嵐の夜

亜脳工廠小説執筆部

夏の暮れごろの出来事である。

 ふと私は、ある重要なことに気づいた。

 水の粒子が頭髪にぶつかってだらだらと流れていく。

 トイレの窓、閉め忘れてる――。


ぶぅぅぅぅぅぅぅぅぅん


 何度目かもわからないサイレンがけたたましく鳴り響く。

 打つ雨の音。

 無機質な男性の声で聞き飽きた文言が繰り返された。


「警報が発令されました

家の中に避難し、戸締まりと施錠を徹底し、

絶対に外に出ないで下さい」


 この瞬間だけはシャワーと大雨の雑音の中で、サイレンが嫌に鮮明に聞こえた。

 青く薄暗い風呂場の蒸気と湯しぶきが、妙に肌寒い。

 熱いシャワーのはずなのに背筋が冷え上がっていく。

 沸き立つ思考の中で、この部屋の間取りが頭の中に浮かんだ。


 このアパートの角部屋は細長い。

 玄関、トイレ、風呂、台所、居間の順番で並んでいる。

 居間は窓に面していて、風がガタガタと吹き付けていた。


 侵入された時点で詰みだ。

 早く戸締まりしなくては。

 シャワーを止めようと濡れたノブに手をかけた、その時だった。


がたん


 何かの振動が家全体に鳴り響いた。

 何の音だ。

 何の音かはわからないが、足音が隣の部屋で響いているような気がした。

 何故か、身体の表面がざっと泡立ち、温かい水流の中で過呼吸になった。


 ておくれ


 そんな言葉が頭の中で反芻された。


”彼らは高等な生物を行動や意味の複雑性で理解している。

つまり、彼らに発見された時や接近された時に重要なのは、隠れることでも逃走することでもなく、自らの言動や思考に反復性を持つことである。”


を考えず、目的もなく動作する機械人形であることが重要だ。基底次元から隔絶された彼らは生物という形態とそうでないものを区別できないのだ。"


 ふと沸き上がる記憶。

 シャワーノズルをやや外側に向けて、シャンプーを手に取り頭髪を掻き回す。


わしゃわしゃわしゃわしゃ


 私は永遠に頭髪を洗う人形だった。


 トイレのドアが軋みながら開く。

 風がひゅうひゅうと音を立てて家の中に舞い込んでくる。


ぎしぎし


 足音が細長い間取りの中を進んでいく。

 風呂場を、台所を、通り過ぎ居間の扉が開かれる。


わしゃわしゃわしゃわしゃ


 折り返し。

 台所、風呂場、

 風呂場、風呂場。

 風呂場、そこで足音が止まった。


 私は無心に努めようとした。

 髪を洗う人形。どうしよう肩が凝ってきた。


 侵入した嵐の大気が風呂場になだれ込んでくる。寒い


がらがらがら


わしゃわしゃわしゃわしゃ


 音を立てて戸口が開かれる。

 まるで幻聴みたいだった。


 何秒、何分、何時間。無限の時間が過ぎる。


わしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃわしゃ


びちゃびちゃ


 風呂場のタイルを足音が叩く。


びちゃびちゃ


 足音は、足音は、遠ざかっていく。


わしゃわしゃわしゃ


 ゆっくりと遠ざかって、やわらかいマットを踏みしめたような気がした。

 がさごそと音を立ててそれで消えた

 

 行ったのだろうか……


 恐る恐る顔面を後ろへと向ける。

 泥に汚れた床。がたついて少し歪んだ引き戸。

 ひゅうひゅうと風が吹き込んできて、寒い。


 慌てて風呂場から出る。

 長い廊下が長く感じられた。

 トイレまで急いで走る。シャンプーのぬめりで途中で転びそうになった。


 窓は開いていた。

 狭くるしい便器の真上に、湿った意地の悪いような大気を押し込んでいる。

 泥だらけの便座の上には暗澹たる闇夜が窓から覗き、私は再び戦慄した。

 息を切らしながら窓を強引に閉めて、力を込めて施錠する。


 それから廊下を眺める。泥の足跡が不規則に続いていて、居間まで続いていた。

 さっきまで死にかけていたのに、不思議なほど静かだった。


 風呂場に戻って髪を流してから、パジャマに着替える。

 片付けるのが面倒だな、と思った。


ぶぅぅぅぅぅん


 また警報が鳴る。


「警報が解除されました

ただちに外出し、戸締まりと施錠を解除し、

絶対に外に出 て 下 さ い 」


 何度目かもわからないサイレン。

 階下はもう寝静まっていた。

 寝る身支度をしていたらこんな時間になってしまったのだ。


 テレビをつけると、どのチャンネルも警報の表示が巨大だった。

 東景区の危険地域を示すマップも画面外にずっと表示されていた。外に音が漏れないように音量も小さくもなっていて、画面の輝度も暗く抑えられている。

 うるさいテロップの後ろでは、さしあたりの無い風景の映像が延々と流れていた。


〈東景区の豊かな自然をお楽しみ下さい〉


 唐突に自動消灯され、テレビの灯りだけが部屋に残った。

 外では誰ともつかない複数の足音が、不規則に淡々と響いていた。

 玄関の方向でガタンと音がして、それきり何も無かった。


ぶぅぅぅぅぅん


「警報が解除されました 」


 それから何時間かして怯えて眠ったが、本当に何も無かった。

 本当に何も無かった。

 夏の暮れごろの出来事である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嵐の夜 亜脳工廠小説執筆部 @anouarsenal

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ