一畳一間

 私にヒビが入ったのは三日前のことだ。


 庭で放り出されていたホースに足を取られ、ウッカリ転んでしまった。きっとこの時に踏み外してしまったのだ。

 それは人の道とか、常識とかいった類の大事な物だったのだろう。だから、こんなにも頭を悩ませている。


 血は出なかった。前のめりに倒れたところを、なんとか手をついて庇ったから。この顔に傷をつけまいと咄嗟に出た利き手。果たしてこの女のかんばせには瑕疵もなかった。


 その代わりに右腕に罅が入った。手のひらから前腕までを裂き、肘へと抜けるほどの大きな亀裂だ。細い絵筆を這わせたような作り物のような怪我に見える。血の赤さとは無縁の奇妙な裂傷であった。


 これは一体なんだろう? 今のところ、傷が大きく広がるわけでなく、曲げたり伸ばしたりしても支障がない。


 痛みはなかった。大きく走った線は無機質に、しかし有機的な柔らかさを持っている。恐る恐る当てた指もと沈みゆく。


 なんとなく予覚があった。この罅は死にまつわるものではなく、生命活動の一種。繊手せんしゅを汚したこの筋が忌々しく思えるが、これも私という命の一欠片である。排泄行為に似る、営みに必要なことなのだ。


 私は人形だったのかもしれない。


 思えば人間として少し整いすぎていた。

 見事に白くとした、卵形たまごなりを逆さにしたような顔。肌は一切の参差錯落しんしさくらくなく、シミの一つもない。見事なだ。

 

 うん、この美しさも人形であれば造形として納得がいく。我ながら人にしては出来がよすぎると、常日頃より思っていたのだ。


 アァ、私はなんと完成された存在だったのだ。そんな真理がわかってくると、唯一の汚点であるこの遺欠いけんが憎い。せっかくの身体に実にツマラナイ傷をつけたものだ。今になって悔やんでも悔やみきれない。一度折った紙をなんど延ばそうと、その痕は消えない。


 なんとか消し去りたいが、病院じゃダメだ。お医者様は人を治すのが使命である。人ならざる私のことを直せないだろう。人形師のほうがまだ望みもあろう。


 そっと私の心配事をなぞる。指の腹に肉の柔らかさが伝うが、パックリと空いた間隙は埋まることがない。この深手こそが、もう取り返しのつかないことをありありと示していた。


 いっそ腕ごと綺麗にしまったほうがいいのだろうか。

 かのサモトラケのニケのように、欠損しているからこそ見る者に"完全なる腕"を幻視させるに至るかもしれない。芸術とは得てして偶然から生まれることもある。私の場合は先の転倒、それによって出来た罅こそが美としての一歩だったのだろう。華麗なるステップアップとして捉えれば、幾許かの慰めにもなろう。


 それには上手く切除しなければならないが、私に出来るだろうか。繰り返しになるが、医者にかかるわけにはいかない。『この腕を綺麗に切り取ってください』なんてことは、とてもじゃないが言えない。そんなトンチキなことを言ったら腕でなく頭のほうを切開されるだろう。


 この美しい顔にもキリトリ線が引かれるなんて……。身震いするような想像に、力なく垂れ下がる右腕を見下ろす。


 目が在った。

 目が合った。


 腕の、罅割れた輪郭をまるで瞼のように、大きな、冷たい目がギョロリと動いた。


 途端に内側から衝撃。強烈なノックが、私の腕を震わせた。

 何かが蠢いている。今や私の腕は第二の心臓となり、鼓動を打ち胎動していた。


 腕から四方へ亀裂が広がっていく。ポロポロと大小の肉片を溢しながら、腕から肩へ。肩から尻へと黒い線が恐るべき速度で侵食していく。


──私を撒き散らしながら、その目の主人が外へ出ようとしている。


 ダメダメダメダメダメ。

 このままだと私が、私が割れちゃう! この均整のとれた美が終わってしまう!

 どうして? これが使命とだとでもいうの? サナギとしてこの得体の知れないモノに変態するまでの、ただの外面だったとでも?


 そんなの、そんなのまるで──


 卵みたいじゃない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一畳一間 @itijo_kazuma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ