第4話 ニーチェに涙・唯

 人間は、他人と比較される。

 そんなことは良くないことで、どの人にも、その人なりの良い所が必ずある。

 ……この説は、世の中に浸透しているようでしていない。少なくとも、私の周りには。

 「唯、ちょっと来い。」

 お父さんが、十一月半ばの日曜日に親友の家に行って来た。

 この親友、お父さんの田舎の幼馴染で、ずいぶん出世しているそうだ。なので時々家を訪ねては、お酒やらごちそうになって来る。それは別にいい。

 「本当に、果穂ちゃんはすごい。」

 始まった。嫌なのは、帰ってからのこのお説教だ。

 果穂ちゃん、とお父さんが呼んでいるのは、その親友の娘で今中学一年だそうだ。お父さんが言うには、学校の成績がずいぶんいいそうで、加えて陸上部で大活躍とのことだった。

 「ちょっと見ない間にまたかわいくなっててなあ、いやほんと将来が楽しみだ。」

 お父さんと、こたつをはさんで向き合う。

 奈緒はこういう時、さっさと自分の部屋に引き上げてしまい、お母さんは呆れて知らん顔でテレビを見ている。お父さんもよくわかっていて、面と向かってこういう話をしてくるのは私に対してだけだ。

 「ああいうできる子だったら、父さんも頑張って働いて大学まで入れてやろうかと思うんだけどなあ。」

そうだろうなあ、ごめんね、出来の悪い娘で。

「成績がいいのはまじめに勉強してるのもあるけど、生まれつきっていうのもあるんだろうな。今日も驚いたよ、果穂ちゃんがまだほんのちっちゃい頃、父さんが、よく本を読むんだよって言ったことを、ちゃんと覚えてて、それで読書好きになったなんて嬉しいことを言ってくれるんだよ。」

「そう……」

「ほら、これ見てみろ、果穂ちゃんはこんな難しい本を読んでるんだぞ、お前に貸してくれたんだ。」

お父さんが私に押しつけてきた青い表紙の本には、大きく“ニーチェ”とあった。

「お前、マンガばっかり読んでて、こんな本読んだことないだろ。」

「そう、だね……」

「だいたいお前にだって小さい頃、よく本を読むように言ってやったんだ、覚えてないだろ。」

覚えてない。

「お前、一番小さい時の記憶って何だ、思い出してみろ。」

一番、小さい時。 

「わからんのか。」

「……お父さんがこぐ自転車の後ろに乗って、どこかの公園の横の道を走ってた。」

「ほう、何歳の時だ。」

「たぶん、三歳か、四歳位。」

「もっと詳しく。」

「……忘れた。」

だからお前はだめなんだと言われながら、本当は覚えているのにと心の中でつぶやく。あの時お父さんは、私にどこに行きたいか聞いた。思いつかなくて黙っていたら、“じゃあ、父さんと一緒に死ぬか”って言われた。その時、私は意味がよくわからなくて、やっぱり黙ったままだったんだ。

 “ニーチェ”の本は読む気になれないまま、半月も放り出してあった。けれど、次の日曜日に返しに行く、その時感想を伝えて来るからとお父さんに言われ、しぶしぶ手に取る。

 妹と兼用の勉強机の上、マンガやアイドル雑誌の切り抜きを端に寄せて場所を作る。本当は寝転がって読みたいのだけれど、二段ベッドの下側は薄暗くて読みづらい。この狭い部屋だと床に寝ようにも、本棚が邪魔してそれもできない。

 「へえ、マンガじゃないんだ。」

奈緒が後ろからのぞき込む。

「果穂ちゃんが貸してくれた本だよ。奈緒、会ったことあるんでしょ、あんたが読みなよ。」

奈緒は二回ほどお父さんについて行ってごちそうになってきたことがある。

「やだよ、私もう寝る。部活がきつくって。」

奈緒はバレーボール部に入っている。私なんて、体育の授業のある日は、前日の夜から気が重いっていうのに。姉妹でもこんなに違うんだ。

 奈緒に本を押しつけるのは諦めて(押しつけたら、それでまたお父さんに怒られるだろうし)、やっと“ニーチェ”の本の表紙を開く。ああ、こんな難しそうな本、私なんかが読んだってわからないよ。おまけに二百ページもあるし。

 え、と、ニーチェというのは人の名前なんだな、外国の人で、この本は、その人が書いたんじゃなく、その人について書いてある本、つまり物語とかじゃなく、伝記、ちょっと変わった伝記というか、話した内容かな……ページをパラパラとめくりながら、少しでも理解しようとする。

 果穂ちゃんは、よくこんなつまらないもの読んでるな、とそこに感心してしまう。

 あちこち拾い読みしながら、でもさっぱり理解できず、最後の方にさしかかった時、ふと永遠という言葉が目に入った。永遠の愛、とかかな。私はマンガなどでよく見る言葉に興味をひかれ、そのページを読み始めた。

  “永遠回帰”……回帰……

 ……え、何これ、全ては永遠に繰り返される、どういうこと。同じことがそのままの順序で繰り返される……それに対する反応も全て。

 私は、永遠に私なの、そんなの、絶対に嫌だ……

 指の先が冷たい、頭がジーンとする。

 これ、嘘の書いてある本なんだろうか。だって、おばあちゃんの言ってたことと違う。どっちが本当なの。

 でも、このニーチェっていう人、偉い人なんだよね。間違ったりしないよね。

 それとも、私の頭が悪いから、よく意味がわかってないんだろうか。

 続くページをどんどんめくって行っても、難しいのとショックなのとで、ますます書いてあることが理解できない。

 やっぱり、ここに書いてあることが本当のこと。

 死んでも生まれ変わったりしない、それどころか、私は、私を永遠にやるんだ。一番最初から繰り返すんだ、この私の人生を。どんなに嫌でもやめられないんだ。

 「何だって電気つけっぱなしで机で寝てるの。」

お母さんの大きな声ではっとする。

 「まだお風呂も入ってないんだろ。」

全くグズな子だよと、部屋の外でお父さんに言っているのが聞こえてくる。

 私、寝てた、ううん、“ニーチェ”の本に書いてあることがショックで、手と足が冷

たくなってきて、それから……胸がどきどきして、涙が出てくる。

 どうしたらいいんだろう、どうしたら、私は私をやめられるんだろう。もしやめられるんだったら、今すぐ死んだってかまわない。それっきり二度と生まれ変われずに、“無”になったっていい。

 「やだ、お姉ちゃん泣いてる。」

泣き声に気づいて、奈緒が二段ベッドの上から降りて来る。

「ねえ、お姉ちゃん泣いてるよ。」

部屋を出て、言いつけに行く。

 すぐにお父さんが部屋に入って来て怒鳴り始める。

「いったいお前のどこに泣くようなことがあるんだ、毎日ご飯食べて、学校に行って。」

何にも言えずにしゃくりあげる。

「その本だって、せっかく父さんが借りてきてやったのに、かせ、もう読まんでいい。」

お父さんは“ニーチェ”の本で私の頭を思いっきり叩くと、部屋を出て行った。しまった、本破れてないかと心配しながら。

 翌日は午後から雨になった。六時間目の体育の授業は、校庭での短距離走から、体育館でのバレーボールに変更になった。

 私は運動神経がとても鈍く、学校生活の中でも嫌なことの一位は体育の授業だった。別に短距離走のタイムが悪いとか、鉄棒種目が一切できないとかはどうでもいい。

 何が嫌って、球技やリレーで、チームの皆に迷惑をかけてしまうのが嫌なのだ。私が足を引っ張ってチームを負けさせたとしても、紗々のようにニコニコしている子もいる。

 けれど、

「どうして本気出さないの。」

来た、麗と、

「自分のせいでチームが負けても何にも思わないわけ。」

朝陽だ。

「わた、し、本気、出してるよ、でも、ごめ、ん……」

うろたえて、何とか答える。

「何気持ち悪い顔で笑ってるの、やっぱり悪いと思ってないんだ。」

朝陽の顔が怖い。

「体が重くて動けないんじゃないの、痩せてみたら。」

麗はプロポーションいいもんなあ。泣きそうになりながら、頭の片隅でそんなことがちらりと浮かぶ。

 「聞いてるの。」

麗に大声で言われ、はいっ、と返事をした時、

「おーい、女子の体育委員と、クラス委員長、ちょっと来てー」

体育館の真ん中あたりから声がした。

 蒼君が手を振って、あたりを見回している。

 いまいまし気に女子の体育委員である麗とクラス委員長の朝陽が行ってしまい、私はほっと息をついた。

 すると、すでに制服に着替えた紗々が現れて、

「さ、早く着替えよう。」

私の手を取り、更衣室の方へ歩き出す。私はほっとしたのと、恥ずかしさとで、たぶん複雑な表情のまま紗々に引かれて行った。

 放課後、学校から出る時止んでいた雨は、少し歩いたところでまた降り出した。

 傘を家に忘れて来た私は、今はもう空き店舗になっているパン屋の軒先で雨宿りをする。朝、お母さんが、昼から雨らしいから傘を持って行けと言っていたのを忘れて来たのだ。制服を濡らして帰ったりしたら怒られる。

 体育の時間と、その後のことで、少しの間忘れていたけれど、でも、学校から出ると、やっぱり私の心を占めているのは、あのニーチェの“永遠回帰”のことだった。

 でも今は、昨晩よりは落ち着いて考えられる。ニーチェの言っていたことが絶対正しいと決まったわけじゃない。それに、生まれ変わりのことは、おばあちゃんが言っていた以外にも、テレビ番組で見たことがあるのを思い出したし。人は死んだら生まれ変わるっていう意見に、たくさんの人が賛成してた。

 大丈夫、まだ、紗々と蒼君の子供として生まれて来るっていう希望がなくなったわけじゃない。

 そこまで考えて頷いた時、

「すごい雨……」

傘をたたみながら、女の子が一人、私のいる軒先に入って来た。確かに、傘をさしていても相当濡れそうな降り方になってきている。

 私と同じ年位のその子は、こちらに向ってにっこり笑いかける。

 なんて可愛い子なんだろう。茶色っぽくて長い髪に、白い肌、大きな瞳。華奢な体に、この辺の学校では見かけない濃いグリーンのブレザーの制服らしきものを着ている。

 「雨、嫌ねえ。」

 澄んだきれいな声。

 そうだねと答えながら、はにかんで視線を落とすと、その子の手に持つ水色の傘に目が行く。持ち手の部分に取り付けられた薄紫色の雫形のネームプレートに“SASA”という英文字を見つける。

 嬉しくなって、いつもの人見知りも忘れて、

「“ささ”っていう子、私のクラスにもいるよ。」

と告げる。

 “ささ”という名前の子は皆可愛いんだなあ。

 その子は一瞬不思議そうな顔をして、でもすぐに傘のネームプレートに目をやり笑いながら答える。

「違うよ。“ササ”はママの名前。私はユイっていうの。」

え……

「でも、それ……」

ネームプレートを指さす私に、

「今朝、自分のと似たような色で間違えちゃった。ネームプレートの意味ないね。」

「……お母さんが、ささで、子供がゆい……」

首をこくりとする、ユイ。

 ささが母親で、ゆいが娘。これって……

「……もしかして、お父さんは“そう”って名前じゃ……」

まさか、違うよね。

「どうして知ってるの。」

ドウシテ、シッテ……

「……いる、から、同じクラスに……」

呆然としながら、答えにならない返事をする。

「え、ほんと。私のママとパパも、昔同じクラスだったんだって。ね、中学生だよね、今、何年生。」

「三年……」

「そこも一緒、中学三年生の時同じクラスになって、それがきっかけでつきあいだしたって言ってた。」

紗々と蒼君も、つきあいだしたきっかけは、それだったと聞いたことがある。

 「ママとパパの中学生の時って、どんな風だったんだろ、できることなら見てみたいなあ。話もしたりして。私が将来の二人の娘だよ、とか言ったら驚くだろうな。」

 背中が後ろのガラス扉にあたり、木の枠ごとがたがた音をたてる。

生まれ変わりはあったんだ、やっぱりあった、でも……

 おかしい、私、まだ生きてる、体、まだあるのに、ここに……

 背中と、セーラー服の両腕で扉を下へと擦って行く。

 「どうしたの、大丈夫……」

 足に力が入らない。しゃがみこみたくないのに立っていられない。

 足、胴体、すぐ、すぐ、消さないと、邪魔、邪魔、肉、重い、どうにかして……すぐ死ぬから、待って、早く、死なせて、私を、全部消して、待って、待って。

 「ねえ、どうしたの。」

 私と同じ名前の女の子が慌てている。

 なんで、そんなの、おかしい、私だよ、私が、紗々の、子供になるん、だよ、蒼君の娘に、なる、のに、ずるい、どうして、とるの、どうして……先を、越され、たんだ、取られた、んだ。

 これから、どうしよう、どう、なるの、私、どう、なる。

 そうだ、永遠回帰、に、なるんだ、それ、どんな、意味、だっけ、えと、永遠に…永遠に。

 頭の、真ん中に、何かが、ずぶりと、刺さりま、した。

 





 

 

 

 

 

 


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