アルタが初めて、宇宙の樹の実が割れるのを見た日から、もう三年が経っていた。

 身長は伸びた。手も大きくなった。店の道具を握らされて、簡単な仕事なら任されるようにもなった。でも、アルタにとっての日常は、何も変わっていなかった。

 毎日見ていた仕事を、毎日やるようになっただけ。深く考えずともやれることを、深く考えずにやり続けるだけ。お客さんは見知った町の誰かだけ。商品の数も扱う金額も、ついでに日々の食事も代わり映えしない。

 そんな溜め息ばかりの毎日に飽いてくると、アルタは宇宙の樹を見に行く。割れた実から溢れる景色は、どれをとっても違って、けれど皆どこまでも広がっていて、アルタはその度、新鮮に見惚れていた。

 そんな起伏のない日々の中に、ひとつ、驚きが差し込まれた。

 領主の息子、アルタより二つ年上の彼が、町の外の学校に行くことになったのだ。

「まったく、お金持ちってのは暇でいいねぇ。こっちは毎日必死で生活してるってのに、わざわざ遠くに行ってお勉強だなんてさ」

「まあまあ母さん、領主さまには領主さまなりの考えがあるんだろうさ。俺たちがわざわざ心を傾ける必要なんてないよ」

 アルタの両親は、そんな風に否定的だったけれど。だから口には出さなかったのだけれど。

(――良いなぁ!)

 きっと外に出れば、こことは違うものが見られるに違いない。学校に行けば、知らない物事をたくさん知ることができるに違いない。知っていることもできることも増えて、きっと、この町でずっと燻っているより、ずっと楽しい生き方ができるに違いない――

 一瞬だけ、きらきらと胸が高鳴った。けれど目の前の景色に、その音も弾みも静まってしまう。

 いつも通りの、薄暗い店内。父の作業机でだけ、小さな蝋燭が灯っている。工具と金属の板がぶつかる、小さくて高い音。削り粉を払う息は溜め息にそっくりで。

 反対側、店の入口の方を見てみれば、いつも通り母がカウンターに立っている。レジスターの中には小さい銀貨と銅貨だけ。金貨を扱ったことなんか、アルタの知る限り一度もない。

 ちょうど客が入ってくる。この辺りの商店通りの内の一軒、パン屋の丁稚の一人だ。アルタだってしょっちゅう顔を見る。彼は母に依頼をすると、慌てて自分の店に帰っていく。この辺りに住んでいるひとはみんな忙しいから、誰が来ても似たようなやりとりをして、似たように慌てて帰るのだ。

 母がこちらに振り返る。目が合った、と思ったら、母は眉を吊り上げた。

「何をぼうっとしているんだい、アルタ? ほら、新しい依頼が来たから、お前も父さんと一緒に作業しなさい」

「ほう、蝶番か。これならアルタに任せても大丈夫だな。ほら、来なさい」

 アルタが目を伏せてしまうと、二人は首を傾げる。けれどすぐに気を取り直して、母はカウンターへ戻り、父はアルタを手招いた。

「アルタ、不安なのか? 大丈夫、できるまで見ててやるから」

 その言葉に、小さく頷いて見せると、アルタは作業机に向かって工具を握る。父も頷いて言った。

「アルタは目が良いし、丁寧に作業をするからな。きっと良い職人になるぞ」

「……そうなのかなぁ」

「ああ、もしかしたら俺よりも良い腕になるかもしれないな」

 父の微笑みから、アルタはそっと目を逸らした。小さな古びた蝶番は、片側だけがすり減って歪になっている。ここから元の大きさを考えて、新しく真鍮の板を加工していくのだ。

「……他のものには、なれない?」

「他にって……他に何があるんだ?」

 それは、ただの疑問だった。深く考えることなど何もなく、ただ心の真ん中から差し出された言葉だった。うわべでもなく、わざわざ底から浚ってくるまでもなく、ただ当然として出た声だった。

 古い蝶番を見本にして、新しい蝶番ができていく。こういう仕組みを作ったら扉ができるんだって、最初に思いついたのはどんなひとなんだろう。そのひとは、他に何を知っていたのだろう。それをこの町に知らせたひとは? どんなことができるひとだったのかな。

 この道具を考えたひと。蝋燭を思い付いたひと。お金の仕組みを考えたひと。彼らが知っていたこと、見たもの、逢った出来事。そういうもの全部、ぜんぶ、分からないのだ。アルタがここにいる限り、きっとずっと分かり得ないのだ。

(そんな、……そんなのって、ないよ)

 俯いて、鑿をぎゅうと強く握った。父は、アルタが作業に集中し始めたのだと思い、それを見守ることにした。

 アルタが何を握り込んだのか、それを知ろうとすることもなく。



 夜。アルタはベッドから抜け出して外に出た。

 月はない。星の光だけが降り注いで、町は黝く染まっている。アルタはその中を駆けて、丘を目指した。

 丘の上には宇宙の樹。実を生らす時期を迎えた樹。その実の中に、誰も知らない秘密を抱え込んだ樹だ。

 夜空色と星雲色の葉を掻き分けて、藍色の実が沢山ぶら下がっている。アルタはそれに手を伸ばした。……触れられる。掴める。何も変わらない毎日だったけど、身の丈だけは確かに伸びていたのだ。

(……でも)

 アルタは、それ以外だって欲しかった。

 落ちる直前の、張り詰めた実を選んで摘み取った。三年もここに通い詰めて、誰よりもこの樹を見てきたのだ。収穫期の実の見極めには自信があった。

 自分の拳ほどの大きさの実を、片腕いっぱいに抱え込む。もう片方の腕で、抱えていた実を地面に叩きつけた。

 実が割れる。小さな宇宙が噴き出す。

 ひとつ、またひとつと実を割っていく。溢れた宇宙が溶け合って、目の前にひとつのうろとなって口を開けた。

 洞の奥。削り粉をまぶしたような鉄黒。どこまでもどこまでも続く、こことは違う空間。アルタが焦がれる、未知と未来の象徴。

(ごめん、父さん、母さん)

 いつまでも変わらない、息の詰まりそうな毎日は、ここに置いていく。

 ひとつだけ、深く呼吸する。少しだけ屈伸をした。三歩だけ後ろに下がる。いち、に、さんと踏み切って、勢いよく洞に飛び込む。

「うわあ……」

 躰が宙を滑っている。目の前が爆ぜるみたいに星が光っていた。とうとう憧れに踏み込んだのだと理解して、泣きたいくらいに胸が詰まった。いつの間にか、さっきまで踏んでいた土地が見えなくなっていて、アルタは柔らかく微笑んだ。

 さあ、何をしよう。どこに行こう。何になろう。どの星に触れて、どの空を眺めてみよう。

 全部自分で選んで、自分で決めて、自分で知ることができるのだと考えたら、心臓が弾んでしょうがなかった。

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宇宙の樹には宇宙が生る 朽葉陽々 @Akiyo19Kuchiha31

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