第四章『二人の 夢』


 月は変わり四月。

 季節は移ろい、春。


 僕と篠宮、それに比呂は、なんの問題もなく無事に進級した。

 一学年上の志摩先輩は今年で三年生。去年の生徒会長選挙で善戦し、この春から副会長を務めることになっている。


 そして――今日は始業式。

 篠宮は僕の斜め前方に整列している。後方であくびをかみ殺す声が聞こえた。おそらく比呂だろう。


 壇上では、三年生の新生徒会長が挨拶をしていた。


 長く伸ばしたストレートヘアと縁なしの眼鏡がよく似合う、すらっとした長身の女性生徒会長。わずかに寒さが残る板張りの体育館に、彼女のよく通る張りのある声が響く。


『皆さん。私が今年度の生徒会長に就任いたしました、佐野さの真澄ますみです。春はチャレンジの季節です。新入生の皆さんは高校入学を契機に、もっともっと新しいことに挑戦してください。二年生、三年生の皆さんは、後に振り返ったときに彩りある高校生活だったと思えるよう、やってみたいことは全てやってみましょう。そして――』


 彼女は軽く目を閉じ、大きく息を吸い、続けた。


『私には、そのお手伝いをさせてください。皆さんが笑顔で高校生活を送っていただければ、私もこれに勝る喜びはありません』


 そして、深々と礼をした。

 盛大な拍手に見送られ、彼女は厳かに壇から降りた。


 ――この人には、演説の才能がある。

 まさに人の上に立って導く指導者役が天職なのだろう。


 彼女が生徒会長だと思うと、今年一年が楽しく思えてきた。文化祭や体育祭などは、例年とは一風変わったものになるに違いない。そのサポート役が志摩先輩となれば、なおさらだ。


 式も終わり、教室に戻りながらそう思った。


「あの姉ちゃん、やり手だな」

「比呂もそう思った? 僕も今年は楽しみだよ」

「ああ。それはそうなんだがな……まぁいいや」


 比呂はそう言って、ぽりぽりと頭をかいた。

 なんだろう? 比呂にしては珍しく、歯切れの悪い言葉だ。


『カツキ君。後方より理恵が接近中よ。作戦ミッション準備レディ


(了解)


 大島さんから指示が飛んだ。

 ふと思ったが、ホークといい大島さんといい、この人たちはいったいいつ休んでいるのだろう? 二十四時間、三百六十五日篠宮を監視し続けているのに……。


「山口君」

「あ、篠宮」

「おっと。んじゃ、俺は退散しますか。どーぞ、後は二人でゆっくりと」


 比呂がまた軽口を叩いた。

 最近では僕も篠宮もすっかり慣れてしまって、この程度では動じなくなっていた。


「退散って、行き先は同じ教室だろ?」

「細かいことは気にすんなって。んじゃな」


 そう言って、比呂は足早に去って行った。

 篠宮はふふ、と笑いながら、


「相変わらずだね。鈴木君は」

「まぁね。しょうがないよ。比呂は昔からあんな調子だから」

「いいなぁ。親友って言うのかな? そういう関係憧れるな。わたしには、特別仲のいい友達って、いないから……」


 そう、伏し目がちにつぶやいた。


 ――そうか。運命の子供である篠宮と、深い付き合いをしようとする人間などいるはずないのだろう。事情を知ってしまっている側からすれば当たり前のことなのだが、当の篠宮本人はそんなこと知る由もない。


「でも、篠宮にはいっぱい友達がいるじゃないか? いつも篠宮を助けてくれる友達が。僕なんて、友達って呼べるのは比呂と――篠宮くらいのものだよ」


 いつものことながら、あのコンピューターには感謝する。こうまで上手いフォローが、さらりと出てくるのだから。


 僕の言葉に、篠宮はいつもの笑顔に戻った。

 だけど気のせいだろうか、その横顔は、少しだけ憂いを帯びているように見えた。


「うん。確かに友達はみんな大好きだよ。でも、なんか違うんだよね……。学校帰りに寄り道したりとか、誰かの家に集まって遊んだりとか……わたし、したことないんだ」


 それは――そうだろう。

 結局はみんな、上辺だけの付き合いだ。

 だが、そんなことはわかっていても口に出すことは許されない。


 大島さんからの指示もないので黙っていると、篠宮が続けてくれた。


「ねぇ、山口君。今日は学校も早く終わるし、この後わたしの家に来ない? 色々、話したいこともあるし……」


 篠宮はそう言って、頬を赤らめながらじっと見つめてきた。


 これは……予想外の展開だ。

 果たしてコンピューター――もう一人の篠宮理恵は、この事態にどう対処するのだろう?


「え……? う、うん。いいよ」


 ――了承、だった。

 それも無理はないか。

 彼女のご機嫌を損ねることは、世界に大混乱をもたらしかねない。返答は、なるべく彼女が喜ぶように……。


「ホント!? ああよかった。それじゃ、また放課後に」


 篠宮は安堵したように手を胸に当て、満面の笑顔で答えた。


 ――心臓の辺りが、ちくりと痛んだ。

 僕の内心を知ったら、彼女はどんなに傷つくだろうか。


「うん。楽しみにしてるよ」


 そしてまた、心にもないことを言う。


 全ては、彼女の笑顔を守るため――

 僕は僕を壊しながら、嘘をつき続ける。



「わぁ、桜が満開だね」


 放課後。

 僕と篠宮は一緒に下校し、彼女の家に向かっていた。そしておそらくホークも、いつものように僕らを尾行しているはずだ。


 ――その途中、公園の桜が目に止まった。

 淡いピンクの花と、一面の青空。

 息を吸い込むと、春の香りがした。


『カツキ君。その桜の花を背景に理恵の写真を撮ってみて』


 なるほど。今日はカメラも持ってきているし、いいかもしれない。篠宮は――すっかり桜に見とれてしまっている。撮るなら今しかない。


 フィルムを巻き上げ、レンズのピントを合わせる。あとはシャッター速度と絞りを決めて――


「篠宮」

「え? なに?」


 名前を呼ばれた篠宮が振り向いた瞬間。

 ――カシャ。


「あ……!!」


 実際に現像してみないとわからないけど、いい写真が撮れたと思う。


 満開の桜をバックに、振り向く少女――シチュエーション的にはバッチリだ。あとは光線の入る角度や光量次第だけど、それも問題ないだろう。


「今……写真撮ったね?」


 少しだけ口を尖らせて、篠宮が聞いてきた。


 ――まずい。怒らせたかな? でも、僕は指示通り動いただけだし……。

 結局はあのコンピューターを信じるしかない、というのが情けないが。


「ゴメン。桜に見とれてる篠宮が、あんまりにいい表情するものだから、つい」

「でも、撮るなら撮るで教えてくれてもいいじゃない」

「だって前もって教えたら、緊張して自然体じゃいられないでしょ?」

「それは……たぶん」

「ね? だからさ。きっといい表情で写ってると思うよ」

「そういうことなら、仕方ないのかな……? でもでも! 今度からはちゃんと教えてよ!」


 そう言って、大げさに怒ったそぶりを見せる。それが照れ隠しなのは、僕にもよくわかった。


「うんうん。わかったよ」


 コンピューターの力を借りているとは言え、自然な会話だと思う。コンピューターに任せておけばいいという安心感からか最近は肩の力も抜け、自然に『演技』することができる。


 そのせいだろうか――心的負荷ストレスが減り、以前感じた『違和感』も最近はあまり感じなくなった。やはりホークの言う通り、一過性のものだったのだろう。


「そう言えば、山口君ってカメラ好きだけど、将来はプロのカメラマンを目指してたりするのかな? だったらすごいんだけどなぁ」


 ――プロのカメラマン、か。

 正直、考えたこともなかった。


 僕にとって写真を撮ることは、姉さんのためというのが元々の動機だし。いつしかただ単純にカメラや写真が好きになっていたけど、だからといってそれで何台もカメラを集めたりとか、写真のコンテストに送るということもない。

 趣味の範疇を出ていない。


「プロ、かぁ――」


 コンピューターは、ここでどんな回答をするのだろうか?

 軽はずみに「プロを目指す」とか言わされてしまったら、僕はその気もないのにプロを目指さなくてはならない。

 心臓の鼓動が早まる。


「――正直、あんまり考えてなかったなぁ。そりゃ、好きなことして食べていけたらいいけどね。なれるものならなりたいけど、今の僕の実力じゃ、まだまだ無理だよ。趣味の範囲内だよね」


 よかった。

 彼女の期待を裏切ることなく、かといってプロを目指すと明言したわけでもない。ベストな回答だ。


 さすが、僕のデータも加味したコンピューター。僕の思考を再現しつつも、限りなく彼女の要求に応えられるような回答を用意してくれる。


 篠宮も納得したようにうんうんとうなずきながら、


「そっか。そうだよね。趣味は趣味だもんね。でもほら、生徒会長が言ってたみたいに、山口君もチャレンジしてみたら? 試しにコンテストに送ってみたりとか」


 と、提案してきた。


「そうだね。そこからなにか始まるかもしれないしね」


 確かに、コンテストに送るくらいなら実行してもいいかもしれない。プロになる! みたいな気負いがない分、肩肘張らずにいい写真が撮れるかもしれないし。


「あ、着いたよ。ここがわたしの家」


 どうやら話をしているうちに、篠宮の家まで着いてしまったらしい。


 でも困ったな。話に集中していたから、道なんか覚えてないや。こりゃ、帰りもわかるところまで篠宮に送ってもらうしかないかな……?


「ただいま。さ、山口君も」

「うん。おじゃまします」


 僕と篠宮は靴を脱ぎ、玄関に上がった。

 するとすぐ近くのドアが開いて、篠宮のお母さんらしき女性がにこにことした笑顔で挨拶に現れた。


 ぱっと見は、若いお母さんだ。もしうちの母親と同年代なら、かなり若々しい。


「あらあら。いらっしゃい。あなたが山口君ね? ホント、うちの理恵がいつもお世話になって……。あの子ったら間が抜けてるというか、ドジなところがあるでしょ? ご迷惑をかけてなければいいのだけど」

「いえ、迷惑だなんて。篠宮さんがいれくれるので、僕も毎日楽しいですよ」


 どうやらこのコンピューターはお世辞も言えるらしい。つくづく、よくできた機械だ。


 それにしても、身内を他人に会わせるというのは、やはりみんな恥ずかしいようだ。余計なことまで言われたせいか、篠宮も真っ赤になっている。


「もう、お母さんったら! そんなこと言わないでよ! あ、山口君、わたし部屋片付けてくるから。ちょっと待ってて」

「ん。わかった」


 篠宮が階段を駆け上がっていく。

 僕と篠宮のお母さんの二人は、そんな篠宮を微笑ましく見送った。

 上りきったところで勢い余ったのか「きゃっ!」という声とばたん! という派手な音が聞こえてきたが、それも愛嬌のうちだろう。


 だが、篠宮の足音が二階に消えていくのを確認すると、篠宮のお母さんは神妙な顔つきで僕を見据えた。こうしてよくよく見ると、顔にはしっかりとしわが刻まれていた。


 ――運命の子供の母親。

 その苦労は、やはり、並大抵のものではないのかもしれない。


「詳しい事情は、フェイトのホークさんから聞いております。本当に、ご迷惑をおかけします」


 そう言って、深々と頭を下げた。


『勝紀君。コンピューターからの指示はない。君が普段思っていることを、君の言葉で話せばいい』


 尾行が終了したのだろう、移動指示車に戻ったホークからだった。


(……はい)


 とは言え、なにを話そう?


 確かに篠宮と付き合い始めてなにかと気苦労も増えた。生活にも制限が増えた。

 変化は大から小まで、それこそ数え切れないほど起こった。

 しかも、そのほとんどがマイナス要素だ。


 それでも、この初老の女性に恨み言を言うのは、なにか筋違いな気がする。

 彼女だっておそらく、僕と同じような苦労を、それこそ篠宮が生まれたときからしてきたのだろう。


 篠宮関係のことは全てコンピューターが決定していたせいか、自分の頭で思考するのがこんなに大変な作業だったと、再確認してしまう。


「……こちらこそ、ごめんなさい」


 そして、出てきたのはそんな言葉だった。

 案の定、篠宮のお母さんは目をぱちくりとさせて僕を見ている。


「僕は……ずっと篠宮さんを騙しています。彼女のことを好きでもないのに、付き合って……いいえ、付き合っているフリをして。彼女には、すまないと思っています」


 ――そう。やっぱり、これが僕の正直な気持ちだ。


 篠宮のお母さんは唖然とした表情で僕を見ていたが、しばらくすると、やんわりと微笑んでくれた。

 やはり親子だ。

 その笑顔は、どこか篠宮と似ていた。


「ありがとう。そう言ってくれると、私も救われるわ。それに――」

「それに?」

「――あの子が、理恵があなたのことを好きになった理由わけ、わかった気がする」


 篠宮が、僕を好きになった理由わけ――?

 そんなこと疑問にも思わなかった。そう言えば、なんでだろう?


「え……? それって、どういう――」

「あ、お待たせー!! やっと部屋の片付け終わったよ。さ、どうぞどうぞ」


 僕が真意を問い質そうとすると、篠宮が会談の上から顔だけを覗かせて声を張り上げた。

 篠宮のお母さんは、うふふと笑って口元を手で隠しながら、リビングに引っ込んでしまった。


「どうしたの? さ。こっちだよ」

「あ。うん。今行くよ」


 僕は生返事を返すと、彼女に勧められるまま階段を上り、部屋にお邪魔した。


「へぇ……」


 部屋に入ってまず目についたのは、部屋いっぱいに詰め込まれたぬいぐるみの山だった。

 ウサギやクマなどの定番はもちろん、カッパやカエルなどのぬいぐるみもあった。彼らには一人一人名前がついているのだと、彼女は照れながら教えてくれた。


 篠宮はクッションを二個引っ張り出して、片方を僕に手渡した。二人向かい合うように座ると、篠宮は手近にあったクマのぬいぐるみの頭を撫でながら話し始めた。


「ほら。わたしって小さい頃から特別に親しい友達っていなかったから。学校から帰ると、この子たちが遊び相手だったんだ」


 想像してみる。


 学校ではみんな不思議と優しくしてくれる。

 でも、家にまで遊びに来てくれる友達はいない。学校が終わってから、一緒に遊ぶような友達もいない。

 そして、一人ぬいぐるみたちに話しかける――


 それは、どんなに寂しいことだろう。

 それは、どんなに辛いことだろう。


 篠宮はずっとそうやって生きてきた。

 でも、これからは――


「――大丈夫。これからは、僕が遊び相手になるよ」

『大丈夫。これからは、僕が遊び相手になるよ』


 ――!!

 おかしい。

 まさか、今――!?


『カツキ君。きみ、今のは――!?』


「山口君……あ、ありがとう」


 篠宮は照れながら礼を言った。

 だが、僕の内心はそれどころではなかった。


 今、僕は確かに――

 大島さんの指示より、先に言葉を発していた。


 あの日。移動指示車の中でホークに聞かされた言葉が脳内を巡る。


《指示以外の行動は厳禁。命令違反は厳罰》


 さっきのは、命令違反に当たるか否か……!?


『勝紀君。この問題は一時的に俺が預かる。今はただ、理恵と円滑なコミュニケーションをとることだけを考えろ』

(は、はい)


「……どうしたの? 顔色、悪いよ」

「あ。ちょっとね。女の子の部屋に入るのは初めてだから、緊張しちゃって」


 こんなときでもコンピューターからの指示は冷静で、効果的だ。さすがは機械。

 篠宮はくすっと笑い、


「そうなんだ。わたしも、誰か友達呼んだのは初めてだよ。じゃあわたしたち、初めて同士だね。あ、それでね――」


 篠宮は棚からフォトアルバムを取り出すと、僕に開いて見せた。


「――今日はね、これを山口君と一緒に見ようと思って」

「へぇ、アルバムか。いいね。僕も篠宮の子供の頃の写真って、見てみたいし」


 そして、僕たちはアルバムを挟んで話し出した。


 まずは、赤ん坊の頃。

 そして幼稚園から小学校、中学校と順を追い、高校。

 入学式と夏の臨海学校を経て、次のページ。秋の文化祭。そこで僕は、他の写真たちとは明らかに異質な数枚を発見してしまった。


 眼鏡をかけて写っている、篠宮の写真。

 だが、異質なのは彼女自身ではない。

 ――写り方そのものが異質なのだ。

 これは、そう――僕のカメラで撮った写真だ!!


 僕は驚いてアルバムから顔を上げ、無言で篠宮を見つめる。

 彼女は僕の反応がわかりきっていたかのように口を開いた。


「あ、やっぱり気付いた? そうだよ。その写真、山口君に撮ってもらったんだよ。覚えてないのも、しょうがないかもしれないけどね」


『勝紀君。覚えているか?』

(いえ、すいません……)


 僕は篠宮には聞こえないよう、小声で応答した。


『よし。詳細を思い出したら連絡をくれ。俺からお母さんに協力を仰ぎ、理恵をその部屋から一時的に遠ざける。その隙に、こちらに詳細を教えてくれ。こっちも過去の監視の記録を検索して、それらしき出来事を探してみるが、コンピューターに正確かつ詳細な情報を入力しないことには、会話もままならない。頼むぞ』

(了解)


 僕はこの間ずっと、なにかを思い出そうとしている困った表情を維持している。演技もここまでくれば大したものだと、自画自賛する。


「あ、無理に思い出そうとしなくていいよ」

「この写真、文化祭のときだよね? だとすると――あ、まさか!」


(ホークさん、思い出しました!)

『さん、は不要だ! よし、ちょっと待ってろ!』


 僕はぶつぶつと独り言を言うフリをして、ホークに連絡した。するとすぐに、階下から篠宮を呼ぶ声がした。


「あ、はーい!! もう、いいところなのに。ゴメン。ちょっと待っててね」


 そう言って、篠宮は足早に部屋を出て行った。

 ばたん、と扉が閉まる音を聞いてから、僕はホークに詳細を説明する。


「思い出しました! あれは、そう、文化祭の様子を撮ろうと屋上に上ったときです。偶然、その屋上に篠宮がいて――それでそう、話の流れで写真を一枚撮ったんです」


『ちょっと待て……よし! こちらでも、君が言っている通りの出来事の記録を見つけた。その際の彼女の心情も、バッチリ記録済みだ。後は任せたまえ。しっかりサポートする』

「はい。お願いします」


 そう言い終わるか終わらないかの瀬戸際、ドアが静かに開いた。


「ゴメンゴメン。ホント、お母さんったら気が利くんだか利かないんだか……」


 ちょっとだけ困ったような顔をしながら、ジュースとお菓子の乗ったトレイを持って篠宮が入ってきた。


「あ、どうもありがとう。後でちゃんとお礼を言わないとね」


 篠宮はさっきと同じように僕の向かいに腰を下ろし、ジュースを手渡した。


「うん。お母さん、わたしが初めて友達を連れてきたものだから、喜んでるのね。きっと。あ、それで、さっきの話の続きだけど」

「うん。思い出したよ。文化祭のあの日、屋上で会ったんだよね」

「そうそう! よかった。思い出してくれたんだ」

「ちょっと時間がかかったけどね。でもびっくりしたよ。まさか文化祭の日に、屋上に上るような物好きが、僕の他にもいたなんて」

「あ、それ。あのときも言われたっけ。なんか懐かしいな」


 そう。

 僕はあのとき、眼鏡をかけていた彼女が運命の子供、篠宮理恵だとはわからず、なにも考えずに思ったままのことを口にしてしまっていた。今考えると、まさに神をも恐れぬ蛮行だったと思う。


 それというのも、男子と女子ということもあって接点はさほどなく、あの当時は『同じクラスに運命の子供がいる』という程度の認識だったからだ。それ以前に他人とあまり深い関係を持とうとしなかった僕が悪いといえば悪いのだが。


 篠宮はさらに続けた。


「それでわたしが、『なんでこんなところに?』みたいなことを聞いたら、『ちょっと、文化祭の風景を撮りに』って言うから」

「ああ、そうだっけ。思い出してきたよ。それで篠宮が『今日はコンタクトを無くして度の合ってない眼鏡で来たから、せっかくの文化祭もよく見えなくて楽しめない』って言うから」


 そうだ。

 このカメラは姉さんの代わりに世界を撮るためのものだ。

 そしてあの一瞬、姉さんと篠宮がだぶって見えて――。


「うん。山口君は『じゃあ、今日は一日、このカメラを君の目の代わりにして文化祭を撮って回るよ』って言ってくれて。嬉しかったなぁ」


 篠宮は目を細めて微笑んだ。


 その後、僕らはそのままカメラ片手に校内を巡り……別れ際、僕は『写真を渡すためにクラスと名前を聞かないと』と思って、篠宮に「クラスと名前は?」なんて聞いてしまったんだ。

 そして彼女が篠宮だとわかって、僕は自分の行いに身が震えた。それ以来だ。僕が運命の子供という存在を意識するようになったのは。


 そうだ。なんで今まで忘れてたんだろう……? たかが半年前のことなのに。


「でもそのとき、僕は君が篠宮だって気付かなかったんだよね。いや、ゴメン」


 彼女は軽く首を振って否定した。


「ううん。わたしだって山口君のことはなんとか顔と名前が一致する程度だったから。わたしのほうは眼鏡かけてたんだもん。気付かなくてもしょうがないよ。でも、そのときからだよ。わたしが――山口君を好きになったのは」

「え……?」


 照れ隠しなのだろう、篠宮はクマのぬいぐるみを抱き寄せ、クマの手足をぱたぱたさせて遊んでいる。「ねぇー?」とか、クマに話しかけている姿がなんとも彼女らしく、微笑ましかった。


 そうか。

 篠宮が言ってた話したいことって、このことだったのかな――?


「あ、そうだ。それとね――」

 急に真顔に戻った篠宮が、クマさんを横に置いて話しかけてきた。

「今日、生徒会長が言ってたよね? 新しいことにチャレンジ、って」

「うん。いい話だったよね」


 それはいいのだが、どうしたのだろう? 今日の篠宮は、やけにこの話をするような気がする。


「でね。わたし、実を言うと子供の頃からの夢があるんだ。それでわたし、やれることはやってみようと思って」


 ――なるほど、そういうことか。


「へぇ、すごいや。篠宮の夢ってなんなの? 聞きたいな」

「……ホントに聞きたい?」

「うん。もちろんだよ」


 篠宮は大きく深呼吸すると意を決したように立ち上がり、リモコンでCDコンポの電源をオンにした。そしてベッドの上に乗り、リモコンをマイクに見立ててリズムを取る。


 篠宮の夢って、まさか――!?


(アイドル……ですか?)

『その通りだ。勝紀君。彼女が夢を持つこと自体はいい。だが、夢に挑戦し敗れたとき――彼女が受けるダメージは計り知れない』


 流れる音楽に歌声を乗せて、篠宮は踊り始めた。


 もしかすると毎日こうして、一人で練習を続けていたのかもしれない。歌も踊りも、決して下手ではない。

だが本気でプロを目指すとなれば、話は別だ。


 夢というのは、やはりそう簡単には叶わないから夢というのだろう。これから本格的に歌や踊りのレッスンを受ければ、その夢が叶う日が来るかもしれない。


 しかし、今はまだ――。


 音楽が終わり、篠宮は深々と頭を下げた。


『勝紀君。とにかくこの場は無難なことを言って乗り切るぞ。コンピューターも、この時点で過度の自信を持たせるのは危険だと分析している。――さぁ、まずは拍手だ。控えめとまではいかないが、若干抑え目でな』


 僕は言われるまま、ベッドの上の篠宮に拍手を送った。


「あ、ありがと。はは。やっぱ照れるね。で、どうだったかな? わたしの歌?」


 ――やはり、そう来るか。


 僕はホークの指示に従いながら、彼女に自信をつけさせすぎないよう、声のトーンに注意して話し始めた。


「うん。よかったよ。篠宮、別に歌のレッスンを受けてるわけじゃないよね?」

「うん。独学だよ。CD聴きながら歌って」

「それでここまで歌えるのはすごいよ。ちゃんと歌のレッスンを受ければ、もっともっと良くなるんじゃないかな?」


 つまり、これは遠まわしに『レッスンを受けないと、現時点ではまだまだ』と言ってるようなものなのだが……。

 篠宮はちゃんと理解してくれているだろうか?

 いや、うがった見方をされて、怒り出されても困ると言えば困るのだけど。


 一曲歌いきって緊張の糸が切れたのだろうか。

 篠宮はベッドの上にぺたんと腰を下ろし、唇に人差し指をやりながらちょっと困った顔をした。


「うーん。歌のレッスンかぁ。受けてみたいけど、お母さん、許してくれるかな?」

「まずは相談してみたら? 夢を叶えるためには、なにはなくとも努力だよ。あの生徒会長だって言ってたじゃない? やれることは全てやってみよう、って。意味合いは違うけど、夢だって同じじゃないかな。夢を叶えるためにやれることは、なんでもやってみたほうがいいよ」


 さすがはコンピューター。

 決して彼女の機嫌は損ねないよう、細心の注意を配りながらも、確実で堅実なアドバイスをしている。


「そっか……。うん。そうだよね。わたしもわたしなりの方法で、色々試してみるよ」


 これは『自分がまだ力不足である』ことを理解したと受け取っていいのだろうか。


「山口君も、写真がんばってね! ……って、山口君は別にプロを目指してはいないんだっけ」

「まぁね。でも、これからはそれも視野に入れて、写真撮っていくよ」


 プロか――

 今日まで意識したことはなかったけど、そういう道もあるのかもしれない。けれど、それはまだ選択肢のひとつ。僕にとっての写真は、やっぱりまだ趣味だ。


 気がつくと、部屋には赤い陽が差し込んでいた。いつのまにか夕方になってしまったようだ。


「うん。それじゃ、お互いがんばろうね。今日はありがと。いろんな話ができて、楽しかったよ」

「こちらこそ。それじゃ、今日はそろそろ。お邪魔したね」

「ううん。よかったら、また遊びにきてね。あ、帰り道わかる? その辺まで送ってくよ」


 渡りに船だった。

 話に集中しすぎたせいか、道順なんかまったく頭に入っていない。


 しかし、大島さんの指示は僕の思考と相反していた。


「いや、大丈夫だよ。ありがとう」

「そう? ならいいけど。それじゃ、また明日ね」

「うん。また明日」



 そうして、僕は篠宮と篠宮のお母さんの笑顔に見送られながら家の玄関を後にした。


 その直後。

 夕日をバックにホークが現れた。


「勝紀君。忘れていないか? 君は命令違反ギリギリの行動をしたことを。そのことで話がある。ちょっと、来てもらおうか?」


 ――そうだった。忘れていた。


「はい。わかりました」



「――さて、せっかく来てもらってなんだが、君の弁明を聞く必要はない。結果だけがすべてだ」


 そう言って、ホークは指を鳴らした。

 スピーカーから、僕と大島さんの声がだぶって聞こえてきた。これは――


「そう。問題の発言を録音したものだ。断っておくが、編集などは一切していない。それで、今こうして改めて聞いてみて――どうだね?」

「はい。僕のほうが、わずかですけど――『先に』言っています」


 ホークは机に肘をつき、両手を顔の前で組み合わせ、


「命令違反は厳罰――だったな?」


 僕を見据えて言った。


 そう。勝手な言動や行動は厳罰。

 それは十分わかっていたはずなのに、あのとき、僕の口は勝手に動いていた。川の流れが上流から下流へ流れるように、その言葉はごく自然に、僕の口から流れ出ていた。


 だが、いくら悔やんだところでもう遅い。

 僕は、覚悟を決めた。


「――はい」

「よろしい。では今回の件について、君の処分を言い渡す。今回の件によりー―君の監視を強化させてもらうことにする」

「え……?」


 今、なんて言ったのだろう?

 監視の強化、と聞こえた気がしたけど――!?


「聞こえなかったか? 監視の強化、だ。なんの偶然かは知らんが、君の言葉とコンピューターが指示した言葉は、一言一句たりとも相違なかった。それに、会話の流れからしてもごく自然な発言だった」

「あ……! はい、ありがとうございます!」


 僕は深々と頭を下げた。

 ホークは無精髭まみれのあごを、ぽりぽりとかきながら、


「あぁ、うむ。こういう措置は、本来は許されないのだがな。さっきも言っただろうが、『結果がすべて』だ。結果として君の発言は我々の望む結果をもたらした。そういうことだ」


 僕から目をそらしてそう言った。

 と、大島さんがこっそりと僕に耳打ちしてきた。


「あれでも隊長は照れてるのよ。よっぽど君のことが気に入ってるのね。今回の件だって、上には報告しないでもみ消すらしいわよ?」

「こら貴様! 余計なことは言うんじゃない!」


 そうか――

 ホークは僕のことをかばってくれたんだ。

 それなら僕も、それ相応の礼儀を尽くさないと。


「はい。これからは勝手な発言は慎みます」


 そう言って、もう一度深々とお辞儀した。

 ホークはコホンと咳払いして、僕を指差しながら表情を引き締めて言った。


「その通りだ。今回はあくまで特例。勝手な行動を容認したわけではないということを理解してくれ。その意味合いも含めての、監視強化なのだからな」

「はい。了解しました」


 僕がそう言うと、ホークは少しだけ口元を緩めた。


「よし、では本日は解散――」

「た、隊長! 大変です!」


 大島さんの慌てた声が、車内に響いた。


「どうした!?」

「これを!」


 モニターの映像が切り替わった。


 篠宮が机に向かい、なにかを書いている。

 その手元が徐々に拡大されていき――


「――オーディションの……応募用紙だと!?」


 そんな、まさか――!?


 僕は言葉を失った。

 なぜだ? さっきの会話の中では、今すぐにどうこうするという素振りはなかったはずだ。


 と、なにかに気付いたホークが机をどん! と叩いた。


「そうか! 『色々試してみる』とは、こういうことだったのか!」

「あ――!!」


 彼女は僕に言っていた。

 写真のコンテストにでも送ってみるとか? と。


 彼女の言う色々試すとは、ダメ元でオーディションに応募してみる、ということも含まれていたのかもしれない。


 だが今までの彼女に、そんな積極性はなかった。

 変化の契機となったのは、おそらく――


「生徒会長の言葉……」

「あの小娘――か、余計なことをしてくれた」


 ホークは舌打ちしながら毒づいた。


「ど、どうなるんですか? これから……」

「彼女を傷つけることは絶対に避けねばならない。と、いうことはつまり、だ。彼女の実力どうのは関係なく――必ずオーディションに合格する」


 ホークは苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。

 しかし、そんなこと――


「あるんですか? 本当に?」


 ホークは両手で机をガン! と叩き、激昂した。


「ある、じゃない! 『そうさせる』しかないんだよ!! 例えどんな手段を使おうとな!!」


 ――不正。


 フェイト、いや、その上の『運命省』の権力を使えばたやすいことかもしれない。


 だが、今はこれで済んでも、その次――アイドルとしてデビューした後は?

 アイドルとして経験するだろう、挫折や苦労、そのすべてを極秘裏に処理する。そんなことが、本当に可能なのだろうか?



 春――。


 出会いと別れ。

 そして始まり。

 運命が交差する季節。


 僕と彼女、そして世界の運命も、今、大きく動き始めようとしていた。

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