第28話
気がつくと、あの神社ではなく朝霞くんの家にいた。いつもの席とその隣の席を使って横になっていたらしい。
窓からは夏の強い日差しが、テーブルの上の備品を照らしていた。
服は血まみれである。もちろんわたしの血ではない。
背後に痛みは感じなかった。何事もなかったようである。
汗臭いな、と思った。それに血の臭いも混じって、目覚めは最悪だったと言える。
「おはようございます」
身なりを確認していると、朝霞くんに挨拶をされた。「うん、おはよう」とわたしは、彼の姿を一瞥もせずに返した。この家に泊まったのは二度目である。
そうしていると、テーブルにアイスコーヒーの入れられたグラスとマドラーが置かれた。わたしは「ありがとう」と言えなかった。三文字目までは言えたようであったけれど、途中で気付いて、言葉を失ってしまったのだ。
わたしは、ようやく朝霞くんの姿を見た。
「嘘……、でしょ……」
夢を見ているのかと思った。
夢を見ている気にさせられた。
ありえない。
ありえるはずがない。
ありえるとしても、一晩でどうにかできるようなことではないし、どうにかできるとしても、完治なんて不可能だ。
震える腕を伸ばし、彼の腕に触れた。温かかった。
両腕とも健在だ。
「なんで! そんなことって……。今までのことが夢だったの?」
そんなはずがなかった。わたしの服は血まみれだし、身体は汗臭いし、かなりの疲労感もちゃんとある。
朝霞くんは、微笑む。
「夢じゃありませんよ。現実なんです。『コックリさん』のこともきちんと終わってます」
「でも腕が」
「俺は人じゃないんですよ」
「え?」
思わず呆気にとられてしまった。
人じゃない?
それは、つまり――。
「アヤカシ、なの?」と向かい側の席に座る朝霞くんに訊いた。朝霞くんはそう訊かれるのがわかっていたかのように笑う。
「違います。どちらでもないんです」
「どちらでもないってどういうこと?」
「見てもらえばわかるように、俺の身体は普通じゃありません。千切れた腕がこうして元通りになっているんですからね」
そう言って、朝霞くんは袖を捲って、腕を見せてくれた。焼けていない、少し心配になるくらいの白い肌がそこにはきちんとあった。
「あれ?」
肩までじっくりと見たが、傷跡がなかった。
千切られた跡が、ない。
「千切られなかったことになったんです。だから文字通り、『元通り』になったんですね」
「それじゃあ、千切られてないってことなの?」
「生えてきたのとも違いますからね。そういう解釈しかできません」
朝霞くんが黙ってしまったので、わたしも黙った。
時計の秒針が動く音が、室内に鳴り響いていた。心地のいい音なのだけれど、不思議と心を揺さぶる音である。
「なにか訊きたいことはありますか?」と朝霞くん。
彼の言った事実に困惑を隠しきれないわたしは、まず『コックリさん』のことについて訊くことにした。
「そうですね。小谷さんとヒナには、俺の考え、思惑をなにも話していませんからね。ヒナは気付いた、というべきなのかわからないですけど、今はもう知っています」
「鳴さんは?」
「鳴には話してありました。と言っても、全部ではなかったんですけれど。おおよその概要を話したら、協力を了承してくれました。常名ちゃんの件もありましたしね」
「わたしが知っている限りでは、鳴さんはわたしたちの足止めをしただけなんだけど、その他にもいろいろしてたんだね」
「あの場所に『コックリさん』を呼びだしたのは鳴です」
「どうやって? バラバラになった欠片を見つけるのだって大変なのに」
「『コックリさん』との契約は会話、つまり声で行われます。『コックリさん』に呼びかけることから始まりますよね? 憶えてますか?」
たしかにそうだった。わたしは頷いた。
「鳴は、声のアヤカシです。小谷さんの声を真似ることなんて簡単にできてしまいます。なぜ他の三人ではなく、小谷さんの声だったのか。それは、小谷さんに力があったからです。『コックリさん』を呼び出す要因となった人物であり、ルールを破り、あの場から去った人物だから、『コックリさん』を動かすために小谷さんの存在が不可欠でした」
「だけど、わたしを危険な目に遭わせたくはなかった」
その優しさをどうして自分に向けてくれないのか。わたしはぎゅっと拳を握った。朝霞くんから見えないように、こっそりと。
「はい。だから鳴に小谷さんの声で町中を回ってもらいました。時間と場所を教える作業です。欠片たちには充分な知能はありません。できるのは、力の収集、そのあとに一つに戻ることくらいでしょう。ただ本能、使命に術者たちへの復讐が組み込まれていました。つまり、鳴にはこの本能などを刺激してもらったということです」
「あの神社だったのは? やっぱり人目につかないから?」
「それもあります。一番の要因だったのは、あそこには神様がいなかったことです」
「神様がいない?」
「神社というのは、神様の住む場所でもありますからね。あそこには昔、きちんと神様がいたんですよ。今、見る影もなくなってしまったのは、神様がいなくなったからです。その原因はわかりませんが、つまり、その神社には神様のいた場所が空席になっていたんです。わかりますか?」
「ちょっとわからないかも……」
「そうですね……、簡単には言えないんですけれど、わかりやすく言うのなら、社長の座が空いたといった感じでしょうか。そこに座れば、力を得られる。『コックリさん』は力を集めていましたから、そのような場所は願ってもなかった場所なんです」
朝霞くんの言ったことを整理する。
「つまり、神様の力のあった場所が、『コックリさん』にとって都合のいい場所だったってこと?」
「はい。『コックリさん』だけでなく、アヤカシなら好む場所でしょう。ただ、力のなさ過ぎるアヤカシは、周りの茂みに隠れていることくらいしかできなかったみたいです」
あそこは、人気がないだけではなかった。境内にはアヤカシの姿かたちはなく、その気配すら感じ取れなかった。『コックリさん』があの場を支配していたときはもちろんのこと、立ち去ったあとも同様だった。
「両腕を取られたのは?」
「一本は対価、もう一本は感謝の印です。あそこまで大きくなったアヤカシを動かすのには、それなりの対価が必要になります。感謝の印というのは、交渉に応じてくれたこと、人のわがままに付き合ってくれたことに対するものです。腕二本で済んだのは、やはり俺が人よりも力を持った特別な人間だったからですね」
これでこの『コックリさん』の件についての大筋はわかった。わたしはともかく、朝霞くんと鳴さん、それにひなちゃんには役割があったということだ。朝霞くんと鳴さんは言うまでもなく、ひなちゃんはわたしの護衛だったのだ。欠片たちが近づいてきたときのためだったこともあるだろうし、彼女といることで、わたしの存在を矮小なものにしたのだろう。力があると言っても、朝霞くんやひなちゃんの前では、小さいことこの上ない。
終わってみれば、渦中にいながらにして、なにもわかっていなかったし、そもそも渦中からも弾き出されていた。これでは、結局のところ、後始末を彼らに任せただけだ。自分のせいじゃないと、事実から目を逸らす人たちと同じだ。
なにもできなかった。
なにも知らなかった。
なにも気付けなかった。
わたしは、無力だ。
だけど、きっと、わたしにはなにもできなかったのだろう。『コックリさん』と対峙するだけの力はあっても、それを退治する力はないし、なにより、勇気も無謀さもわたしにはない。怖気づいて、へたれこんで、怯えて、後悔して……、どこまでも、後悔する。
実に人間らしいじゃないか、と開き直ることもできる。
人間とはそうである、と断言できる。
だけどそれでは、目の前にいる少年を、否定することになる。彼を人間ではないモノとして、見ることになってしまう。
それだけは絶対に嫌だった。
それだけは許せない。
「『コックリさん』はどうなったの?」
わたしは、気持ちを落ち着けてから、そう訊いた。
「どうやら、ヒナのやつが殺したようです」
「え?」
朝霞くんが表情一つ変えず、さらりとそう言ったために、思わず自分の耳を疑ってしまった。彼には動揺させられてばかりだ。
「なにから話せばいいのかわかりませんね」
「どうしても話せないことならいいけど……」
「俺のこととヒナのことを少しだけ掻い摘んで話すことにします。まあ、それほど面白くもない話なんですけどね」
朝霞くんが語るそれは、決して面白い話の類ではなかったけれど、とても衝撃的で、悲劇的な話だった。
朝霞くんには、両親がいなかった。幼いころに捨てられていたところを、近衛家、つまり彼の母親になった近衛美里さんに拾われたらしい。そのとき、美里さんの年齢は六十を超えていた。
美里さんは、彼と同じくアヤカシが見える人だった。朝霞くんと同等、もしくはそれ以上の力の持ち主で、彼と違うのは、はっきりとアヤカシと人の区別ができるということだった。
そんな彼女といたために、朝霞くんは人とアヤカシの区別がつかないでいた。幼い彼には、力があればアヤカシなのか、力がなければ人なのかという判断が難し過ぎた。力のないアヤカシもいれば、彼や彼女のように力のある人もいる。人の姿をしているからといって、それが人であるとは限らない。
そんな世界で、彼は生きてきた。
幼いころからずっと――。
アヤカシと人を繋ぐ重要な力だと、美里さんは朝霞くんに言い聞かせていた。他の人にはできない特別なものだと、だからこの力を嫌悪しないで欲しいと、願うように何度も言っていたそうだ。
だから、朝霞くんは、人もアヤカシも分け隔てなく同様に接した。怪我をしているモノを見れば、どちらでも構わず駆け寄っていった。
そんなときに出会ったのが、ひなちゃんだ。
怪我をしていた彼女を朝霞くんは助けた。そのお礼に、ひなちゃんは朝霞くんの身体にあった「悪いところ」をすべて治した。そのとき彼の膝には擦り傷があったらしい。しかしそれは一瞬で消えていたそうだ。初めから傷がなかったかのように、綺麗になくなっていた。
それは今回の『コックリさん』の件で失った両腕のときと同じだ。
どうしてそんな力があるのにひなちゃんは自身の怪我を自分で治さなかったのか疑問に思ったけれど、朝霞くんがそれを語ることはなかった。
それから、ひなちゃんは朝霞くんと共に過ごすことになった。つまり、もう十数年の仲なのだ。
そしてある日、美里さんが意識不明になった。
朝霞くんが小学六年生のときのことだ。
突然のことではなかった。その半年前から、その兆候は見受けられていたらしい。けれど、美里さんは上手くそれを朝霞くんに隠していた。
そして、それを見抜いていたひなちゃんには黙っておくように言っていた。
美里さんは、朝霞くんにとって唯一の家族である。血の繋がりはないけれど、そこにはたしかに家族と呼べるものがあった。家族として過ごせる家があった。朝霞くんにとって、彼女がすべてだった。
朝霞くんはアヤカシたちに助けを求めたけれど、どのアヤカシにも美里さんを助けられる術はなかった。そもそも他者の傷や病を癒せるアヤカシの存在は稀らしい。それに美里さんはそのどれにも当てはまらない。人間として当然の終わりを迎えようとしていた。
当然、ひなちゃんに助けを求めることになる。
しかし、彼女はそれに応じなかった。
どんなに懇願しても、ひなちゃんは首を縦には振らなかった。
結果として、美里さんはその人生に幕を下ろすことになった。最後まで朝霞くんだけには、弱さを見せることなく、息を引き取った。
すべてを失った朝霞くんは、精神に相当なダメージを受けた。
誰もいない家。
小学生には広すぎる家。
美里さんの姿が浮かぶ家。
そこでの生活は、地獄のようだったと朝霞くんは言った。母親の優しさが、母親との思い出が心地いいのと反面に、そこにはもう彼女がいないという現実が気持ち悪かった。本当にすべてを失ったのだと実感させた。
そして、朝霞くんは自殺の道を選ぶ。美里さんのあとを追うように、自分の身体に深く包丁を突き刺した。痛みはなかったらしい。それよりも、母親に会える喜びの方が大きかったから――だから何度も突き刺した。
けれど、朝霞くんが死ぬことはなかった。
刺し傷も消えていった。
「悪いところ」はすべてなくなっていた。
すでに、なくなってしまっていた。
「俺がヒナを助けたときに、ヒナは自分の血を俺に飲ませました。もちろん、俺はそれが血だとは知りませんでした。ただ、『悪いところ』は治ると言われただけだったんです」
そして今回もまた、朝霞くんはひなちゃんの血を得てしまった。その血の効果で、彼の腕は完全にもとに戻り、彼の目論見は崩壊した。
「朝霞くんは『死』がないの?」
「そうですね、たぶん簡単には死なないと思います。どちらかといえば、アヤカシのようになってしまいましたからね。バラバラになれば、案外、死ねるかもしれません」
「だから、どちらでもないって……」
「人にしてはアヤカシに近く、アヤカシにしては人に近い。そんな存在なんです。もともと大きな力を持っていた俺に、さらにヒナの血が混じった。だから見るモノが見れば、少し異質なんですよね」
わたしは少し考えてから、彼に訊ねる。
「朝霞くんは死にたかったんだよね?」
「はい」
「だけど、ひなちゃんの血が混じっているってわかってるのなら、死ねないこともわかってたんじゃないの?」
「その効果は、永続ではないってことです。徐々に効果は弱まっていくんですよ。徐々にと言っても、年単位ですけれど、それでもたしかに俺は人に戻りつつあった。だからこそ、機会があれば、死ぬつもりだったんです」
わたしが時折見た朝霞くんの闇は、これだったのだろう。人としても、アヤカシとしても生きられず、その枠から脱しようにもその術を封じられている。
自分が、環境が、世界が気持ち悪い。
彼は、わたしよりも逃避したいのだ。
この現実から逃げ出したい。
「ヒナの奴はどうしても俺と生きたいみたいで、だからこそ、俺を傷つけた『コックリさん』を殺し、死のうとした俺に罰を与えた」
「罰?」
「もうしばらくは死ねないってことです」
微笑んでそう言う朝霞くん。
もうしばらくとは、いったい何十年のことなのだろう。
人側からのしばらくなのだろうか。
あるいはアヤカシ側からのしばらくなのだろうか。
考えたくはないけれど、恐らくは……。
「ひなちゃんにとって、朝霞くんはそれだけの――傍にいて欲しいと思えるほどの存在ってことなんだね」
「どうなんでしょうね。あいつの本心を聞いたことがありません」
「訊いてないだけでしょ?」
「そうとも言います」
朝霞くんが微笑む。
わたしも微笑む。
それだけで充分だった。
それだけしか、できなかった。
「朝霞くんはさ、『コックリさん』のことも助けようとしてたんだね。自分一人が犠牲になれば、他が助かる。そんなこと言ってた」
「そうですね」
「ひなちゃんに罰を与えたかったの?」
「そうかもしれません。だけど、やっぱりわからないんです。自分が本当に死のうとしていたのか、それともただの悪戯心だったのか。必ずヒナの奴に延命をさせられるとわかっていたのだから、後者も充分にありえます。けれど、そうならば、小谷さんと鳴にあんなことを頼んだりはしないと思うんですよ」
「現実から逃げることはできない――ってひなちゃんに言われたのが、なんだか意味深に思えてきたよ。あれはわたしだけに対する言葉じゃなかったのかもしれない、なんて考えちゃうよ」
「もしかしたら、ヒナもまた
「でも、それは叶わない」
「そうです。人も、アヤカシも、この世界で生きていかないといけない。この世界から外に流れることはできない。世界は、俺たちが思っている以上に、広く、そして深い」
「それは、なんの学問に属するんだろうね? 心理学? 神学?」
「哲学っぽい気がします。そっちの方へ進むんですか?」
「ちょっとね、そう考えてるんだ。わたしはこの力と向き合おうと思ってるから、それならこの力を生かしたいなって」
「気をつけてくださいね」
「朝霞くんも」
「俺は大丈夫ですよ。小谷さんや常名ちゃんのように現実と向き合って立ち向かおうと、受け入れようとしていませんから――だけど、だからこそ失敗したのかもしれませんね」
「どういうこと?」
「懸命に生きようとする二人を見てしまったから、俺は未練ができてしまったかもしれない、ということです」
朝霞くんの家を後にして、わたしの住むマンションまで徒歩で帰った。それなりの距離はあるし、日差しもきつかった。
エレベーターに乗り込み、迷うことなく最高階のボタンを押す。
扉が開き、屋上へ出るための階段を上っていく。
鍵は開いていた。
空が近かった。
手を伸ばしたくなるほどに。
こんなにも清々しい気分はいつ以来だろう。
善孤のときよりも、気分がいいかもしれない。
あのときとは違う?
そう、違う。
これは同じ感情ではない。
似ているけれど、異なっている。
異なっているから、似ている。
街を見下ろす。
すべてが小さい。
見渡せるほど狭い。
そう感じるほど、自分の世界が縮小しているのだ。
ここだけが世界ではない。
世界はもっと広い。
目に映らなくても、
音が聞こえなくても、
肌に感じることがなくても、
世界は、そこにあるのだ。
人とアヤカシ。
同じ世界に住み、相容れない存在。
けれど、どこかで彼らから助けてもらっているのかもしれない。
気付かないだけで。
気付けないだけで。
本当は関わり合っている。
朝霞くんの家から出るときに、ひなちゃんから一枚のメモ用紙を貰ったのを思い出す。
ポケットからそれを取り出す。
小さく折り畳まれていた。
広げる。
《 『コックリさん』は人の中にいる 終わりはない 》
そう書かれていた。
「人の中、か」
アヤカシは、人が生み出すモノだ。
人がいなければ生み出されない。
彼らの意思では決して生まれない。
噂。
都市伝説。
そう言った類がなくならない限り、彼らは現れる。
そしてそれはなくならない。
だから終わらない。
まだまだ終わることを知らない。
どこまでも続いていく。
わたしたちは、共にこの世界を生きていくのだ。
この目に映る、小さな世界を。
わたしの小さな世界 鳴海 @HAL-Narumi
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