第27話

 どうしよう。


 どうしよう、どうしよう。


 わたしは必死に朝霞くんを助ける方法を考えていた。


「勝手なことを言ってくれるな」


 顔を上げると、鳴さんが立っていた。いつからそこに現れていたのかわからないけれど、朝霞くんの横、つまりわたしの正面で視線を落としていた。その先には朝霞くんしか映っていない、と思った。よくわからないけれど、鳴さんはわたしを見ようとはしない。無理に視界から外している。


 鳴さんはその冷たい視線を向けたまま言う。


「目的は果たせそうか?」


「どうだろう……。お前がここにいるということは、果たせない可能性の方が高いな。逃げてきたのか?」


「戦略的撤退だ」


「ものは言いようだな」


 朝霞くんが瞼を閉じたのと同時に、突然、辺りの木々がざわめきだし、わたしの身体が震えあがった。二人は全く動じなかった。


 ざわめきは、ただ木々が揺れ動いているだけではないように感じられた。その他にも――たぶんアヤカシたちだろうけれど、彼らがなにかを感じ取ったのかもしれない。人が気付けないような気配をアヤカシは感じることができる。天候や、危険や、異常などをいち早くその身で感じ取れる。彼らだけではない。動物もまたそういったことには敏感な反応を見せることがある。その点では、人は大きく劣っていると言えるし、あまりにも無防備過ぎる。自分たちに危険は及ばないと、誰もが心のどこかで思っているのだ。


 一分もしない内に、辺りは静けさを取り戻した。


 朝霞くんは瞼を閉じたままだ。


 救急車を呼ぶべきなのだろうか、とわたしはようやく思い至った。あまりにも衝撃的なことが目の前で起きたせいなのと、あまりにも本人が落ち着いているために、そこまで考えを巡らせることができなかった。


 しかし、不覚にも携帯電話を持っていなかった。携帯しない携帯電話になんの意味があるのか、わたしは自分を叱りたかった。必要なときに持っていないなんて、馬鹿にも程がある。代表格と言ってもいい。


 今、わたしにできることはなんだろう。


 朝霞くんを背負って下山する?


 そんなことはできない。ただでさえ体力のないわたしに、そんな力があるはずもない。あったとしても、朝霞くんを動かしていいものか疑問である。下手に動かせば、出血が酷くなるかもしれない。


 あれ?


 ふと、なにかが引っ掛かったような気がした。本当に突然で、いつの、どこが気になったのかがわからなかった。それは、そう簡単には拭えそうにない。なにか重要なことを意味しているような気がした。


 鳴さんの足元を見ると、ぎりぎり血だまりに踏み入れていなかった。すぐ近くにいるようで、きちんと距離を取っている。


 これが、鳴さんの朝霞くんに対する距離なのだ。


 二人にちょうどいい距離。


 わたしは血だまりの中。


 逆の立場のときに、朝霞くんはどこにいてくれるのだろう。


 その場に立ち会ってくれているだろうか。


「来たぞ」と鳴さんが言ったのと、「来たか」と朝霞くんが呟いたのは完全に同時だった。全く動揺を見せない二人の身体が反応を示していた。


 ゆっくりと二人の視線が、わたしの背後、つまり階段へと向けられる。


 それに釣られて、わたしは振り返った。


 日の出のようだと思った。


 暗い世界を照らすかのように、その太陽はゆっくりと昇ってくる。


 赤く煌めく光が、暗い世界を蹂躙していく。


 炎が、木々を燃やしていくように。


 現れたのは、ひなちゃんだった。赤い髪が、赤い瞳が、煌めいていた。燃えるように、揺らめいている。


 あんなひなちゃんを見るのは初めてだ。


 燃えるような状態ではない。


 その雰囲気が、殺意で満ちていた。


 そんなことを感じることができないわたしにでさえ、痛いほど伝わってくるのだから、相当なものだということが、容易にわかる。


「――朝霞は、どこ?」


 わたしに言ったのか、鳴さんに言ったのかわからなかった。


 誰も答えないでいると、ひなちゃんは辺りを見渡し始めた。たぶん、現状を把握しようとしているのだろう。なにがあったのかを確かめている。


 静かにこっちへ向かってくる。そのとき感じた威圧に、わたしは意識が途切れかけてしまった。本当にギリギリだった。


「朝霞……」


 ひなちゃんは、朝霞くんを見つけ呟いた。わたしたちとの距離は二メートルほどだ。血だまりはそこまで広がっていない。


 赤い煌めきが、すうっと淡くなっていき、いつもの状態に戻る。


「そこ、退いてくれる?」


 これは明らかにわたしに対する言葉だ。


 しかし、わたしは思ってもなかったことを口にした。


「嫌だ」


 一瞬、はっとしたけれど、すぐに朝霞くんのお願いを思い出していた。ひなちゃんを近づけさせないで欲しいというお願い。聞き入れるつもりはなかった。朝霞くんをどうにかできるのは、ひなちゃんだけだと思っているからだ。


 けれど、わたしはひなちゃんの言葉を拒絶した。


 そうする気はなかったのに……。


「朝霞をこのままにする気?」


「わたしだって、このままにするつもりはないよ。だけど、朝霞くんから頼まれてるから、ひなちゃんを近づかせることはできない」


「ヒナは容赦しないよ。朝霞の友達だろうと、邪魔をするならその命をもらう。朝霞の命に替えることはできないからね」


「ひなちゃんは、どうして朝霞くんがこんなことをわたしに頼んだのかわかるの?」


「わかるよ」


「わかってるのに、朝霞くんに近づくんだ」


「わかってるからこそ、近づくんだよ」


 赤い瞳が、わたしを見下ろしていた。このとき初めて、彼女を心の底から怖いと思った。その美しい瞳から目を離せない。


「小谷ちゃんは、このままだと朝霞がどうなるかわかってるよね? どうなってしまうかわかってるのに、朝霞の頼みを遂行しようとするんだ」


「……わたしは」


「朝霞に死んで欲しいの?」


「そんなことない!」


 そんなことあるはずがない。


 あるはずがないのだ。


 だけど……。


「わたしは、朝霞くんの頼みを無下にはできない」


「そう」と、ひなちゃんは言うと、冷たい視線をわたしから外し、鳴さんの方へと移した。わたしは緊張から解放され、安堵が身体中に広がった。しばらく、動けそうになくなっている。声も出せそうにない。


「お前は、朝霞を死なせるつもりなの?」


「そいつがそう願うのなら、そうしてやるのが最善に決まっているだろう。お前は、人と関わり過ぎたんだ――こいつに踏み込み過ぎている」


「悪い?」


「悪いとは言っていない。私だってお前のようであるからな。他にも似たようなアヤカシがどこかにいるだろう。けれど、お前とは影響力が違う。私たち下位の存在では考えられないような影響を、お前は与えることができる」


「ヒナの正体がわかってるみたいだね」


「わからないさ。ただ、そうなんじゃないかと思っているものはある。それは間違ってはいないが、正しくもないだろう。そういう存在だろう?」


「そうだね」


「そんなに朝霞を生かしたいのなら、私やその娘をさっさと始末してしまえばいいというのに、心のどこかで拒否しているようだな。余程、朝霞に嫌われたくないようだな」


「嫌われることなんて怖がってない」


「ほう」


「もともと朝霞はヒナのことを嫌悪しているし、そんなことなんていまさらだよ」


「だとすれば、お前がそこまで朝霞に執着する理由はなんだ」


「話す義理はないよ」


 二人の会話を耳にしながら、朝霞くんの状態を確認する。顔色は悪くない。汗も出ていない。不思議な状態であった。両腕がなくなり、出血もかなりしているはずなのに、朝霞くんは何事もないような顔をしている。自分を捨てているからとか、そういう問題ではない。いくらなんでもここまでは抑制できるとは思えない。


 なにが起きているのかわからなかった。


 これも『コックリさん』の影響なのだろうか。


「時間がない」


 ひなちゃんはそう言った。


「朝霞を助けるのが、ヒナの役目なんだ。朝霞を死なせないことが、ヒナのやるべきこと。朝霞の命は世界よりも重い。世界の道理を無視してでも――」


 背後から強い衝撃を受けた。視界に色濃い靄がかかり、朝霞くんの姿が見えなくなっていた。前のめりに倒れる感覚はある。朝霞くんに負担をかけてしまわないだろうか。


 なにかをされたのだろう。


 殺されてしまったのだろうか?


 それもわからないまま、わたしの意識はゆっくりと途切れていった。

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