第二章『二人の 恋愛ごっこ』
比呂とホークは当事者の僕そっちのけで、移動指示車の中でかれこれ小一時間は言い争っていた。
「ふざけんな! 国の都合のために、人一人の自由を奪うってのか!? 憲法違反もいいとこじゃねぇか!!」
「運命の子供を傷つけることも、立派な憲法違反だ。それとも君は、その人一人の自由のために全世界が犠牲になってもいいと言うのか?」
僕と比呂はホークに案内され、近くに停まっていたアルミコンテナ付きのトラックに乗り込んだ。ホークは僕だけを連れてこようとしたのだが、比呂もついていくと言い張り、そこでまたひと悶着あったのは言うまでもない。
それはともかく、この車そのものがフェイト部隊の基地であり要なのだそうだ。
――運命の子供の監視と護衛を兼ねた実戦部隊、それがフェイトだということを、ホークは誇らしげに語った。
この車がぱっと見はただのトラックなのも、運命の子供に近づいて監視するため、どこにいても不自然ではないように見せるためだそうだ。
しかしその実態は防弾処理やハイテク装備を満載した特殊車両。事実、この車には篠宮を監視するための装備が満載だ。
その他にも機動部隊として、私服の監視兼戦闘員が常時三十人体制で篠宮を尾行しているらしいし、このトラックと同様に防弾処理を施した乗用車タイプの特殊車両が計十台、さらには武装ヘリが二機、交代制で常時上空から任務に就いているらしい。
左の壁一面を埋め尽くした薄型モニターを見ると、それを裏付けるように篠宮の家らしきものが三百六十度、ありとあらゆる角度から映されている。
さらには
それはつまり、さっきの告白のシーンもここでモニターされていたということだ。
そう思うと、今更ながら照れくさい。
「おいカツキ! お前からもこの石頭に一発言ってやれ!」
「……口の利き方には気を付けたほうがいいぞ? 俺にかかれば、君が瞬きしている間に君の身体を地面に転がすことだってできるんだからな?」
少し話してみてわかったが、ホークは基本的に直情的な人間だ。だからこうして、比呂の挑発にも簡単に乗ってしまう。
「やってみるか? そう簡単にゃいかねぇぜ?」
「ほう……」
がた、がたと、二人が椅子から立ち上がる。
「ちょっとちょっと。二人ともやめなって」
僕は比呂の腕を掴んで言った。
「なんだカツキ? あいつの肩を持つのかよ!?」
「そうじゃなくてさ。ここで殴り合いしたって、なんの解決にもならないだろ?」
比呂は僕の腕を振り解き、
「じゃあお前は、納得もできねぇまま言いなりになるのか?」
「それは嫌さ。だから、まずは話し合うよ。妥協点っていうのかな。お互い譲歩できる所は譲歩してさ」
「なるほど。勝紀君は交渉というものを知っているようなだな。だが――」
ホークは椅子に腰を下ろし、僕を見据えた。
「君はなにか勘違いをしているようだ。もう一度言おう、これは交渉ではない。――『命令』だ。君に拒否権や妥協の一切は許されない」
そう言って、ホークはモニターの前に座っているオペレーターらしき女性隊員に耳打ちした。隊員は無言でうなずき、キーボードを叩く。
するとモニターの映像が切り替わり、なにやらグラフのようなものが現れた。
「これは……?」
「犯罪発生率? これがどうしたってんだよ?」
僕と比呂の疑問に、ホークは椅子をきしませながら即答した。
「十五年前から現在までの、犯罪発生率の推移だ。いいか、よく見ろ。現在の犯罪発生率は十五年前のおよそ四十%……。それだけじゃない。災害発生率、交通事故発生率、およそ人の生き死にに関する全ての事象の発生率が、軒並み激減している。それもこの国だけではない。全世界規模で、だ。これがどんな意味を持つか、わかるか?」
「……運命の子供」
僕は息を呑みながら答えた。
そう。これが彼女、篠宮理恵が運命の子供と呼ばれる
この世界には運命の子供と呼ばれる子供がいて、その子が怒ったり悲しんだりすると、世界は大変なことになるらしい……物心つく前から、親や先生に聞かされてきた話だ。
それが事実だとすると、理恵は生まれてから今日まで、怒ったり泣いたりしたことがないということになる。
――それはそれで、信じがたい。
モニターの映像が切り替わり、ホークは言葉を続けた。
「これは十五年前当時の新聞だ。『集団同時
「そりゃな。小学校……いや、下手すりゃもっと前から聞かされてきたからな。耳タコだっての。なぁカツキ?」
僕もうなずく。
集団同時空耳事件。
十五年前のある日。全世界の人たちが同時刻に、『何者か』の声を聞いた。起きていた人はもちろん、寝ていた人は夢の中でそれを聞いたそうだ。
確か、その内容は――
「今、この瞬間に生まれた赤子に、世界の『運命』を背負わせた。その子を怒らせるな。その子を悲しませるな。その子が笑顔なら、世界の全てが平和なのだから……」
ホークが腕組みしながら、唱えるようにつぶやいた。
「……俺は今でも覚えてる。あの声が聞こえたとき、不思議なことに機械にはなんの反応もなかったようだが、それ故に信じられる。間違いなくあの声の主は――人を超えた存在だ」
僕にはわからないが、きっとその声を聞いた人はみなそう思ったのだろう。欧米諸国では、『集団同時託宣事件』と呼ばれているほどだ。
ホークはさらに続けた。
「国民、いや、全世界の人間も俺と同じ意見が大多数だった。さすがに当時の政府も事を重く見て、調査を始めた。すると、ある事実が判明した。……これは、一般には公表されていない情報だ。君たちの胸に留めておいて欲しい」
そう言って言葉を区切ると、思わせぶりに続けた。
「集団同時空耳事件のあったあの日――全世界で生まれた子供は理恵一人だったんだ。それも彼女が生まれてから二十四時間は、全ての犯罪、災害、事故の発生が記録されていない――!」
空気が、静まり返った。
低くうなるようなコンピューターの稼動音が、やけに耳についた。
ホークは煙草を取り出して火を付けた。空調が完璧に整備されているのか、煙はすぐに天井のダクトに吸い込まれて消えた。
「……君が告白された理恵という少女は、そういう少女なんだ。欧米諸国では彼女を聖母マリアの再来と崇め、神聖視している団体もある。我が国にしてもそうだ。宗教抜きにして、彼女を傷つける恐れのある者は全て排除すべしという、過激思想団体も存在する。俺たちが君に接触したのは、そういう輩から君を守るためでもある」
……なるほど。
確かに、そういった極端な思考をする人たちも、世の中にはいるだろう。
もし彼女をフったら、厳罰を受けるだけでなく、命の危険すらあるわけか――。
「もし君が、なにがんでも命令を拒否するようなら、こちらにも考えがある。薬物による強制的な思想改造――洗脳だ」
「なっ……!? てめぇ、人をなんだと――」
「もちろん、それは最悪の手段だ。俺たちもそんなことはしたくない。いいかい、勝紀君。彼女を守るということは、全世界の人たちを守るということ。彼女を傷つけることは、全世界の人たちを傷つけることと同義だ」
守る――
そうか。
そんな発想はなかった。彼女と付き合うことは、結果的に大勢の人を守ることになるのか。
彼女と付き合うか、付き合わないか。
どちらを選んでも、デメリットばかりなら――
「――彼女と、付き合ってくれるね、山口勝紀君?」
「……はい。わかりました」
僕は、少しでもメリットが多い方を選ぶ。
「カツキ……。お前、ホントにいいのか?」
「うん。決めたよ。それにこうすれば、志摩先輩への恩返しになるかもしれないし。……ただの自己満足かもしれないけどね」
そう言って、僕は微笑んだ。
この言葉に、偽りはない。
「そっか。それがお前の出した結論なら、俺はなにも言わねぇ。……がんばれよ、カツキ」
比呂は僕の肩に手を置き、同じように微笑んでくれた。
「……話はまとまったようだな。理性的決断に感謝する。では、話を次に進めよう」
ホークがぱちんと指を鳴らすと、隊員が小さな箱のようなものを運んできた。ホークは箱を開けて中に入っていた肌色のイヤホンのような物を取り出し、僕に手渡した。
「これは超小型の無線機だ。半径一キロ以内なら受信可能だ。少し実験してみよう」
促されるまま、僕は無線機を耳に押し込んだ。
「へぇ。ぱっと見は無線機を耳に仕込んでるなんて気付かねぇな、これは」
比呂が感嘆の声を上げた。
ホークはモニター脇のマイクを取り外し、顔の前に置いた。その顔はどこか嬉しそうだった。まるで、子供が新しい玩具を与えられたときのような――
「どうだ。聞こえるか?」
『どうだ。聞こえるか?』
眼前のホークの声と、マイクから聞こえるホークの声がかぶった。
「はい。感度良好です」
事実、音声は限りなくクリアだった。
だが、ひとつ疑問が残る。
「あの。それで、この無線機はなんに使うんですか?」
「おっと。説明の順序が逆だったな。君にはこの無線機を通して、彼女――大島の指示に従ってもらう」
名を呼ばれたオペレーターの女性隊員が、軽く会釈した。
「大島よ。よろしく」
二十代後半くらいだろうか。小柄な、目のパッチリとした美人だった。だがそこはフェイトの隊員。凛としたよく通る声からは、しっかりとした意思の強さが感じ取れた。
「はぁ」
生返事。指示といわれても、よくわからない。
僕が怪訝そうな顔をしていると、ホークが補足してきた。
「指示というよりは、命令だな。君が不用意な発言や行動で理恵を傷つけないよう、理恵との会話内容はこちらで全て指示する。それ以外の言動や行動は許されない。命令違反した場合――理恵を傷つけたときと同等の厳罰を処すので、そのつもりでいてくれ」
「おいおい! それじゃカツキがあんまりだろ!? カツキはお前らの操り人形じゃねぇんだぞ?」
「では聞こう。君たちのような経験不足の少年少女が、恋愛関係というもっとも感情が揺れ動きやすい関係を、長期に渡ってなんの問題もなく維持できると思うのか?」
「はん! じゃあなんだ? てめぇらは経験豊富な大人だから間違うことはないってのか? 絶対の自信があるってんだな!?」
ドン! と、比呂は壁を叩いた。
だが、ホークはたじろぎもせずに、
「ある」
と、即答した。
「確かに、大人だから間違わないという保証はどこにもない。いや、そもそも完全な人間なんか、いるはずないのだからな」
「だったら――」
「命令を出すのは俺じゃない。最新鋭のスーパーコンピューターだ。こういう日――運命の子供が誰かを好きになる日のために開発が進められていた。会話の流れや微妙なアクセントの変化から相手の心情を瞬時に予測、無限に近いパターンのシミュレーションから導き出された、最適の言葉を用意する。俺たちの役目は、そのコンピューターと勝紀君とを繋ぐただの通訳だ」
ホークはフッ、と小さく笑った。
彼なりの皮肉だったのかもしれない。
世界の命運を、機械に任せざるを得ないことへの――
比呂は、なにも言わなかった。ただ、冷ややかな視線をホークに送っていた。
それに気付いたのか、ホークは噛んで含めるように、静かに言葉を紡いだ。
「理解して欲しい。俺たちの任務は、運命の子供の心身を守ること。そのためなら、どんな犠牲をもいとわない。例え、一人の少年の青春を台無しにしようと、だ。勝紀君には、本当にすまないと思っている。もしかしたら君は、一生本当の恋愛はできないかもしれないのだから……」
「それはつまり――」
本気で彼女を好きになる必要はない、ということか。
重要なのは彼女と付き合うことではなく、彼女が傷つかないこと。
「――演技で、十分なんですね」
僕の言葉にホークはうなずいた。
比呂は小さく舌打ちした。
怒っているのかもしれない。
僕が、こんな理不尽な命令に承諾したことを。
そして、悔しいのかもしれない。
理不尽と理解しつつも、なにもできない自分自身の無力さが。
ホークは煙草を灰皿に押し付けて火を消し、椅子から立ち上がった。
「……君は本当に物分りのいい少年だな。それが君の処世術か? まぁ、俺たちにしてみれば好都合だがな。ではその無線機は極力身に付けていてくれたまえ。理恵との会話内容の指示以外にも、緊急時の連絡手段も兼ねている」
「わかりました」
「よし。では明日の放課後、さっそく理恵に告白の返事をする。いいか。指示に反する言葉を言った瞬間、君は法廷に立つことになる。それだけは重々注意してくれたまえ」
「はい」
ホークは小さくうなずいた。
「それと、今日から勝紀君にも軽い監視を付けさせてもらう。なに、プライバシーの侵害はしない。護衛と思ってくれればいい。君は、今となっては運命の子供に次ぐ世界的重要人物だ。そのことはしっかりと自覚しておいて欲しい。――では、特訓を始める」
「え? と、特訓ですか? いったいなんの!?」
「決まっているだろ。理恵との会話の、だよ。こちらの指示が聞こえてから、実際に君が言葉を発するまでの時間差――タイムラグを短くしたりとかな。理恵とスムーズな会話をするためには、クリアしなくてはならない課題が山積みだ。では大島、頼むぞ」
「了解です。さて、勝紀君、だったかしら? 呼びにくいから、その子をまねてカツキ君、って呼ばせてもらうわよ。いいわね?」
「え? あ、はい」
物腰は穏やかなのだが、有無を言わせぬ迫力が、彼女にはあった。
「オーケー。では早速始めるわよ。まずは発声練習から」
「大島のレッスンはスパルタだぞ。勝紀君がどこまで耐えられるか、見ものだな」
「カツキ……がんばれよ。影ながら応援してやってるからな」
僕は、とんでもないことを引き受けてしまったのかもしれない――と、今更ながらに思った。
※
翌日の放課後。
場所は、昨日と同じ体育館裏。
昼間、僕は指示に従って篠宮の机に手紙を入れた。
放課後、体育館裏で待ってます――と。
『勝紀君。基本的な流れは、すべて打ち合わせ通りにすればいい。もし予想外のことがあっても、すぐにこちらがサポートする。なにも心配するな』
(了解しました)
ホークとの通信に、僕は小声で応答した。その直後、大島さんからアナウンスが入る。
『理恵との接触まで、十五秒。
しばらくすると、夕暮れの長い影を地面に落とし、篠宮が現れた。
『昨日はどうもありがとう、篠宮さん。チョコレート、おいしかったよ』
「昨日はどうもありがとう、篠宮さん。チョコレート、おいしかったよ」
「う、うん。ありがとう」
無線機越しに聞こえる大島さんのセリフを、一字一句間違えることなく
だが言葉以上に注意しなければいけないのは、表情だ。
表情と言葉との間に違和感が生じるのは、なるべく避けなくてはいけない。とは言え、大島さんの指示を聞いて、言葉の裏にある感情を理解してから表情を作っていたのでは間に合わない。
重要なのは、会話の流れに乗ること。
ただセリフを追いかけるのではなく、全体の流れを把握し『役』を掴む。
やっていることは、本物の俳優と同じだ。
一夜漬けとは言え、昨日みっちり練習した甲斐があった。ぶっつけ本番だったら、こんなに落ち着いて『演技』はできなかっただろう。
「それで、昨日の返事なんだけど……」
「あ、うん!」
少しだけ、彼女がぴくっと身を振るわせた。
それに、あのコンピューターの精度も凄い。
篠宮の返事や反応、全てがコンピューターの予想通りだ。ホークが言うには、十五年間に渡って篠宮の言動や行動を観察して、その思考を解析してきた結果なのだそうだ。
言わばあのコンピューターは、もう一人の篠宮理恵だ。
そのもう一人の篠宮理恵が「こうされたらわたしは嬉しいよ」という付き合い方を僕に教えてくれるのだ。
間違いなど、起きるはずがない。
「僕も君のこと、気になってたんだ。君の気持ち、とっても嬉しいよ」
「あ……! ありがとう。こんなわたしですけど、よろしくお願いします……」
彼女はそう言って、顔を真っ赤にしながら右手を差し出してきた。
僕も右手を差し出し、握手を交わした。
――怖いくらいの予定調和だった。
篠宮は、満面の笑顔を僕に見せてくれた。
僕も、多分、笑い返していたと――思う。
※
そして、僕の生活は一変した。
登校の途中、僕はコンビニで雑誌を立ち読みしていた。これは今までとなんら変わりない、日常のひとつ。
だが――。
「勝紀君。理恵が接近中だ。今日の会話は、序盤はパターン1Dで行くぞ。話しの展開によってはパターン9A、パターン9Cにも派生するので、注意せよ。通信は俺にも回してある。心配せず、いつものとおりにやればいい」
僕の横で客に混じって立ち読みしているホークが、小声でそう言った。
『隊長、カツキ君。接触まで三十秒よ。
(了解)
「おはよう。山口君」
「ああ。おはよう」
僕は雑誌を棚に戻すと、篠宮と一緒に店を出た。
このコンビニがある十字路で、僕たちは通学路が一緒になる。ここで待ち合わせをして一緒に登校するのが、今では日課となりつつあった。
ちらりと後ろを振り返ると、ホークが一定の距離を保って尾行している。
全身黒ずくめのホークは学生だらけのこの通学路では目立つはずなのだが、不思議と周囲に溶け込んでしまっている。気配を消す――とは、こういうことを言うのだろう。
きっと彼は、今までもこうして人知れず篠宮を守ってきたのだ。
――あのバレンタインデーからおよそ一ヶ月。
早いもので、もう三月だ。
「今日は暖かいや。三月になって、だいぶ暖かくなってきたよね。一ヶ月前は、まだ寒かったのに」
「そうだよね。わたし寒がりなのに、このコートじゃもう暑いかも」
今となっては、この程度の会話は呼吸するように簡単にできる。振る舞いも自然になってきたと思う。
毎夜のようにしてきた特訓も、一週間前に免許皆伝(?)を承り、卒業した。これでもう大島さんのレッスンを受けなくていいと思うと、心の底からうれしかった。。
「よう、カツキ! 今日も仲が良さそうでなによりだ」
どこから現れたのか、比呂が軽くタックルかましてきた。
「なんだ、比呂か」
「なんだはないだろ、なんだは。これでもお前が不埒な行為に及ばないか、常日頃から監視してやってるというのに」
「な……!?」
いきなりとんでもないことを言う。
篠宮は――!
顔を真っ赤にして固まっている。
『大丈夫よ、カツキ君。理恵はただ照れているだけ。依然、問題はないわ』
よかった。一時はどうなることかと思ったけど……。
どうやら比呂は、コンピューターの力を借りずとも、篠宮の扱い方を心得てしまっているようだ。
「まったく。比呂の言うことはいつもいつも、大きなお世話なんだよ」
「そう言うなよ。理恵ちゃんのことで困っても、アドバイスしてやらないぞ」
「そうだよ、山口君。友達はもっと大切にしないと、ダメだよ」
まるでお小言のような言葉だが、篠宮は笑っていた。なんだかんだで、篠宮もすっかり比呂と打ち解けてしまっている。
あのコンピューターの凄いところは、篠宮と二人きりでなくでも通用するところだ。
さっきのような突然の乱入者にも冷静に対処し、篠宮の心象を損ねないような乱入者への対応を指示してくれる。
「あら、偶然ね」
びくっと、僕の心臓が跳ね上がった。
この声は――
「……志摩先輩」
最悪の乱入者だった。
篠宮は、不思議そうな顔で僕を見ている。
「知り合い?」
「あ、うん。姉さんの友達でね。昔、助けてもらった恩人だよ」
――先輩の左手の傷が、いやでも目に入ってしまう。
そう。このコンピューターの凄いところがまだあった。
一ヶ月かけて僕のデータを入力したことで、僕の思考も不完全ながら再現できるのだ。これで、より自然に、より確実に『僕を演じる』ことが可能になった。
この学習機能がなければ、今の対応もできなかっただろう。
決して嘘はついていないが、ぼかすところ――僕の志摩先輩への感情はしっかりぼかす。
「へぇ、そうなんですか。わたし、篠宮理恵です。よろしくお願いします」
そう言って、篠宮は軽くおじぎした。
先輩は優しい眼で、
「……ふふ。かわいい彼女ね。篠宮さん。勝紀君のこと、よろしくね」
と言って、手を振りながら僕らを追い越していった。
その背中が、だんだん小さくなる。
――違うんだ。先輩。僕が本当に好きなのは……!!
『カツキ君!』
大島さんの声で、はっと現実に引き戻された気がした。
『……理恵の前よ。気を抜かないで』
(はい……すいません)
「彼女……だって。なんか、照れるね」
篠宮はそう言って、照れ笑いを浮かべていた。僕の動揺には気がついていないようだ。
「そ、そうだね。僕もだよ」
なんとか取り繕う。
表情に、違和感はないだろうか――?
自分の感情を押し殺すのが、こんなに辛いものだとは思わなかった。
「なぁに照れてんだよ、お前ら! しょうがない、ここは一発、この俺がキューピッド役に――」
「だから! 比呂は黙っててよ!」
いつもの僕と比呂のやり取り。
比呂のおかげで助かった。なんとか流れを変えられたのだから。
篠宮も笑っていてくれてる。
結局、学校に着くまで始終こんな感じだった。
これが、今の僕の日常――
篠宮と会う度に……もう一人の僕を演じるのが上手くなるのにつれて、僕の心の中で『なにか』が壊れていく気がする。
※
――視線が、痛い。
校内のどこに行っても、その視線が送られなくなることは、ない。
声が、聞こえる。
哀れみの声が。
《可哀相に――》
憎悪の声が。
《おまえのせいだからな――!》
両者に共通するのは『運命の子供』という言葉。
運命の子供と付き合うことになって、なんて可哀相なんだろう、と思う人。そして、運命の子供になにかあって、世界が大変なことになったらおまえのせいだ、と憎悪を燃やす人。
どちらの感情も理解できる。
――もし。
もしも篠宮の相手が僕でなく別の人だったら、僕もどちらかの感情を抱くだろう。
――だけど。
なぜ、よりによって僕だったのだろう?
僕と篠宮に、接点と呼べる接点はなかった。せいぜいが同じクラスという程度。それなのに、なぜ、彼女は僕を好きになった?
わからない。
わかるはずもない。
でも、たったひとつわかること。
それは、僕の日常とみんなの日常が確実にずれ始めていると言うこと。僕は既に、『向こう側』の住人なのだ。
ぎぃ……。
ドアを開くと、そこは一面の青空だった。
ああ。姉さん。
僕も、そっちに行っていいかな?
ふらふらと、雲を掴むように手を伸ばす。
「カツキっ!!」
ぐいっと、反対の手を掴まれた。
「あれ……比呂?」
「あれ、じゃねぇだろ! 死ぬ気か、お前!?」
比呂に怒声を浴びて、僕はようやく自分の置かれた状況を確認し――絶句した。
僕の目の前で屋上のフェンスが途切れ、頼りない二本のロープが張られているだけ。このまま一歩でも踏み出していたら……。
想像しただけで恐ろしくなり、僕はその場に尻餅をついた。
「ったく。ふらふらと階段上っていくお前を見かけたから、なにかと思って追いかけてみれば……。しっかりしろよ、カツキ」
「……ゴメン」
比呂はくしゃっと髪をかくと、僕と背中合わせになる形で腰を下ろした。
「お前になにかあったら、理恵ちゃんが悲しむだろうが。こうなったからには、例えどんな方法を使おうが、なにがなんでも理恵ちゃんの笑顔を守ってやれ。それが、理恵ちゃんを裏切り続けてるお前が彼女にしてやれる、最後の良心だろうに」
良心――
そうか。僕の心の中で壊れていたのは、良心だったんだ。
彼女を裏切り続けているという罪悪感。周囲からの冷たい視線。そして、自分の感情を押し殺すという負荷に耐えかねて――
「そうだね。ありがとう。比呂」
うん。大丈夫だ。
彼女が笑顔でいる限り、僕もまだ、僕でいられる気がする。
でも。
「……僕は本当に続けていけるのかな? この恋愛ごっこを」
僕はそう言って、比呂の背中に自分の背中を預けた。比呂も、僕の背中を押し返してきた。
「もし疲れたら、またこうして空でも見ようぜ。お前の姉さんのところに行くためじゃなく、姉さんの優しい心を分けてもらいに、さ」
姉さん……。
僕はまだ、そっちには行けそうにないや。
篠宮――彼女に、償いをしないといけないから。
今日は空の青さが、一段と眼に染みた。
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