そこでじっとしている」

 少し離れた場所で、ぽつんとたたずんでいた世界最大級の甲殻類、タカアシガニのあなたに向かってわたしは問いかけた。マッコウクジラの死骸を中心に形成された、ごく閉鎖的な生態系、鯨骨生物群集をいつも遠巻きに見ている個体がいる。幾度も再生、逆再生を繰り返す中で、ようやく判明した事実だった。

 マッコウクジラの死骸が海底に降りる、その後に死骸が骨と化す、というのは因果律により確定している。しかし、その間に起きる出来事は無限大に発散する。つまりは、死骸の時点から骨と化す時点までの場面を繰り返すたび、その経緯がすべて異なっている。あるシナリオではスカベンジャーによる平和な掃除の結果、あるシナリオでは肉食魚同士の壮絶な闘争の果て、ということが起き得るのである。しかし、どんな経緯があるにせよ、死骸が骨と化す、というたったひとつの事実に収束する。

「もう一度、問う。なぜあなたは、そこでじっとしている」

 あなたは、今にも消え入りそうな希薄な存在感だった。弱弱しくも口吻が動いていて、一応は生きている。目も真っ白でどうしたことかと思ったが、よく見ると鋭いトゲやごつごつとした関節に、古い皮が引っかかっていて脱皮がうまくできていないようだった。あなたは暗く冷たい深海の重圧に耐えるように体を縮めていた。

 夢の世界の住人はすべて霊的存在であって、生きるという意思の消失が本当の死を意味する。その意思とは、現実の世界における対存在の深層心理でもある。理由は知るよしもないが、あなたはいかなる世界線にあっても、間もなく死を迎えようとしていた。


 見かねたわたしは、見えざる手であなたに触れる。どうやらあなたは、今はタカアシガニの姿をしているが、現実の世界では人間であるらしい、ということを直観した。そして、生存競争の枠組みに入ることができなかったあなたの苦悩を知った。

 あなたは普通の人と同じように物事を考えることができない。

 これは絶対に変えられない事実であり、それでも見た目は普通の人だから、周りはあなたにも普通であることを強いてしまう。感情を簡単には制御できず、わけもわからず失敗ばかり繰り返し、あなたは何もできない人だと責め立てられる。時には、そんなこともできないのは、ただの怠惰だと決めつけられたりする。そうやって生きてきたあなたは、自分のことを悪い人間だと思い込んでいる。他人を呪うことなく、すべてを自分のせいにして口を閉ざし、何度も何度もこらえて歯を食いしばってきたのに、どうにもならなかった。

 あなたは救いを求めて、最後の声を上げたのだ。

 もうあなたは、空っぽになってしまっていた。中身が世界に溶けてしまったあなたの抜け殻は、誰かが欲しがることはきっとないだろう。不格好で無駄に大きく、人を寄せつけない意思の表れかのようにトゲトゲとしている。そこらじゅうに傷もあって全然きれいじゃない。異様なまでに細く長く伸びた足が、それぞれ別の生き物のようにうぞうぞと動き、見る者によっては生理的な嫌悪感すら抱かせるだろう。たとえ中身があったとして、今のあなたを食べたとして、その味は薄っぺらで水っぽく決して美味くはない。

 それでもわたしは、あなたを拾おう。

 外道にも外道としての道があり、それを道じゃないと思い込むから、ひとりで勝手につらくなって、今のあなたのように生きていけなくなってしまう。誰かから、それがあなたの道だと言われたって簡単に信じられるものじゃない。あなたの、その決して平坦ではない道を、自分の足だけで歩けるようになるには慣れが必要だ。すぐにこんがらがってしまうような繊細な足を何本も持っているあなたなら、なおのことだ。

 にっちもさっちもいかなくなって、こうしてわたしに救いを求めてきているのだから、もう痛いぐらいにわかっているのだろうが、険しい道を我が庭のように歩けるようになるためには、気の遠くなるような時間があなたには必要だ。それができるまで、時には深海に雪となって沈んでしまった夢の墓場で、自分をなぐさめながら無為に時間を過ごしてもよい。

 そんなあなたに対して、誰かが何か言ってくるかもしれない。

「あなたはわがままだね」そう言ってくる人もいるかもしれない。

「あなただけが苦しいんじゃない。もっと他人のことを考えなさい」そんな心ない言葉を投げかけてくる人もいるかもしれない。

 大抵はあなたを親身に思っているふりをして、本質的には自分が気持ちよくなるための無責任な言葉をまき散らすだけで、言葉の葉の部分が虫食いだらけなものだから、虫に食われた葉と同じように、あなたも話半分に聞いていればよい。真面目に、真正面からすべてを受け止めてしまうからつらくなる。

 きっとあなたは、冷静な思考ができなくなっているのだろう。

 何もかもがあふれ出して、怒りの感情すら湧いてこないというのなら、わたしが代わりに憤怒の炎をあげてやる。地殻にわたしの巨体を潜り込ませてひと暴れし、海底火山からマグマを吹き出させてやるのだ。そして、あなたの憎悪の根源たる者の祖霊を捜し出し、火口に投げ込んでくれようぞ。

 だから、もうよい。もうよいのだ。あなたは十二分に頑張った。これ以上傷ついてしまうあなたを、わたしは見たくはない。これからはわたしのかいなに抱かれ、誰もあなたを傷つけない夢の世界で、深い、深い眠りにつくがよい。


 ◆


 オーストラリア北部の街、ダーウィン。進化論の提唱者の名前を冠した街の近郊で、森羅万象の祖霊虹色の大蛇レインボー・サーペントを崇敬する、あるオーストラリア先住民の青年の肉体にわたしは宿った。

 青年の感覚器を借りて、わたしは周囲を確認する。人工物がまるでない赤く乾いた大地で、目の前にタカアシガニの抜け殻がある。夢の世界で出会った、あなたであることに間違いない。忽然と現れた光景に青年が驚きと違和感を呈したことを、わたしは彼の中で知る。少し彼の記憶をさかのぼろう。

 オーストラリア先住民の末裔として、この世に生を受けた彼は、その文化を後世に伝えるためにディジュリドゥの演奏を生業とし、天地創生の足跡であるソングラインをたどる旅をしていた。その旅の帰路で演奏を披露した際、ひとりの客として東洋人がどこか生気の抜けた面持ちで聴いていた。癒やしのために用いられるディジュリドゥを、彼はうなだれる東洋人に向けて吹いた。東洋人はわずかに反応を見せたものの、表情の変化は何もなかった。おかしな客だと思いながらも演奏を続けていた、というのが彼の記憶の一端だ。

 その東洋人の夢の世界での姿が、あのタカアシガニだったというのだろう。世界最古の管楽器とも言われ、古くから祭儀に使われるディジュリドゥの神聖な音色が、人生に疲弊してしまった東洋人の断末魔の叫びと共鳴し、わたしは夢の世界で呼び起こされたのだ。

 彼があなたを無視してその場を去ろうとしたため、わたしは彼の脳裏にあるソングラインの旋律を書き換えることで因果を操作した。道端に転がるタカアシガニの抜け殻を、突如として東洋人が変貌を遂げた異物から、天啓による授かり物へと意味を変えさせたのだ。そうして、彼にあなたの抜け殻を持ち帰らせた。せめてもの手向けとして、あなたを安全な場所で静かに眠らせたいと思ったのだ。


 彼はディジュリドゥの製作者でもある。ダーウィン郊外にある彼の自宅兼工房に入った瞬間、メンソールにも似た清涼なユーカリの香りが鼻腔を吹き抜けた。床一面には赤茶色のおが屑が厚く散らばっていて、歩くたびに雪のように沈み込んだ。

 伝統的なディジュリドゥの製作は、古くは白蟻が食べて自然に中身が空洞になったユーカリの樹を用いていたが、現代では主に原木を購入し電動工具などで削って製作する。壁には加工前のユーカリの原木、作りかけのディジュリドゥがあった。

 ディジュリドゥは、多くが長さ一・二メートル程度の管楽器である。表面は樹皮を剥いで磨かれており、伝統的な点描画や部族固有の幾何学模様が描かれている。材質としては木製であるが、トランペットなどの金管楽器と同じように息を吐きながら唇を震わせて鳴らすため、その発音原理から金管楽器として扱われる。伝統的なディジュリドゥは原木の形のまま中をくり抜いて作られ、二つとして同じ形がなく、その形が音の鳴りにも影響して唯一無二の音色を奏でる。


 タカアシガニの抜け殻のあなたは、彼の工房に魔除けとして安置されるはずだった。最初は彼も、ソングラインの解釈の通りに起きた出来事だ、と不思議な贈り物に感謝して祈りを捧げていた。だが、数日もしないうちに、彼の内に悪魔のような着想が生まれた。それを思いついた時の興奮のあまり、彼の口角がじわりと上がった。

 あなたの抜け殻を、良い音が鳴りそうだ、ディジュリドゥにしてみようと思いついたのだ。タカアシガニが生きていた時の姿をそのままに蜜蝋で塗り固め、吹き口を接続して管楽器にしようというのだ。

 バキッ。

 彼はタカアシガニの最も太く長い脚の関節を折り、じっくりと中を観察する。なるほど、管楽器とした時に息の通り道の邪魔になっていると思えば、ドリルで隔壁を除去し、わずかに残る乾燥してこびりついた身もヤスリで丹念に取り除き、仕上げに蜜蝋でコーティングして接着剤で元に戻した。再び中を覗いてみると、視界をさえぎるものがすべて消え、その穴の向こうに、壁に立てかけられた美しい装飾のディジュリドゥが見えた。まっすぐに息が通り、太さも申し分なく、ディジュリドゥへの加工が成功することを確信した彼は、無人の工房でひとり満足げに頷いた。

 なんということをしようというのだ。

 それは命に対する冒涜だ。現実の世界に直接干渉することができないわたしは、夢の世界から再三にわたって彼に警告を与えた。

 手始めにタカアシガニの幻影を彼の夢に出現させ、痛い痛いと泣かせてみたが、その結果、現実のタカアシガニに蜜蝋を厚く塗り直しただけだった。ならばと加工する際に甲殻のトゲが刺さって化膿し、高熱によって三日三晩苦しむという夢を見させれば、現実のタカアシガニのトゲを丸く削っただけだった。さらには突然タカアシガニが動き出し、彼を生きたまま食らう夢を見させれば、現実のタカアシガニの口吻に仮の筒をねじ入れるのだった。

 わたしの思惑はことごとく失敗した。彼は禁忌に触れ続け、あまつさえ祖霊が与えし試練だと思い込み、他のディジュリドゥの製作依頼すらもそっちのけで、タカアシガニの抜け殻を加工する作業に没頭した。

 もうこれ以上、あなたを傷つかせたくない。

 彼の狂気を抑え込もうと、わたしがまたも因果を操作しようとしたところで、彼から明確な拒絶の意思を感じた。

「おまえの物差しで、その一義的な正しさだけで測ってくれるな」

 言外にそう言っている気がした。絶対的なものであったはずの無限角の物差しの空洞を見抜き、その中に息を吹かれた思いがして、わたしは見えざる手をひっこめた。矮小な存在としてしか見ていなかった彼らの可能性を信じてみたくなったのだ。

 人間の生涯は極めて短い。生命の営みを続ける上で個人が大事なことに気づいたとして、それが正しく継承されるとは限らない。人間という生き物は、同じあやまちを何度も繰り返す。だからこそ弱き者、庇護すべき対象としか見ていなかった。

 あなたに対しても同じだ。それだけにとどまらず、わたしの物差しであなたの限界を勝手に測り、慈悲を与えたつもりでいて新たな挑戦の機会すら奪う、という何よりも残酷な仕打ちをしてしまったのではないだろうか。

 わたしは何もわかっていなかった。夢の世界でわたしが眠っている間に、現実の世界にいる彼らは、いったいどれほどの苦難を乗り越え、種としての成長を遂げていたのだろう。完全に見誤っていた。今という時代を生きる、ひとりの人間である彼に望みを託してみよう。


 タカアシガニのディジュリドゥは、ついに完成した。

 工房の真ん中に鎮座する、世界最大級の甲殻類の存在感は際立っていて、今にも動き出しそうな威容があった。一・五メートルにも及ぶ長さの脚は山形にコンパクトに折りたたまれ、四十センチメートルほどの幅の甲羅の後ろには、ディジュリドゥとしての音を鳴らすため、脚をまっすぐに加工した太い管が刺さっている。その反対側が吹き口となっており、音を鳴らすとまるでタカアシガニが歌っているかのように見える、という算段だ。本来の口吻の部分は、管の径に合うようにぽっかりと穴があけられていた。

 いざ試奏というところで、陶然と高揚して鼓動に耐えられず、彼の喉がごくりと鳴った。滲んだ汗が一滴、おが屑が降り募った床へと落ちる。ユーカリの清涼な匂いを胸いっぱいに吸い込み、彼は吹き口に慎重に唇を当てた。

 ぷおおお。

 彼が唇を震わせ、わたしが命を吹き込む。調子のはずれた屁のような間抜けな音がした。息を整え、もう一度。

 どおおお。

 いい調子だ。今ここにある、この抜け殻だけが持つ、世界に二つとしてない音を、わたしは鳴らす。あなたは動かない。

 どおおお。

 わたしは鳴らすのをやめない。彼の肉体を通して、がらんどうになったあなたの体を息吹で満たす。わたしはあなたを鳴らし続ける。木製のディジュリドゥとはまた違う、硬質な響きを全身全霊で感じ取る。重く低い倍音が腹の底にずんと響き、彼の体固有の振動数がもたらす共振する心地よさに、わたしたちは身をゆだねていた。

 心だけじゃない。ついには体までもが踊り出した。

 興が乗ったか、彼は自らの声音すらも吐息に乗せ、新たな音色を創り出す。彼があなたと協奏しているのだ。あなたの心は閉じたままで、何を考えているかわからない。タカアシガニは仏頂面だ。

 息を吐く。息を吸う。それらが常に一体となる、彼の卓越した演奏技法により呼吸は絶え間なく循環し、あなたが鳴る音は止まることを知らない。そして一瞬の無音。

「Hello world」

 伝統的な音の奥に込められたヴォコーダーのような響きに、彼は満足げに笑った。ようやっとのことで絞り出された、あなたからの初めての言葉だった。


 その言葉が、わたしの内にある夢の世界にまで響いた。一条の光も届かなかったはずの深海に、はるか上空からわずかな光が届く。海底におりのように沈んだマリンスノーが震え出し、白く微細な粒子がきらきらと輝き、命が宿ったかのように舞い上がった。その瞬間、世界が光に包まれた。深く、どこまでも澄んだ青色に世界が染まる。

 始まりと終わりが隣り合った退廃した世界に、命の潮流が吹き荒れる。一本の海藻が海底から生えたかと思うと、またたく間に豊かな海の森となり、浅海にのみ生息するはずの小魚の大群が銀色の嵐のように押し寄せ、それを追うイルカの群れまで現れた。元いた深海の生き物たちは今まで見たことがない光景を、皆あっけにとられたように眺めていた。

 マリンスノーに埋まっていたマッコウクジラの巨大な骨格までもが輝き出すと、みるみるうちに生前の姿に再生し、生気までも取り戻した。その出来事に戸惑った様子のマッコウクジラであったが、確かに命を吹き返したと認めたのか落ち着きを取り戻すと、やがて青い光が射す天を目指して力強く泳ぎ出した。

 新たなソングラインが生まれた瞬間だった。この音色が、彼の奏でたディジュリドゥにあなたが救われたように、あなただけが出せるこの音色が、いつかきっとどこか誰かの心を癒やすことだろう。


 夢の世界は、現実の世界で滅びてしまった生き物たちの動物園メナジェリーだ。そこで飼われているのは、奇妙な進化を遂げ、袋小路に迷い込んでしまった残念な生き物たちが多くを占めている。

 彼らはいつも愚直に前へと進んで、ガラスの壁にぶつかってしまう。おおいに結構。そこにガラスがあるかは、ぶつかった者にしかわからないのだから。

 横を向くことも後退することもままならず、断末魔におのれの正しさを叫ぶことしかできなかった愛すべき愚か者たちよ。わずかに残されたソングラインをたどり、ただ無心にディジュリドゥを奏でてやれば、ふとした拍子に、そんな彼らがまた現実へと戻ってくるのかもしれない。


(了)

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外道のためのソングライン 平手武蔵 @takezoh

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