第5話 ゼリー寄せの記憶・ユイ
その日、学校を出る時止んでいた雨は途中ですごい降りになった。傘をさしていてもほとんど無駄で、すぐに髪の先からスカートの裾、靴までびしょぬれになる。
周りの景色さえ雨に流されそうな中、何かのお店の大きな軒先を見つける。こんなお店、家までの道の途中にあったっけ。そう思いながら私は、すでに女の子が一人雨宿りしている、その軒先に入った。
すごい降り方だねと、その子に笑いかける。恥ずかしそうに頷くその子はセーラー服姿で、私の学校の生徒ではないとわかる。
それから、ああ、何の話をしていたっけ。その子は突然崩れ落ちて、そして……救急車が来たんだ。誰も呼んでないのに。
急に目の前で人が倒れたことと、すかさず救急車が来て、その子を運び入れた驚きで私は立ちつくしていた。
「もう大丈夫ですからね。」
いつの間にいたのか、その子の母親らしい黒いセーターを着た女性が近寄ってきて、お辞儀をしながら言う。
あれ、この声、聞き覚えが……この人……
ブヨン……目を凝らしてお辞儀から上げた相手の顔をよく見ようとした時、柔らかいものに顔を圧迫される。と、目の前に、一抱えもある丸くて緑色のものが幾つも現れ、空気が薄いオレンジ色になった。あたりがよく見えない。
ブヨン、顔だけじゃなく、体全体に圧がかかる。目の前を、手のこぶし位の白く四角いものが泳いで行く。
これ、何、両手を差し出して、あたりを払おうとするけれど、圧を感じるのに何も触れることができない。息、息が、苦しい。
私が一人でもがいているうちに、女の子と母親を乗せた救急車が、目の前から走り去って行く。現れた時と同じように高くサイレンを鳴らしながら。
ちょっと待って、いや、待ってる場合じゃないよね、早く病院行かなくちゃならない。でも……
でも、私の目の前、これ……何も、ない。
一瞬にして、私を圧迫していたものはなくなり、視界もクリアに戻った。
どういうこと、びっくりしすぎて自分まで調子が悪くなった……たぶん、そう。
だって帰り道、雨が止んでいるのに気付かずに、傘をさしたままだったぐらいだもの。
家に帰ってすぐ、キッチンで夕食の準備をしているママに、救急車の件を話した。
「きっと、その子のお母さんが救急車を呼びに行ってたのよ。」
ママの言う通りなんだろう、そして、あの子は、母親の帰りを待っていた。そこへ私が現れて、おしゃべりを始めてしまい……そうだ、ササという名前……
「ママ、その子のクラスにね、ササっていう女の子と、ソウっていう男の子がいるんだって。」
「そんなに珍しい名前じゃないと思うけど、でも偶然ね。」
「しかも、中学三年生なの。ママとパパも、中学三年の時、同じクラスだったんでしょう。」
もしかしたら、その二人は恋人同士なんじゃないかしらと、想像を膨らませる私を、
「まず、救急車で運ばれた子が、早く良くなるように祈りましょうね。」
と、ママがたしなめる。
その時、玄関のインターフォンが鳴って、ママがダイニングにある親機で応対を始めた。
「ユイ、チアキ君よ。」
チアキ君、何だろう。
玄関の分厚い木の扉を開けると、チアキ君が笑顔で立っていた。
「悪い、明日提出の数学の宿題って、もう終わったかな。教科書、学校に忘れてきたんで借してほしいんだけど。」
「……」
「まだだったら一緒に片付けよ。俺の方が数学得意だし。」
そうだね、私、数学苦手だし、その方が、い、い…あれ、私、チアキ君のこと……何か変なこと、あったような……
「ユイ、どうした。」
あれは、最後にシオリの家に泊まりに行った日だ。パパに車で送ってもらう途中、私、車の中からチアキ君と話した。でも、あの時私、チアキ君のことがわからなかった。誰だろうって思った。今年、チアキ君に再会してからは、一切記憶の途切れずはなかったはずなのに。やっぱり、私の記憶はあちこち虫にかじられてる。
……それだけじゃない、あの時、
「ママ、ママ……」
私はチアキ君を玄関に残して、キッチンに走って行った。
どうして今まで、このことを忘れていたんだろう。
勢いよくキッチンに飛び込んできた私を、ママがびっくりしたような顔で見ている。
「どうしたの、チアキ君、何の用だった……」
言いかけたママに、
「ママ、あの時、チアキ君のこと知らないって言ったよね。」
「え、何、何のこと。」
「二か月ぐらい前に、シオリの家に泊まりに行く途中、パパが運転してて、ほら。」
ママは、きょとんとしている。
「チアキ君の家の前で信号待ちしてる時に、チアキ君に会って、話しかけられて、私、誰かわからなくって……」
「今年チアキ君に会ってからは、何でもちゃんと覚えていられるって言ってたのにね。」
ママが、悲しそうに私を見つめる。
「だから、私のことはいいの。ママ……パパもだ、あの時、私が、今の子誰って聞いたら、知らないって言ったんだよ……」
「え、ママとパパが、そんな事、ちょっと待って、ユイ。」
「ママとパパも、だんだん私みたいになってるんじゃないの、大丈夫なの、ママ。」
言いながら涙が出てきた。
「いったいどうしたの、ユイ、ママとパパは大丈夫ですよ。大丈夫だから……」
その時、開け放したキッチンのドアからチアキ君が顔を出し、
「あの、俺、いや、僕……」
と、どぎまぎして声をかけてきた。
「チアキ君、ごめんね、ユイに何か用だったんじゃ、ほらユイ、そんな小さい子みたいに泣いてたら笑われますよ。」
「あの、僕、もういいんで、帰ります。」
困ったようにそう言って、チアキ君は帰ってしまった。
「車でシオリちゃんの家まで送って行ったことは覚えてるけど、途中でチアキ君に会ったりしたかしら、ユイ、夢を見てたんじゃないの。」
夢なんかじゃない。
でも、会社から帰って来たパパに聞いても、答えはママと同じだった。
その夜はなかなか寝付けなくて、眠ったと思ったら、案の定怖い夢をみた。
昼間、救急車で運ばれた女の子と二人でいる夢。
女の子は倒れていて、そばの公衆電話で呼んだはずの救急車が、いつまでたっても来ない。遅い、どうしたんだろう、遅い。私、ちゃんと呼んだのに。ちゃんと。
遅い、助けて、早く。もし、この子が死んじゃったらどうしよう。誰か。地面に伏す青い横顔……早く。
結局、夢の中で救急車は来なかった。誰も通りかかりもしない。誰か誰か、大きな声で呼んでみる。でも誰も来ないことを私は知っていた。知っていたけれど、呼ぶしかなかった。
頭が痛いわけじゃない、重いだけ。翌朝、そんな会話をママとして、学校に向かう。
チアキ君に会うのは、気が進まない。昨日の事、何て思ったろう。
緊張気味に教室に入ると、チアキ君は、窓際の一番後ろの席で机に向かい、必死で何か書いているようだ。
「おはよ。」
後ろからポンと肩を叩かれる。
シオリ……
“ユイの家の近所には……”
不意に、シオリの言葉がよみがえる。
“ユイを知ってる子なんていないはず……”
……シオリも知らないって言った、あの時、二か月前に泊まりに行った時。
「シオリ、チアキ君の家が、私の家の近所だって知ってるよね。」
「知ってるよ。前にユイと一緒に行ったことあるし……どうしたの、急に。」
「でも、あの時、そんなの知らないって言ったよ、十月にシオリの家に泊りに行った時。」
「え、私が。」
不思議そうな顔をするシオリ。
「何かと勘違いしてたのかな。」
勘違い、そんなはずない。
“私の好きだった人は……”
……あの夜、空が燃えてた、燃え盛る、空。巨大な火の球の太陽。激しく燃える音、息さえ満足にできない焦げた空気……どうして、あんな恐ろしいこと忘れてたんだろう、そして、そのさ中、シオリが叫んだ、去年の失恋相手。それは……
「シオリ、パパの事、好きだったって、ほんと。」
「パパ、誰の。」
「空が燃えてる時に言ったことだよ。」
いつの間にか大きな声を出していた。
「おーいユイ、お前も数学の宿題やってないんなら、これ写させてもらえよ。」
声に気づいたチアキ君が向こうで呼んでいる。
「数学一時間目だよ。私のノート写す……」
カバンを開けようとするシオリの手に縋りつくように、
「ごまかさないで、ねえ、どうなの。」
と言いつのると、後でゆっくり話そうと、シオリは廊下側の自分の席に行ってしまった。
ホームルームに担任のオザワ先生が入って来た。終わればわずかの休憩をはさんで、一時限目の数学の先生が来る。シオリと詳しく話している時間はない。
斜め後ろから、窓際の一番前の席の私まで、ノートが送られてくる。振り返るとチアキ君がこっちに小さく手を挙げて合図している。
宿題どころじゃないの。でもそれを説明することはできない。
私は、出席をとり終わったオザワ先生に手を上げる。
厳しいけれど、優しい眼鏡の奥の目でオザワ先生がこちらを見る。ベテランの英語教師であるオザワ先生は、いつも流暢な英語を話すそのしっとりとしたアルトで、
「どうしましたか。」
と尋ね、こちらに近づいて来る。
気分が悪く、頭が痛いので帰らせてほしいと言うと、保護者に連絡を取るので、保健室で待機するように言われる。
保健委員のキリノさんに付き添われ、二階の東端の教室から一階の中央にある保健室に向かう。
熱があるのかなど、キリノサンが心配して気遣ってくれるのが申し訳なく思う。体は大丈夫なのだ、ただ、ただ……
「前と違って、最近すごく元気だから安心してたんだけど、やっぱり無理しちゃだめよ。」
え、最近って……
「私、前から結構丈夫な方だと思うけど。」
「また、すぐそう言って。小学校の頃は体育の授業出てなかったし、今だってつらいなら体育、見学でいいのに。」
何を言ってるんだろう。確かにキリノさんは同じ小学校だったけれど、私が体育の授業をずっと見学なんて、いったい誰と間違ってるのか。
「あの、私小学校の時、体育の授業にちゃんと出てたよ。」
そりゃ、風邪をひいたりして休んだことがあったかもしれないけど。そのあたりは記憶が虫に食われてるから、その……
「知ってるよ。ユイって、見かけは女の子らしいけど、運動得意だもんね。走るの速かったし。」
え。
「今、私が体が弱くて、小学校の体育の授業に出てなかったって言ったじゃない。」
キリノさんは、驚いたような顔でこちらを見ている。そして、私の腕をつかむと、目の前まで来ていた保健室の扉を開け、
「先生、この子、熱が高いみたいです。」
と大声で言ったのだった。
本当に熱が出そうだった。いったいどうなっているの。保健室のベッドに横になって、ママの迎えを待ちながら考える。
確かに私の記憶は虫食い算状態だけれど、覚えている事柄は正確なはずだ。
はず、だった。
パパとママが、そしてシオリが、キリノさんが、おかしなことを言う。おかしくなった。
違う。みんなが揃っておかしくなるはずはない。
私の記憶が間違っていると考える方が自然だ。五月にチアキ君に再会して、新たな記憶の欠落はなくなったと思っていた。
でも、そうじゃなかった。パパとママがチアキ君を知らないって言った事。空が火事になったことだって、その中でシオリの失恋相手を聞いた事だって忘れてた。(しかも、相手は私のパパだ)いろいろな事を忘れてしまうのは元々だから、この際いい。
問題は、加えて間違ったことを記憶するようになったんだとしたら……
大変じゃないか。覚えていないことなら、何とか調べて辻褄を合わせようとできる。
けれど、間違った記憶を持っているんだとしたら、全てを疑ってかからなくちゃならない。そうでないと、他人と話がかみ合わない。記憶の中には、どの位の割合かはわからないけれど、正しいものだってあるはずなのに。
とにかく、何とか起きたことを細かく書き留めておくようにして。
ああ、ダメだ、キリノさんの場合なんて、数秒前の記憶がもう間違っている。もしかして、記憶の段階じゃなく、現実の認識、それ自体が歪んでいるんだとしたら。
どうしたらいいの。掛け布団を頭からかぶって苦悩していると、
「さっき測った時は熱は出てなかったけど、苦しいかな。」
いつの間にそばに来ていたのか、保健室のワカコ先生の声が、私の頭の方からする。
「大丈夫です。」
布団の中からもそもそ答える。
「そう。何かぶつぶつ言ってるようだったから、つらいのかと思って。」
体が苦しいんじゃなくて、心と頭がね、と理由を話せたなら。
布団から顔を出し、男女問わず生徒から人気のある、優しい“お姉さん”(年齢は知らないけれど)といった感じの容姿を見上げる。上からこちらを見下ろす面長の綺麗な顔に、後ろで一つにまとめたはずのさらさらの黒髪が何本かほつれてかかっている。
ふと、黒のセーターが頭に浮かぶ。ワカコ先生が今着ているのは、白いブラウスに茶色のカーディガンなのに。
「ユイ……」
ワカコ先生、私のこと、名前で呼んだっけ……
「ユイ。」
暖かいのに、少しだけ寂しそうな声。声。
この声、あの時の、倒れた子のお母さんの声。
「ワカコ先生、子供いますか。」
勢いよく起き上がる。
「いない。」
そもそも一度も結婚したことがない、と言われる。
そういえばワカコ先生に中学三年生の子供って、あまりに大き過ぎると思い直す。お母さんじゃなかったとしたら、妹とか。
「じゃあ、とにかく、昨日、救急車に乗った女の子を世話してませんでしたか。」
「してない。」
全体的に優しい感じだけれど、しゃべり方は結構きっぱりしているんだった、ワカコ先生は。
「そっくりさんがいたの、私の。」
「あ、そうなんですよ、顔は髪で隠れてて、でも、声が……」
ブヨン……顔に身体に、軽い、柔らかな圧迫感。この感じ、あの時救急車が来て、ワカコ先生に似た声の人に会った時の……保健室がオレンジ色に染まる。丸い緑と、四角の白が浮遊してる。
ブヨン、息ができない、声も出ない。
先生、助けて。圧の正体を払いのけようと、またも手をばたばたさせるものの、何も手にあたらない。
そばに立っているワカコ先生は、私が差し出した手を取ろうともせず、冷静な表情でこちらを見ている。
先生には、これが見えないのだろうか。息、できてるの。
口の中に、つるりとなめらかなものが入ってくる。
あ、ゼリー、でも甘くない。飲み込もうとしていないのに、それは勝手に喉に滑って行く。
どうしよう、毒なんてないよね。
毒、あったら、もし。
目が開かない、もしかして。
もし……
蒸発の空 突出の星 木野 永吏 @tonarinosora
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