彼女のご機嫌≒世界ノ終末/天埜冬景

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第一章『二人の はじまり』

 彼女がご機嫌を損ねると、世界は大変なことになるらしい。


 なにしろ彼女のために、憲法が改正されたほどだ。この国の憲法が改正されたのはこれで二度目。一度目は戦争に負けたときだ。


 そう考えると、彼女の存在は敗戦と同レベルなのだろう。何億もの人が関わった、国と国同士の戦いと、一人の人間が等価というのはちょっと実感できないけど。


 だけど、そんなことは近くて遠い世界の話。

 彼女はすぐ近く、同じ教室にいるけれど、言葉を交わしたことは数えるほど。


 触らぬ神に祟り無しとは、昔の人もよく言ったものだ。

 僕もその通りだと思うし、事実そうやって生きてきた。

 そしてそれは、きっとこれからも変わらないだろう。


 そう、きっと――



 二月十四日。バレンタインデー。


 どこか日常とは違う、そわそわした空気をかき分けながら、僕は愛用のクラシックカメラを肩に掛けて教室を後にした。


 今日は一年に一度のイベント。とは言え、僕にはまるで縁のないイベントだ。

 それでもこうして放課後の校内をぶらぶらと歩く理由はただひとつ。


 今日という日にしか味わえない、一日限りの独特な雰囲気を写真に収めること。


 高校生になって初めてのバレンタインデー。たった一年しか違わないはずなのに、中学と高校ではやはりなにかが違う。廊下を歩く生徒たちの表情も、何気ないちょっとした動作も、どことは明言できないけど違うような気がする。


 傍観者だからこそ気付くことができる些細な差。

 こんなおもしろい日に主観的視点しか持てないのは、むしろ可哀相だとすら思う。


 そんなことを思いながら、僕はカメラのファインダーを覗いた。二十年以上前に作られたこのカメラ。鉄製のボディは重く、この季節は凍えるほど冷たい。吐息でレンズやファインダーが曇らないよう、少しだけ息を止める。


 レンズの向こうには空に張り出した渡り廊下。そして、向かい合って話す少年と少女。夕暮れの赤みを帯びた光が逆光となり、二人の姿をシルエットに変えていた。


 良い画だ、と直感した。


 カシャ――


 バネと歯車、発条ぜんまいが奏でるシャッター音が、僕は好きだ。今となっては、このレトロな音を聞きたいがため、フィルムの巻上げからピント合わせまで手動のクラシックカメラを使っているようなものだった。


 このカメラを使うきっかけとなった出来事は別にあった。

 けれど、使えば使うほど味が出るこのクラシックカメラに、僕はいつしか魅せられていた。


「こら、カツキ。盗撮は犯罪だぞ?」


 ……感慨に浸っている人の後頭部に向かってこんな失礼なことを言う奴は、僕の知る限り一人しかいない。


 と言うか、僕のことをカツキと呼ぶのは一人だけ。山口やまぐち勝紀かつのりだから、カツキ。この呼び方は小学校の頃から変わってない。


 僕は振り向きもせずに顔の見えない悪友に反論する。


「盗撮じゃない。何度言ったらわかるんだ? 比呂ひろ?」


 鈴木すずき比呂ひろ

 僕の悪友にして、親友だ。


「似たようなモンだろうが。本人の許可がない撮影は、みんな盗撮だっての」


 変なところで正論を振りかざされてしまった。屁理屈で反論できなくもないけど、水掛け論になるのは火を見るより明らかだ。

 僕はおとなしく論旨を変えることにした。


「ほっといてくれよ。僕はとにかく、今日のこの雰囲気を写真に残したいんだから」

「はぁ~。カツキよぉ、お前わかってるか? バレンタインデーだぞ? こう『女の子に告白されてみてぇ!』とか、せめて『チョコもらいてぇ!』ぐらいのモチベーションはないのか?」


 きっと比呂のことだ。身振り手振りを加え、いつものようにオーバーアクションで熱弁しているのだろう。

 だが、僕はあえてそれを無視し、被写体を探してカメラを構える。


 ――比呂が鬱陶しい訳ではない。

 言葉は悪いが、こいつは本心から僕のことを心配しているのだ。けれど、それがわかるからこそ、僕は口を閉ざす。


 無償の善意に対応する術を、僕は知らない。

 人と人の関係性の基本はギブアンドテイク。等価交換だ。


 こちらが相手になにかを求めるなら、相手も同等のなにかをこちらに求める。義務と権利。労働と賃金。社会の基本構造からしてそうなっているのだ。


 だから僕は、比呂のようなイレギュラーな存在に困惑してしまう。

 僕から比呂に返せるものなど、なにもないと言うのに――


 後ろで、比呂がため息をついた。


「……ゴメン」


 僕は謝っていた。それが比呂の言葉を無視したことに対する懺悔なのか、比呂の善意に対する懺悔なのかは、僕自身にもわからなかった。


「謝るなっての。いいさ。こっちも慣れっこだしな」


 きっと比呂は笑っているだろう。

 そう思うと、僕も少し微笑んだ。

 と、そのときだった。


「……志摩しま先輩」


 ファインダーの中に映る渡り廊下を、ショートヘアの知的な女性が歩いていた。


 僕の想い人、志摩しま由子ゆうこ先輩だ。


 たった一学年違うだけで、ああまで雰囲気が違うものかと思う。それほどまでに、先輩は大人びて見えた。そして、その雰囲気に似つかわしくない、左手の甲の大きな傷。


 ――そう。等価交換の代表例がまだあった。


 恋愛。

 お互いの想いが少しでも偏ると、その関係はあっという間に壊れてしまう。与え過ぎず、貰い過ぎず。


 僕はきっと、志摩先輩から多くのものを貰えるだろう。いや、。でも、僕から与えられるものは……。


 だから、やはり恋愛に対しても、僕はなにもできずにいた。


「……」


 ぽん、と、比呂が僕の肩を叩いた。


「カツキ。あんまり考えすぎると、一歩も動けなくなるぜ」

「そう……なのかなぁ」

「そういうモンだって! ほら、これでも食って元気出せ!」


 比呂はそう言って、今度は僕の背中をばしばしと叩きながらハート型のチョコを差し出した。


「こ、これって」


 もしかして本命のチョコじゃないのか……?


「いいって。どーせ貰いモンだしよ」


 そういう問題ではないと思う。


 人当たりの良さもあってか、比呂はけっこうモテる。今日もその鞄の中はチョコでいっぱいなのかも知れない。とは言え、なにも他人にあげることはないと思う。プレゼントした女の子が見たら、泣くんじゃないかな……?


「あ、あの……」


 と、僕らの背中に女の子が話しかけてきた。


(まさか、予想的中!?)


 などと、僕は要らぬ心配をしてしまった。


 二人そろって振り向くと、少女がそわそわと落ち着きなさそうに立っていた。恥ずかしいのか、うつむいていて顔はよく見えない。

 これは、もしかして――


 比呂も察したのか、小声で僕にささやいた。


(いいか、カツキ。物事には勢いが大事だってこと、教えてやるぜ)

「おっと、なにかな? ……って、聞くまでもないか。ここじゃ話しにくいだろうから、どこか違うところで――」

「う、ううん。違うの。話があるのは――」


 少女が顔を上げた。

 軽く肩にかかっていたおさげ髪が、はらりと背中に滑り落ちる。


「あなただよ。山口君。ちょっと、いいかな……?」


 僕は、彼女を知っている。

 篠宮しのみや理恵りえ。僕のクラスメイトだ。


 そして――

 日本政府公認『運命の子供』。


 日本国憲法特別条項第一条には、こう記されている。


《運命の子供は世界の動向を握る重要な人物であり、全ての国民は運命の子供の心身を守り労る義務がある。これを破った者には、刑事裁判により厳罰を処す》


 彼女がご機嫌を損ねると、世界は大変なことになるらしい。



 ――近くて遠い世界は、僕が触れずとも、向こうのほうからやってきた。


   ★★★   


 夕暮れの体育館裏。

 二月の風はまだまだ冷たく、白い吐息が向かい合う彼女の姿をかすかに曇らせた。


「あ、あの……」


 彼女が口を開いた。

 用件はわかりきっている。

 僕の心臓は早鐘のように脈を打ち、手にはじんわりと汗がにじむ。


 喉が――かわいた。


 女の子に告白されるかもしれないというときめきでは、ない。

 ――あるのは、ただ単純な緊張。


 相手はあの篠宮理恵である。

 普通に言葉を交わすだけでも神経が張り詰めるというのに。このシチュエーションは、はっきり言ってあり得ない。この後の僕の対応――いや、言葉や単語ひとつで僕の人生は終わるかもしれない。


 そう思うと、今すぐにでもこの場を走って逃げ出したい衝動に駆られる。

 だが、それこそ愚の骨頂だ。

 確実に彼女を傷つけ、僕は人生の半分を檻の中で過ごすことになるだろう。


 ――どうすることもできない。不用意に言葉を発することも、逃げ出すことも。無間地獄だ。


 結果、僕はただ黙って立っている。


 ああ、そうか。

 僕はまったく同じ対応を、比呂と篠宮というまったく違う二人にしている。そんな自分自身に対する皮肉を思うと、少しは気が楽になった。


 遠くから、部活中の生徒のよく響くかけ声が聞こえた。

 それが合図だったかのように、彼女は鞄から取り出したアルミホイルの包みを両手で差し出してきた。


「こ、これ。わたしの気持ち。受け取って……もらえるかな?」

「……あ。ありがとう」


 僕も両手を伸ばし、それを受け取った。

 重さ。触感。十中八九チョコレートだ。


 ここまでは、なんの問題もない。問題はここから。僕の受け答え次第では、僕の人生はおろか、最悪の場合世界すら終わってしまうかもしれないのだから。


 世界――

 実感がない。


 僕の感じる世界は、せいぜい学校と家。最大限に広げてみても、この街が精一杯だ。

 だがもちろん、世界はその周囲にも気が遠くなるほど広がっている。街を越え、国を越え。聞いたこともない国の、顔も名前も知らない人たちの運命すら、今はこの僕が握っている。


 人類史上、どんな人間だって、ここまでの影響力を持った試しはないだろう。


 気が――狂いそうだった。


 僕は今、どんな表情をしているのだろう?

 僕のこの無言の対応は、彼女を傷つけていないか?


 考え始めると空恐ろしい。

 なにをしても、なにもしなくてもダメかもしれない。


 ――あり得ない。


 こんな人間関係はあり得ない。

 等価交換もなにもあったものじゃない。


 そうか。彼女もイレギュラーなんだ。国が、世界が認めたイレギュラー。それが――運命の子供。


「……山口君」

「え? あ。な、なに?」


 まずい。まさか、彼女を傷つけ――。


「ゴメンナサイ。突然こんなもの渡して。……驚くのも無理はないよね」


 そう言って、彼女は照れ笑いを浮かべた。

 よかった。彼女は僕の困惑を、ただ驚いただけと解釈してくれたようだ。

 彼女は話を続けた。


「すぐに返事してくれなくていいよ。わたし自身も、今日はこれ渡すだけでいっぱいいっぱいだし……」

「そ、そう? うん……わかった」


 ――助かった。

 これで、ゆっくり考える時間ができる。


 そうだ。比呂に相談してみよう。あいつなら、なにかいい方法を思いつくかもしれない。こういう色恋沙汰には慣れてるだろうし……。


「それじゃ、わたし行くね。今日は、ありがと」


 こっちの安堵など知る由もなく、彼女はきびすを返して駆けていった。と、ぴたりと止まって振り向き、小さく手を振った。


「また明日。学校でね」


 それだけ言うと、彼女はコートの裾をはためかせて校舎の影に消えていった。

 ふと気付くと、チョコらしきものは僕の手の熱で柔らかくなり始めていた。



「さて、困ったなあ。カツキよ」

「……ホントだよ」


 僕と比呂は公園のベンチに座り、途方に暮れていた。

 薄闇に包まれた公園には、他に人の姿はない。昼間は多くの人が憩いの場としてたであろうこの場所も、夜になると寂しい限りだ。


 校門で待っていてくれた比呂の顔を見たとき、心なしか肩が軽くなった気がした。こいつがこんなに頼もしく思えたのは、今日が初めてだった。


「で、どうする? お前、理恵ちゃんと付き合う気あるのか? あれば話は早いんだけどな」

「……ある訳ないだろ。向かい合って話すだけでも気が変になりそうだったんだぞ。付き合うなんて、想像しただけで恐ろしいよ」


 比呂は「そーだよなー」とか言いながら、ベンチの背もたれにもたれかかった。


「もし俺だったら、って考えると、やっぱ断りたいよな。そこは。でも、そうは問屋が卸さないってワケだ。世知辛せちがらい世の中だよなぁ」

「運命の子供……」


 僕は押し殺した声でぽつりと漏らした。


 もし彼女をフってしまったら。

 僕は彼女を傷つけた罪に問われるだろう。


 もちろん彼女がフられたくらいじゃ傷つかない強い人間だったら話は別だけど、それは分の悪すぎる賭けだ。

 なにより、フったという事実がもし周囲に広まりでもしたら――彼女の気持ちはどうあれ、状況証拠だけで有罪になる可能性は十分ある。


 そしてなにより問題なのは。

 篠宮は自分が運命の子供であることを――知らない。


 憲法の特別条項第二条にはこうある。


『運命の子供、及びそれに関する事柄を、運命の子供当人に感知されることは避けねばならない』


 当たり前である。自分自身に置き換えて考えればよくわかる。

 もしある日突然、自分が世界の運命を握るような人間だとわかってしまったら――少なくとも僕は、軽いパニックに陥るだろう。


 彼女と付き合うことになったとして、その真実を悟られずに接する自身は、まず僕にはない。

 それに――。


「まず根本的問題として、カツキには好きな人がいるしなぁ……」


 僕は無言でうなずいた。


 志摩先輩。

 大事の前の小事と言われるかもしれないけど、世界や憲法がどうのと言う前に、篠宮と付き合うことは僕の気持ち的に納得できなかった。


 なんにも行動を起こさなかった人間が主張できることじゃないかもしれない。

 それでも、僕は、あの人にこだわる。

 いや、こだわらなきゃいけない理由がある。


「僕はまだ、志摩先輩になに一つ恩返ししてないんだ……!」

「カツキ……お前、まだあの時のことを?」

「そうだよ。僕は、先輩に恩返しするためにこの高校に入ったんだから」



 二年前。

 コンコン。

 ノックの音。


「勝紀。比呂君が来てくれたよ? たまには友達と遊んできたらどう?」


 母親の声。

 でも、僕は布団をかぶって動かない。

 コンコン。


「カツキ。外はいい天気だぜ? たまには日の光でも浴びて、羽でも伸ばそうや?」


 やっぱり、僕は布団をかぶって動かない。

 ドアの向こうで、二人がなにか喋っている声が聞こえた。


 やがて、なにも聞こえなくなった。

 それからしばらくは静かだった。


 でも。

 なにか廊下のほうが騒がしい。口論でもしているみたいだ。


 そして。


 ドンドン!

 ノックと呼ぶには乱暴な、ドアを叩く音。


「山口勝紀君! 入るわよ!」


 入れる訳ない。

 ドアには鍵をかけてあるんだから。


 一瞬、外が静かになった。でも、人が息を飲むような声が聞こえたような気がした。


 次の瞬間。


 バキィッ!!

 がちゃ。きぃ……。

 誰かが入ってきた。


「さぁ。外に出るわよ」


 布団が剥ぎ取られた。まぶしい。

 僕は腕を掴まれ、パジャマのままずるずると引きずられように歩かされた。


「志摩さん……」

「志摩先輩!」


 母親と比呂の声。


「大丈夫ですから。私に任せてください」


 僕はそのまま家の外に連れ出された。

 まぶしさに目がくらんだ。


「……あなたのお姉さんが亡くなったのは、本当に気の毒に思うわ。でもね。あなたがそんなんじゃ、お姉さんも安心して天国に逝けないでしょ?」


 天国……。

 あの青い空の向こうに姉さんが?


「……姉さんは、僕のことをすごく可愛がってくれた。おやつだって僕に分けてくれたし、自分が勉強する時間より僕の勉強を見てくれる時間のほうが多かった。僕はいつも『いいの?』って聞いたんだけど、その度に『わたしはお姉ちゃんだからいいのよ』って言って……」

「そう。いいお姉さんだったのね。私もよく、あなたの話を聞かされたわ。『可愛い弟』だ、って話をね」


 そうだ。だから――


「僕はまだ、姉さんになにも恩返ししてないんだ! それなのに、姉さんはもういない! もう、なにも返せないんだ……!!」

「そうかしら? そんなことないと思うわよ」


 そう言って、志摩先輩は一台のカメラを手渡してくれた。


「これ……姉さんが使ってたカメラ……」

「そうよ。このカメラで撮った写真なら、きっと天国のお姉さんに届くわ。いい写真、きれいな写真をいっぱい撮って、お姉さんを喜ばせてあげなさい」


 喜ばせることが……まだ、できる?


「……姉さん」


 僕はカメラを空に向けて、ファインダーを覗いた。

 青い空。姉さんがいる、あの青い空。


 シャッターを切る。


 ――カシャ。


 とてもきれいな、澄んだ音がした。


 そうだ! 思い出した。


「姉さんも、この音が好きだって言ってた……」


 ふぁさ、と、先輩が僕の頭を撫でた。

 その時、初めて気がついた。


「志摩先輩! その手……!!」


 先輩の左手からは、真っ赤な血が流れていた。


「ああ、これ? さっき、鍵を壊すときにやっちゃったみたいね。でもいいの。こんな痛み、あなたの痛みに比べれば、どうってことないから」


 そう言って、先輩は笑ってくれた。


 ああ。同じだ。

 姉さんの親友のこの人は、やっぱり姉さんと同じことをするんだ。


 ――また、貰ってしまった。

 姉さんへの恩は返せそうだ。でも、志摩先輩にも、どうにかして恩返ししなきゃいけない。


 なにかを貰ったからには、同等のなにかを返す。

 それが、この世界の決まりなのだから――



 ――それ以来、僕は志摩先輩を追い続けてきた。どうやって恩を返したらいいのかもわからないまま、気持ちだけ先走り、なにはなくとも同じ高校を受験した。


「……倒錯してるかもしれない。それでも、あの人のそばにいたいという気持ちは、本物なんだ。そして、できることなら、あの時の恩を返したい。僕を青空の下に――あの、姉さんのいる青空の下に引き戻してくれた恩を」


 比呂は、ただ黙って聞いていた。


「そうか。だが悪いな。君には、理恵と付き合ってもらうよ」


 だから、は比呂ではなかった。


 いつの間にか僕と比呂の前に、黒の皮手袋に黒い無骨なブーツ、黒いトレンチコートを羽織った全身黒ずくめの男が立っていた。短く切りそろえた髪は精悍なイメージを与えたが、伸ばしっぱなしの無精髭がそれを台無しにしていた。


 だが、単純に外見だけでは推し量れない、言いようのない威圧感を男は発していた。


 ――そう。眼光だ。

 有無を言わせぬ圧倒的な力を、その眼は持っていた。まるで格闘技の選手を前にしているような――いや違う。これは――


「兵士……」

「カツキ。お前は動くな」


 比呂が立ち上がり、僕と男の間に立ちはだかった。


「おっと、まぁ待て。君たちに危害を加えるつもりは毛頭ない。俺は――こういう者だ」


 黒ずくめの男は懐に手を入れ、黒地に白抜きの字で書かれた名刺を差し出してきた。

 僕と比呂は顔を見合わせた。


「……おい、カツキよ。どうする?」

「どうするもなにも……どうしようも」

「よし。んじゃ逃げるぞ」


 言うが早いか、比呂は僕を引きずるように走り出した。


「おい、こら! まったく、しょうがない奴らだ」


 男がパチン! と指を鳴らした。すると――


 ザッ!

 ザッ!

 ザザッ!


 と、いったいどこから現れたのか、黒服の男たちが僕らを取り囲んだ。

 その数ざっと五人。


「ちっ……」


 比呂は舌打ちし、足を止めた。

 黒ずくめの男は再度僕らの前に立ちはだかり――


「こちらとしても、できれば手荒なことはしたくないんだ。大人しくこちらの話を聞いてくれないか?」


 そう言って、黒い名刺を差し出してきた。

 比呂は観念したのか、奪い取るように名刺を受け取った。そこには――


《日本政府運命省所属 監査機関実行部隊フェイト 隊長ホーク》


 と、白抜きの字で書かれていた。


 ――運命の子供に関するすべてを取り仕切る省庁。それが、運命省。


 だがそれは噂でしか聞いたことがない、実在するかどうかも怪しげな省庁だ。僕もデマだと思っていた。

 その運命省所属という人間が、名刺を差し出してきた。


 幻の生物ツチノコを発見したかの如きありえない事態に固まっている僕ら二人をたたみかけるように、彼はさらにとんでもないことを口にした。


「俺の名はホーク。――と言っても、本名ではない。コードネームだ。君が山口勝紀君だね? すまないが、君には理恵と付き合ってもらう。これは命令だ。拒否権は――ない」

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